2025年1月15日(水)
平日の昼間は、家の中が静かだ。
和葉が学校に行っているだけで、こんなに音が減るのかと思う。朝はちゃんといたはずなのに、湯呑みを洗って、机に向かって、一息ついたあたりでもう違和感になるあたり、だいぶ慣らされたらしい。
ノートPCの横に、メモ帳を置く。
仕事の合間、頭を切り替えるついでに、少しだけ考える。
和葉の進路のことだ。
看護。
口にするだけなら短いが、中身は軽くない。
普通の大学だって楽じゃないだろうが、あっちはたぶん、それ以上に生活ごと持っていかれる。講義だけ受けて終わりじゃない。実習もある。課題もある。人の命を扱う仕事の入口なんだから、片手間で済むはずがない。
勉強して、覚えて、慣れない場所に行って、神経を使って帰ってくる。
そのうえでバイトまで詰め込んで回るほど、余裕のある日ばかりでもないだろう。
……いや、余裕がなくても、あいつはやるか。
できるところまでやる、じゃなく、できなくなるところまでやりがちだ。
自分で止まれないなら、線引きだけは先に決めておく必要がある。
バイトは止めない。
あれは金のためだけじゃないし、和葉自身、家の外でやれることが増えるのをちゃんと楽しんでいる。喫茶店の空気も、店の夫婦も、あいつには合ってる。
ただ、学校に響くなら話は別だ。
メモ帳に、短く書く。
・学校優先
・体力を削るほどはやらせない
・テスト、実習で調整
・無理なら休む、減らす
そこまで書いて、ペン先が止まる。
たぶん一番大事なのは、金額の話じゃない。
続けられるかどうかだ。
学費。教材。実習着。交通費。
そのへんは、どうにかなるように考える。
和葉本人の金もあるし、足りないなら俺が埋めればいい。そこは最初から織り込んでおく。
問題は、金のために余計な体力を使わせないことだ。
学校が始まって、課題に追われて、それでも「少しでも自分で出したい」と無理をするのは、あいつなら普通にやる。
やるのが目に見えてるから困る。
今の家から通えるなら、その方がいい。
通学時間が読める。生活のペースも崩れにくい。飯も出せる。寝不足の顔をしてたら、その場で分かる。
当たり前のことを当たり前に回すには、そのくらい近い方がいい。
とはいえ、世話を焼きすぎて和葉の選択肢を狭めるのは違う。
必要がなくなれば、自分で出ていけばいい。
住む場所なんて、そのときの都合で決めればいいだけだ。
ただ――少なくとも今は、ここから通う前提で考える方が自然だった。
朝になれば和葉が起きてきて、制服の気配がして、帰れば「ただいま」がある。
台所で包丁の音がしたり、こたつの向こうでノートを広げていたり、御子神さんがその足元に丸くなっていたりする。
そういうものが、もう生活の一部になっている。
静かな家の真ん中でそこまで考えて、ひとりで少しだけ眉を寄せた。
慣れってのは厄介だ。
ない状態を想像したときの方が、不自然に感じる。
もちろん、息が詰まるような毎日にする気もない。
勉強ばかりで煮詰まるなら、あの二人が勝手に引っ張り出すだろう。
歩はそういうのが上手いし、朱鷺子はあれで見てないようでちゃんと見てる。
同年代と笑う時間まで、俺が管理する必要はない。
俺が気にするのは、もっと手前だ。
ちゃんと食って、寝て、通えて、続けられるか。
無駄な遠慮で、行ける道を自分から狭めてないか。
そのへんだけ見ておけばいい。
湯を沸かして、急須に茶葉を入れる。
ひとり分だと、なんとなく味が決まりにくい。
湯呑みに落ちる細い音を聞きながら、さっきのメモの端にもう一行足した。
・バイトは可、ただし学校優先。影響が出たら見直し
これでいい。
最初に釘は刺す。
けど、頭ごなしには止めない。
やりたいと思ってることまで奪う必要はないし、あいつもそこまで弱くはない。
弱くはないが、放っておいていいほど頑丈でもない。
その面倒くさい中間を見てやるのが、たぶん今の俺の役目なんだろう。
責任があるのは事実だ。
手を差し伸べた以上、途中で雑にはできない。
けど、それだけでここまで細かいことを考えてるわけでもない。
一緒に暮らすのは、べつに悪くない。
というより、普通に楽しい。
料理は前から嫌いじゃない。
ただ、一人で作って一人で食うより、食べる相手がいた方が張り合いはある。帰る時間を見て段取りを考えて、味の感想が返ってくるだけで、思ったより手間に意味が出る。
それに、教えるのも案外悪くない。
包丁の入れ方だの、火加減だの、こっちにとっては当たり前のことでも、和葉は妙に真面目に覚えようとする。そういう顔で見られると、つい余計なことまで口を出したくなる。
飯の感想を真面目な顔で言うところも、妙なところで意地っ張りなところも、褒めると少しだけ困った顔をするところも、見慣れた。
そういう細かいことまで含めて、もう今の暮らしに馴染んでいた。
机の端でスマホが震えた。業務連絡が一件。
画面を確認して、返信を打つ。そのあと何気なく時計を見る。
和葉が帰ってくるには、まだ少し早い。
湯呑みの湯気はもう薄い。
窓の外では、冬の陽が傾きはじめていた。
帰ったら、今夜あたり少し話すか――そんなことを考えながら、俺はメモ帳を閉じて仕事画面に戻った。




