Side:和葉 2025年1月17日(金)
放課後、制服の上からマフラーを巻き直して、私は商店街の角を曲がった。
冬の夕方は暗くなるのが早い。まだ十七時前なのに、店先の灯りがもうしっかり目立っている。喫茶店のガラス越しにも、あたたかい色が見えた。
「こんにちは」
扉を開けると、小さなベルが鳴る。
「はい、こんにちは。ちょうどよかったわ。和葉ちゃん、先にテーブル拭きお願い」
奥さんがカウンターの向こうから声をかけてくる。
「はい」
エプロンをつけて、手を洗って、布巾を取る。最初のころはそれだけで少し緊張していたのに、今は体が先に動く。
今日は平日だから、店は満席ではない。でも、ぽつぽつとお客さんが入ってくる時間帯だ。窓際には新聞を広げている常連さん。奥の席には、商店街で見かける顔の二人組。カウンターではマスターがコーヒーを落としていて、店の中に苦くてやわらかい匂いが満ちていた。
「和葉ちゃん、このお水お願い」
「はい」
トレーを持って、席へ向かう。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
顔を上げた常連さんが、少し笑った。
「もうすっかり慣れたねえ」
「まだまだです」
「いやいや。最初よりずっと堂々としてる」
そう言われると、少しくすぐったい。私は小さく頭を下げて、空いたグラスを下げた。
最初の一回は、本当に“お試し”だった。
ちゃんと邪魔せずに動けるか。挨拶はできるか。店の空気に馴染めるか。
でも、何度か通ううちに、覚えることは少しずつ増えていった。
どのテーブルの足が少しぐらつくか。砂糖の補充をするタイミング。コーヒーカップは重ねすぎない方が安全なこと。奥さんが忙しいときは、言われる前に水を足しておくとちょうどいいこと。
そういう小さなことが分かるようになるのが、少し楽しい。
「和葉ちゃん、これ運べる?」
振り向くと、湯気の立つグラタン皿が二つ並んでいた。
「はい、大丈夫です」
「熱いから気をつけてね」
両手でしっかりトレーを持つ。皿の縁から立つ匂いが、空いたお腹にちょっとだけ厳しい。
テーブルに置くと、お客さんが「わあ」と笑った。
「美味しそう」
「ごゆっくりどうぞ」
言ってから、少しだけ胸の中で息をつく。
最初のころは、その一言も固かった。今はまだ緊張するけど、前よりちゃんと笑えている気がする。
忙しい時間がひと波過ぎると、店の中に少し落ち着きが戻った。
私はシンクでカップを洗いながら、袖口を少しだけ上げ直す。
「和葉ちゃん」
「はい」
「来週、水曜もお願いしていい?」
奥さんの声に、私はすぐ頷いた。
「大丈夫です」
「よかった。助かるわ」
その一言が、思っていたより嬉しい。
役に立てているんだ、と思うと、背筋が少しだけ伸びる。
閉店の時間が近づいて、テーブルの上の砂糖壺を戻し、布巾をすすぎ、最後のカップを伏せる。マスターが表の札を返して、店内の空気がひとつゆるんだ。
「お疲れさま」
「お疲れさまでした」
エプロンを外して畳む。ロッカー代わりの棚にしまって、鞄を手に取ったところで、奥さんが「あ」と声を上げた。
「和葉ちゃん、ちょっと待って」
「はい?」
差し出されたのは、白い封筒だった。
一瞬、何か分からなくて、私は目を瞬いた。
「十一月の分と、十二月の分。まとめてになっちゃってごめんね」
「……え」
「お給料」
その一言で、じわっと実感が追いつく。
「初めての、だからね。ちゃんと受け取って」
私は慌てて両手を出した。
「ありがとうございます」
受け取った封筒は、見た目より少しだけ重い。
軽いはずなのに、指先に残る感触がしっかりしている。
「帰ったらちゃんと中も見なさいね」
奥さんが笑う。
「はい」
「いい?働いた分をきちんと対価を受け取るところまでが仕事だから」
「……はい」
その言い方が、なんだか少し大人の世界みたいで、私は背筋を伸ばした。
店を出ると、夜の空気が頬に冷たい。
マフラーに顔を少し埋めて、鞄の中の封筒にそっと触れる。
自分で働いてもらったお金。
言葉にすると、まだ少し不思議だった。
信号待ちで、もう一度だけ鞄の中を確かめる。
ちゃんとある。
当たり前なのに、確認したくなる。
何に使おう、と思って。
すぐに浮かんだのは、自分のものじゃなかった。
家に、入れたい。
光熱費とか、食費とか、そういう言葉を全部きちんと分かっているわけじゃない。
でも、私はあの家で暮らしていて、ご飯を食べて、あたたかい部屋で寝ている。
そのぶんを、少しでも返したいと思った。
それから、少しだけ別の考えも浮かぶ。
いつきさんに何か買うとか。
でも、それはまだ少し恥ずかしい。
結局、帰るまでに決めきれないまま、私は家の玄関を開けた。
「ただいま」
「おかえり」
いつきさんはこたつの横の机でノートPCを見ていた。仕事の途中らしい。けど、声はいつも通りだ。
「寒かったろ」
「少しだけ」
マフラーを外して、手を洗って、こたつに入る。
それから鞄を膝の上に置いて、少しだけ姿勢を正した。
「いつきさん」
「ん?」
「これ」
白い封筒を、こたつの上に置く。
いつきさんの視線が落ちる。
「初給料です」
「そうか」
短い声。でも、そのあともう一度封筒を見てから言った。
「ちゃんと働いた分だな」
「はい」
胸の奥が、少しだけあたたかくなる。
私は封筒の端に指を置いたまま、続けた。
「それで、その……」
「うん」
「少し、家に入れたいです」
数秒、静かになる。
いつきさんは私の顔を見て、それから小さく息をついた。
「いらん」
予想はしていたけど、即答だった。
「でも」
「いらん」
「使わせてもらってるので」
「それとこれとは別だ」
声は強くない。でも、はっきりしている。
「お前は学生だろ。生活費なんか気にしなくていい」
「でも、私もここで暮らしてます」
「暮らしてるな」
「だったら」
「だったら、なおさらだ」
いつきさんは封筒を指先で押し戻した。
「それは和葉が働いた金だ。まず自分で使え」
「そんなに使うもの、ないです」
「あるだろ。文房具でも、本でも、服でも」
「でも」
言い返しかけて、少しだけ言葉に詰まる。
生活費として受け取ってほしい。
それがだめなら、せめて何か。
何も渡せないのは、少しだけ落ち着かない。
私の顔を見て、いつきさんが小さく眉を動かした。
「……なんだ」
「何か、返したいんです」
正直に言うと、自分でも少しだけ恥ずかしかった。
「初めてのお給料なので」
いつきさんは黙って、湯呑みを手に取る。
一口だけ飲んでから、少しだけ考えるように視線を落とした。
「気持ちは分かった」
「はい」
「でも、生活費としては受け取らん」
「……はい」
「何か買うのも、俺にはいらん」
「まだ言ってないです」
「言うつもりだっただろ」
図星すぎて、私は黙る。
こたつの中で足先が少し熱い。
そのとき、部屋の隅で丸くなっていた御子神さんが、ゆっくりこちらを見た。
いつきさんも同じ方を見る。
「どうしても使いたいなら」
「はい」
「御子神さんのやつ買え」
「え?」
「ちょっといい缶詰とか、いつもより高いやつ」
御子神さんが、名前を呼ばれたのが分かったみたいに耳を動かした。
「……それは、御子神さんが喜ぶだけじゃないですか」
「そうだな」
いつきさんは平然と言う。
「でも、この家で一番分かりやすく喜ぶ」
私は思わず吹き出した。
「たしかに……」
「あと、お前も気が済むだろ」
その言い方が少しだけ優しくて、私は封筒に手を置いたまま笑った。
「じゃあ、御子神さんに買います」
「それがいい」
「ちょっといいやつにします」
その瞬間、御子神さんが立ち上がって、こちらへ歩いてきた。
まっすぐ私の膝の前まで来て、当然みたいな顔で前足を乗せる。
「……聞いてたんですか」
私は膝元まで来た御子神さんの頭を撫でた。
満足そうに目を細める。
ご飯のあとはすり寄ってくる律儀な子だけど、こういう話にも妙に敏感だ。
「分かりやすいな」
いつきさんが小さく笑う。
私は御子神さんの額を指でなでながら、こたつの上の封筒を見た。
自分で働いて、自分でもらったお金。
それをどう使うか考えるのも、きっと大事なんだと思う。
「……少しだけ、中、見てもいいですか」
「自分のだろ。好きにしろ」
封を開けると、紙の匂いがした。
数えてみる。
思っていたより多い。多すぎるわけじゃない。でも、ちゃんと“働いた分”の重みがある。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
「どうだ」
「……すごいです」
「大げさだな」
「でも、すごいです」
自分で言って、ちょっと笑ってしまう。
御子神さんが私の膝に片前足を乗せたまま、封筒の方を見ている。
たぶん、中身じゃなくて、その先の缶詰を見ている。
「期待されてますね」
「だろうな」
「じゃあ、今度一緒に買いに行きます」
「誰とだ」
「御子神さんと」
「連れてけるわけないだろ」
いつきさんの即答に、私が笑う。
珍しく、そのあとでいつきさんも少しだけ口元を緩めた。
こたつの中はあたたかい。
机の上には開いた封筒。
膝の上には御子神さん。
働いてもらった初めてのお金なのに、使い道の一つ目が猫缶になるのは少し変かもしれない。
でも、それも悪くない気がした。




