Side:和葉 2025年1月11日(土)
土曜の昼は、平日より音が少ない。
窓の外は冷えているのに、部屋の中だけが先にぬくくなっていく。こたつのスイッチを入れて、湯を沸かして――それだけで、もう「やる気」みたいなものが少しだけ出る。
御子神さんは、こたつ布団の端を踏んでから、当然みたいな顔で丸くなった。
目は閉じていない。寝てるふりの警戒。
インターホンが鳴ったのは、その少しあとだった。
「はーい!」
ドアを開ける前から声がする。歩ちゃんだ。
案の定、扉を開けた瞬間に、冬の空気と一緒に元気が入ってきた。
「和葉ー! お邪魔しまーす! 御子神さん、あけおめ!」
「猫にあけおめって言うの、初めて見た」
「いいじゃん。今年最初なんだから!」
言い終わる前に、歩ちゃんが猫に向かってしゃがみこんだ。
「御子神さーん! 今日もかわいい!」
御子神さんは逃げない。逃げないけど、尻尾だけゆっくり動かす。
歩ちゃんの手が伸びかけて――そこで止まった。
「……自分から来るまで待ちなさい」
朱鷺子が、落ち着いた声で言う。
歩ちゃんの後ろから入ってきた朱鷺子は、コートをきちんと畳むのが先だった。猫を見るのは、その次。
「え、朱鷺子も猫好きなのに」
「好きよ。だからこそ、最初から触りすぎない」
朱鷺子は真顔で言って、御子神さんの方を見た。
御子神さんは、朱鷺子の視線を一回だけ受け止めて、また目を細める。賢い。
「ほら、来ない」
「来るって!」
歩ちゃんが小声で言い返す。二人の温度差がちょうどいい。
私は笑いながら、スリッパを出した。
「とりあえず、上がって。こたつ入って」
「やったー!」
「お邪魔します」
***
机の上にはノートと問題集。
こたつの上には、今日は温かいお茶。湯呑みが三つ並ぶと、それだけで少しだけ“ちゃんとしてる日”っぽい。
歩ちゃんは早々にこたつへ潜って、「出られない」と言い出した。朱鷺子はその隣で、ペンケースを開ける音が静かだ。
「じゃ、最初どこやる? 英語? 数学?」
「数学、やばい」
歩ちゃんが即答する。
「やばいの定義が広すぎる」
朱鷺子のツッコミはいつも通り。
「和葉は?」
「私も数学。基礎からちゃんとやりたい」
言ったら、歩ちゃんが「仲間!」と手を挙げた。
朱鷺子は「仲間って言う前に手を動かしなさい」と言って、ページを開いた。
数十分、ちゃんと勉強した。
歩ちゃんは最初だけは真面目に解いて、途中から眉間にしわを寄せて固まり、朱鷺子は淡々と「そこは式」と言い、私は途中で一度だけ答えの導き方を間違えて、静かに消しゴムをかけた。
そのとき、壁側の仕事机の椅子が小さく鳴った。
いつきさんが、背もたれから体を起こした音だ。
同じ部屋にいるのに、仕事中は空気が違う。
画面に向いている横顔を見るだけで、こっちも無意識に声が小さくなる。
しばらくして、いつきさんが椅子を引いて立ち上がり、台所の方へ向かった。
急須でお茶を注ぐ音がして、湯気がふわっと立つ。
歩ちゃんが、こたつの中からこっそり囁く。
「先生、出てくるかな」
「先生じゃない」
朱鷺子が即座に訂正する。歩ちゃんは「はいはい」と笑った。
そのままの流れで、いつきさんが小皿を持ってこたつの近くへ来る。
個包装のおせんべいが数枚。
「休憩するなら、これ置いとく」
「わー! 神!」
「神じゃない」
歩ちゃんのテンションに、いつきさんは淡々と返す。
「質問は?」
その言葉に、朱鷺子が顔を上げた。待ってたみたいに。
「あります。ここ」
朱鷺子は迷いなく問題集を指さす。
歩ちゃんも「私も!」と乗る。私は少しだけ遠慮して、ノートを抱えたまま様子を見た。
いつきさんは覗き込んで、短く言った。
「式を先に書け。言葉で考えるな」
朱鷺子がすぐに式を書く。歩ちゃんは「式って何」と言いそうな顔をして、朱鷺子に小突かれて黙った。
「ここ、分からないなら止めろ。勝手に先へ行くな。後で崩れる」
この言い方、昨日の“翻訳の話”を思い出してしまう。
私はノートの端を押さえながら頷いた。
「……和葉も?」
歩ちゃんが私を見る。
「うん。止める。ちゃんと聞く」
「えらい。私も止める」
「止める前に走り出すのをやめて」
朱鷺子が言って、歩ちゃんが笑った。
空気が少し柔らかくなったところで、いつきさんが湯呑みに目をやった。
「――で。今日は勉強会、ってことでいいんだな」
「はい」
「はい!」
「そうです」
三人の返事が重なる。
いつきさんは一度だけ頷いて、言った。
「場所は貸す。質問も、分かる範囲なら答える」
「やった」
歩ちゃんが小声でガッツポーズする。
でも、いつきさんはそこで止まらなかった。
「ただし、頻繁に来るなら親には話しておけ」
空気が一瞬だけ、きゅっと締まる。
叱る声じゃない。線を引く声だ。
「え、そこ?」
歩ちゃんが目を丸くする。
「そこ。高校生が男の家に集まってるんだ。知らないのは親が困る」
言い方が淡々としているから、余計に重くない。
でも、“当たり前”として出してくるのが、いつきさんらしい。
朱鷺子が小さく頷いた。
「合理的。母には言ってあります。父は単身赴任中なので」
「うちも言える! うちおおらかだし、兄も別に――」
「親に言え」
「そこね!」
その言葉は歩ちゃんと朱鷺子に向けたものだ。
何度もこうして集まっているのに、いつきさんはそこを曖昧にしない。――いつきさんらしい慎重さだ。
「それでいい。続けろ」
いつきさんはそう言って、仕事机の方へ戻った。
***
そのあと、私たちはちゃんと勉強した。
さっきより少しだけ集中できたのは、たぶん“ルール”ができたからだ。
分からないところは、朱鷺子が先に止める。
歩ちゃんは止める前に笑いを挟む。
私は、止めるのが遅い。分かっているのに、癖で進もうとする。だから意識して、ペンを置いた。
休憩のとき、歩ちゃんがふいに言った。
「でもさ、今年ってさ。地味にヤバくない?」
「急に現実」
朱鷺子が即答する。
「三年になるまで、もうすぐじゃん」
「だから今やってる」
「その“今”が偉いのよ」
朱鷺子の声は淡々としてるのに、ほめてるのが分かる。歩ちゃんが「やった」と笑った。
「和葉は、今年どうするの?」
歩ちゃんが聞いてくる。
進路の話じゃない。“今年”の話だ。
「……ちゃんと、積み上げる。いきなり増やしすぎないで、続ける」
「和葉、言い方かっこいい」
「かっこよくない」
「かっこいいよ。朱鷺子もそう思うでしょ」
「否定はしない」
朱鷺子が言って、歩ちゃんがニヤニヤする。
「ほら、ツンデレ」
「違う」
私は笑いながら、おせんべいの袋を開けた。
こういう空気だと、不思議と頭が回る気がする。
こたつ布団の上で御子神さんが小さくあくびをした。
歩ちゃんがまた手を伸ばしかけて、朱鷺子の視線に気づいて止まる。
「……待つ。待ちます」
「そう」
朱鷺子は満足そうに頷いた。
その数秒後、御子神さんが歩ちゃんの方へふいっと近づいて、膝に顎を乗せた。
「ほら来た!!」
歩ちゃんが声を上げそうになって、口を両手で押さえる。
朱鷺子は「学習したわね」と言って、私が笑った。
***
帰り支度をする頃、外はもう薄暗かった。
靴を履く前に、歩ちゃんが玄関で振り返る。
「今日、親に言うわ。うちなら余裕」
「余裕かどうかじゃない」
奥からいつきさんの声が飛んでくる。部屋までは出てこない。
でも聞いてるのが分かる距離。
「言えってこと!」
「そう」
歩ちゃんが笑って、朱鷺子を見る。
「朱鷺子も?」
「言う。母は納得すると思う」
朱鷺子は淡々と言ったあと、私を見た。
「次、いつにする」
「え、もう決める?」
歩ちゃんが嬉しそうに言う。
「決めた方が流れない」
朱鷺子の正論に、歩ちゃんが「それはそう」と頷く。
「来週はテスト近いから無理!」
「再来週」
朱鷺子が即決する。
「再来週の……日曜の午後なら、いける」
私が言うと、歩ちゃんが「決まり!」と拳を握った。
「再来週、日曜、午後ね!」
玄関の扉を閉める直前、私は部屋の中を一回だけ見た。
こたつ。ノート。湯呑み。
壁側の仕事机のモニタの光。
御子神さんは、もう歩ちゃんの膝から降りて、いつもの場所で丸くなっている。
外に出ると、空気が冷たかった。
でも、指先はさっきまでの湯呑みの温度をまだ覚えている。
再来週の日曜。午後。
そんな具体的な予定があるだけで、今年が少しだけ現実になった。




