表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
238/241

Side:和葉 2025年1月11日(土)

 土曜の昼は、平日より音が少ない。

 窓の外は冷えているのに、部屋の中だけが先にぬくくなっていく。こたつのスイッチを入れて、湯を沸かして――それだけで、もう「やる気」みたいなものが少しだけ出る。


 御子神さんは、こたつ布団の端を踏んでから、当然みたいな顔で丸くなった。

 目は閉じていない。寝てるふりの警戒。


 インターホンが鳴ったのは、その少しあとだった。


「はーい!」


 ドアを開ける前から声がする。歩ちゃんだ。

 案の定、扉を開けた瞬間に、冬の空気と一緒に元気が入ってきた。


「和葉ー! お邪魔しまーす! 御子神さん、あけおめ!」


「猫にあけおめって言うの、初めて見た」


「いいじゃん。今年最初なんだから!」


 言い終わる前に、歩ちゃんが猫に向かってしゃがみこんだ。


「御子神さーん! 今日もかわいい!」


 御子神さんは逃げない。逃げないけど、尻尾だけゆっくり動かす。

 歩ちゃんの手が伸びかけて――そこで止まった。


「……自分から来るまで待ちなさい」


 朱鷺子が、落ち着いた声で言う。

 歩ちゃんの後ろから入ってきた朱鷺子は、コートをきちんと畳むのが先だった。猫を見るのは、その次。


「え、朱鷺子も猫好きなのに」


「好きよ。だからこそ、最初から触りすぎない」


 朱鷺子は真顔で言って、御子神さんの方を見た。

 御子神さんは、朱鷺子の視線を一回だけ受け止めて、また目を細める。賢い。


「ほら、来ない」


「来るって!」


 歩ちゃんが小声で言い返す。二人の温度差がちょうどいい。


 私は笑いながら、スリッパを出した。


「とりあえず、上がって。こたつ入って」


「やったー!」


「お邪魔します」


 ***


 机の上にはノートと問題集。

 こたつの上には、今日は温かいお茶。湯呑みが三つ並ぶと、それだけで少しだけ“ちゃんとしてる日”っぽい。


 歩ちゃんは早々にこたつへ潜って、「出られない」と言い出した。朱鷺子はその隣で、ペンケースを開ける音が静かだ。


「じゃ、最初どこやる? 英語? 数学?」


「数学、やばい」


 歩ちゃんが即答する。


「やばいの定義が広すぎる」


 朱鷺子のツッコミはいつも通り。


「和葉は?」


「私も数学。基礎からちゃんとやりたい」


 言ったら、歩ちゃんが「仲間!」と手を挙げた。

 朱鷺子は「仲間って言う前に手を動かしなさい」と言って、ページを開いた。


 数十分、ちゃんと勉強した。

 歩ちゃんは最初だけは真面目に解いて、途中から眉間にしわを寄せて固まり、朱鷺子は淡々と「そこは式」と言い、私は途中で一度だけ答えの導き方を間違えて、静かに消しゴムをかけた。


 そのとき、壁側の仕事机の椅子が小さく鳴った。

 いつきさんが、背もたれから体を起こした音だ。


 同じ部屋にいるのに、仕事中は空気が違う。

 画面に向いている横顔を見るだけで、こっちも無意識に声が小さくなる。


 しばらくして、いつきさんが椅子を引いて立ち上がり、台所の方へ向かった。

 急須でお茶を注ぐ音がして、湯気がふわっと立つ。


 歩ちゃんが、こたつの中からこっそり囁く。


「先生、出てくるかな」


「先生じゃない」


 朱鷺子が即座に訂正する。歩ちゃんは「はいはい」と笑った。


 そのままの流れで、いつきさんが小皿を持ってこたつの近くへ来る。

 個包装のおせんべいが数枚。


「休憩するなら、これ置いとく」


「わー! 神!」


「神じゃない」


 歩ちゃんのテンションに、いつきさんは淡々と返す。


「質問は?」


 その言葉に、朱鷺子が顔を上げた。待ってたみたいに。


「あります。ここ」


 朱鷺子は迷いなく問題集を指さす。

 歩ちゃんも「私も!」と乗る。私は少しだけ遠慮して、ノートを抱えたまま様子を見た。


 いつきさんは覗き込んで、短く言った。


「式を先に書け。言葉で考えるな」


 朱鷺子がすぐに式を書く。歩ちゃんは「式って何」と言いそうな顔をして、朱鷺子に小突かれて黙った。


「ここ、分からないなら止めろ。勝手に先へ行くな。後で崩れる」


 この言い方、昨日の“翻訳の話”を思い出してしまう。

 私はノートの端を押さえながら頷いた。


「……和葉も?」


 歩ちゃんが私を見る。


「うん。止める。ちゃんと聞く」


「えらい。私も止める」


「止める前に走り出すのをやめて」


 朱鷺子が言って、歩ちゃんが笑った。


 空気が少し柔らかくなったところで、いつきさんが湯呑みに目をやった。


「――で。今日は勉強会、ってことでいいんだな」


「はい」


「はい!」


「そうです」


 三人の返事が重なる。


 いつきさんは一度だけ頷いて、言った。


「場所は貸す。質問も、分かる範囲なら答える」


「やった」


 歩ちゃんが小声でガッツポーズする。


 でも、いつきさんはそこで止まらなかった。


「ただし、頻繁に来るなら親には話しておけ」


 空気が一瞬だけ、きゅっと締まる。

 叱る声じゃない。線を引く声だ。


「え、そこ?」


 歩ちゃんが目を丸くする。


「そこ。高校生が男の家に集まってるんだ。知らないのは親が困る」


 言い方が淡々としているから、余計に重くない。

 でも、“当たり前”として出してくるのが、いつきさんらしい。


 朱鷺子が小さく頷いた。


「合理的。母には言ってあります。父は単身赴任中なので」


「うちも言える! うちおおらかだし、兄も別に――」


「親に言え」


「そこね!」


 その言葉は歩ちゃんと朱鷺子に向けたものだ。

 何度もこうして集まっているのに、いつきさんはそこを曖昧にしない。――いつきさんらしい慎重さだ。


「それでいい。続けろ」


 いつきさんはそう言って、仕事机の方へ戻った。


 ***


 そのあと、私たちはちゃんと勉強した。

 さっきより少しだけ集中できたのは、たぶん“ルール”ができたからだ。


 分からないところは、朱鷺子が先に止める。

 歩ちゃんは止める前に笑いを挟む。

 私は、止めるのが遅い。分かっているのに、癖で進もうとする。だから意識して、ペンを置いた。


 休憩のとき、歩ちゃんがふいに言った。


「でもさ、今年ってさ。地味にヤバくない?」


「急に現実」


 朱鷺子が即答する。


「三年になるまで、もうすぐじゃん」


「だから今やってる」


「その“今”が偉いのよ」


 朱鷺子の声は淡々としてるのに、ほめてるのが分かる。歩ちゃんが「やった」と笑った。


「和葉は、今年どうするの?」


 歩ちゃんが聞いてくる。

 進路の話じゃない。“今年”の話だ。


「……ちゃんと、積み上げる。いきなり増やしすぎないで、続ける」


「和葉、言い方かっこいい」


「かっこよくない」


「かっこいいよ。朱鷺子もそう思うでしょ」


「否定はしない」


 朱鷺子が言って、歩ちゃんがニヤニヤする。


「ほら、ツンデレ」


「違う」


 私は笑いながら、おせんべいの袋を開けた。

 こういう空気だと、不思議と頭が回る気がする。


 こたつ布団の上で御子神さんが小さくあくびをした。

 歩ちゃんがまた手を伸ばしかけて、朱鷺子の視線に気づいて止まる。


「……待つ。待ちます」


「そう」


 朱鷺子は満足そうに頷いた。

 その数秒後、御子神さんが歩ちゃんの方へふいっと近づいて、膝に顎を乗せた。


「ほら来た!!」


 歩ちゃんが声を上げそうになって、口を両手で押さえる。

 朱鷺子は「学習したわね」と言って、私が笑った。


 ***


 帰り支度をする頃、外はもう薄暗かった。

 靴を履く前に、歩ちゃんが玄関で振り返る。


「今日、親に言うわ。うちなら余裕」


「余裕かどうかじゃない」


 奥からいつきさんの声が飛んでくる。部屋までは出てこない。

 でも聞いてるのが分かる距離。


「言えってこと!」


「そう」


 歩ちゃんが笑って、朱鷺子を見る。


「朱鷺子も?」


「言う。母は納得すると思う」


 朱鷺子は淡々と言ったあと、私を見た。


「次、いつにする」


「え、もう決める?」


 歩ちゃんが嬉しそうに言う。


「決めた方が流れない」


 朱鷺子の正論に、歩ちゃんが「それはそう」と頷く。


「来週はテスト近いから無理!」


「再来週」


 朱鷺子が即決する。


「再来週の……日曜の午後なら、いける」


 私が言うと、歩ちゃんが「決まり!」と拳を握った。


「再来週、日曜、午後ね!」


 玄関の扉を閉める直前、私は部屋の中を一回だけ見た。

 こたつ。ノート。湯呑み。

 壁側の仕事机のモニタの光。


 御子神さんは、もう歩ちゃんの膝から降りて、いつもの場所で丸くなっている。


 外に出ると、空気が冷たかった。

 でも、指先はさっきまでの湯呑みの温度をまだ覚えている。


 再来週の日曜。午後。

 そんな具体的な予定があるだけで、今年が少しだけ現実になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ