Side:和葉 2025年1月6日(月)
冬休み明けの教室は、空気が少し固い。窓の下のストーブが小さく唸って、乾いた熱だけが足元を撫でている。誰かが持ち込んだみかんの匂いが、かすかに混じった。
席に鞄を置いて、マフラーを外す。冷えた机の天板に指先が触れて、思わず肩が上がった。
「和葉ー! 明けましておめでとう!」
結城歩ちゃんが、席から半分立ち上がる勢いで手を振ってくる。顔が明るい。冬休みのあいだ何度も連絡は取っていたのに、こうして実物を見ると「戻ってきた」って感じがした。
「おめでとう、歩ちゃん。今年もよろしく」
「よろしく! ねえねえ、冬休みどうだった? 病院のやつ、昨日で終わり?」
いきなり核心。歩ちゃんらしい。
「うん。昨日で最後だった」
「おお。生き抜いた顔してる」
「生き抜いてはないよ」
笑って返したところで、横から落ち着いた声が入る。
「そうでもないと思うけど」
朱鷺子が、椅子に座ったままこちらを見ていた。相変わらず姿勢がいい。制服の襟元も乱れがない。
「おはよう、和葉」
「おはよう、朱鷺子」
短いやり取りだけで、肩の力が抜けた。こういう“いつも通り”が、ちゃんと戻ってきている。
そのタイミングで委員長が教室に入ってきた。目が合う。委員長は立ち止まらずに言う。
「明けましておめでとう」
「おめでとうございます」
それだけ。委員長はそのまま自分の席へ向かった。変な間も、余計な空気も残らない。
歩ちゃんが小声で「普通に言えたじゃん」と囁いて、私は小さく肩をすくめた。
***
ホームルームが始まると、担任が出欠を取り、黒板にチョークで大きく文字を書いた。
『進路調査票 提出:来週金曜』
「はい。三年生です」
担任は淡々と言った。声のトーンはいつもと同じなのに、教室のざわめきが一段だけ小さくなる。
「なんとなくで書くんじゃないぞ。決めきれないなら、せめて方向性は出せ。あと面談の日程も配る。家の人と話しておけ」
プリントが前から回ってくる。紙が机に落ちる音が、妙に大きく感じた。
周りではすぐに声が上がる。
「え、もう面談?」
「受験勉強やば……」
「推薦って評定いくつだっけ」
その言葉が飛び交うたびに、胸の奥が少しだけ引き締まる。怖さが消えるわけじゃない。でも、冬休みの終わりに決めたことが、ちゃんと背中に残っていた。
私は調査票の「第一希望」の欄を見て、ペンのキャップを外す。
書ける。今なら。
けれど、ここではまだ書かない。教室で勢いよく書いて、あとから揺れたくない。紙をファイルに挟み直した。
自分のやり方で進めればいい。
***
昼休み。購買のパンを片手に、歩ちゃんと朱鷺子と並んで座る。教室の隅の席は、いつもの小さな居場所だ。
「で、病院どうだったの? 昨日がラスト?」
歩ちゃんが改めて聞いてきた。
「忙しかった。怖いところもあった」
「怖いって、何が?」
「人の健康に関わる場所なんだなって思うところ。あと、動き方ひとつで邪魔にもなるって」
言葉にすると、少しだけ肩が軽くなる。
朱鷺子がパンを口に運びながら、静かに言った。
「それでも行ったのね」
「行った。見て、決めた」
歩ちゃんが目を丸くする。
「決めたって、進路?」
「うん。看護でいこうと思う」
私が言うと、歩ちゃんの表情が一瞬だけ真面目になって、それからすぐに笑う。
「確定か。かっこよ。白衣似合いそう」
「まだ白衣って決まったわけじゃないよ」
「でも看護学生って時点でかっこいい」
朱鷺子が小さく頷いた。
「似合うと思う。あなた、ちゃんと現実を見て決めるし」
言われて少しだけ照れくさくなって、私はパンの袋をくしゃっと握って誤魔化した。
「現実、か……」
「現実といえばさ」
歩ちゃんがすぐに乗ってくる。
「受験勉強どうすんの? 三年ってやばいよね」
「やばい」
即答したら、二人が笑った。
「評定落とさないのと、模試はちゃんと受ける。あと苦手は潰す」
「具体的だなぁ。えらい」
「えらいっていうか、必要だから」
「その“必要だから”ができないんだよ、みんな」
歩ちゃんが腕を組んで大げさに唸る。
「で、喫茶店のバイトは? 続けるの?」
「続ける。元からそんな多くないし」
「減らさないんだ」
「減らす理由がないなら、変えなくていいかなって」
朱鷺子が「合理的」と短く言って、私はうなずいた。
「それに……ちょっと楽しみもあって」
「なに?」
「店長がね、コーヒーと紅茶の淹れ方、ちゃんと教えてくれるって」
「え、なにそれ。急にバリスタじゃん」
「バリスタじゃないよ。店で出すとかじゃなくて、教えてもらうだけ。家で淹れられたら、ちょっと楽しいかなって思って」
口にしてみたら、自分でも少し笑ってしまった。
「かっこいいし」
「言うじゃん!」
歩ちゃんが肩を揺らして笑う。
朱鷺子は、少しだけ目を細めた。
「いいと思う。努力の先に、楽しいがあるのは大事」
私は頷いた。
怖いところもある。やることも多い。
でも、全部が義務じゃなくてもいい。
***
午後の授業は、久しぶりのリズムのせいか少しだけ長く感じた。チャイムが鳴って、教室が片付けの音で満ちる。
「またねー!」
歩ちゃんが手を振って、部活の方へ消えていく。朱鷺子はプリントを整えながら、最後に一言だけ残した。
「無理しすぎないで。あなた、頑張り方が極端になりやすいから」
「うん。気をつける」
それを言う自分の声が、前よりもちゃんとして聞こえた。
教室に残る人が減っていく。窓際の席から見える空は、冬らしく高い。夕方の光が薄く、机の上に斜めの影を落としている。
私は鞄から進路調査票を出して、机の上に置いた。
第一希望の欄。
ペンのキャップを外して、紙の白さを見つめる。
怖い。
でも、目をそらしたくない。
昨日、こたつの灯りの下で見た白い封筒の角を思い出す。冬休みの終わりの証拠みたいに、ほんの少し光っていた。
私は小さく息を吐いて、文字を書く位置を確かめた。
焦らなくていい。
でも、止まってもいられない。
窓の外で風が鳴った。ガラスがかすかに震えて、教室の静けさが少しだけ現実になった。




