2025年1月5日(日)
午後のうちに、和葉へ一通だけメッセージを入れておいた。
『迎え行く。終わったら連絡しろ』
『夕飯の買い物もある』
病院の手伝いが今日で区切りなのは聞いている。
なら、帰り道の段取りも“冬休みの最後”っぽく、きちんと締めた方がいい。
夕飯の買い物を頭の中で組み立てながら歩く。
駅前の空気は冷えていて、頬の表面だけが先に痛くなる。
それでも、病院まで徒歩で行ける距離ってのは悪くない。
玄関前の自動ドアが開くたび、白い息がふわっと流れてくる。
人の出入りは途切れがちで、照明だけが妙に明るい。
スマホを確認した。
――まだ既読はついてない。
(片付け中か)
待つだけの時間が少し落ち着かなくて、手袋越しに指を動かす。
その時、画面が震えた。
『終わりました』
短い。
余分な言葉がない。――終わったんだな。
『今出る』と返して、視線を上げたちょうどその瞬間。
ガラス扉の向こうに、見慣れた上着が見えた。
小走りじゃない。早歩き。
それでも足取りが軽いのが、遠目でも分かる。
自動ドアが開いて、冷たい空気が一気に押し寄せた。
「……待ちました?」
「今来た」
定番みたいなやり取りを交わして、和葉は俺の横に並ぶ。
白い息を小さく吐いて、頬がほんのり赤い。
「お疲れ。今日で最後だったんだろ」
「はい。……最後、でした」
言い方が少しだけ噛みしめる感じで、俺は頷いた。
「寒いな。帰りに買い物寄るぞ」
「はい。……それで、その……」
和葉が一瞬だけ迷ってから、俺を見上げた。
「リクエスト、してもいいですか」
「なんだよ」
「今日、鍋が食べたいです」
「いいな。何鍋」
「鶏だんご、入れていいですか」
「いい。白菜とネギ、豆腐もいるな」
「……はいっ」
返事が軽い。
病院で何かいいことでもあったのか――いや、“いいこと”って言い方は違うか。
前向きな一日だった、くらいがちょうどいい。
***
スーパーは年明けの空気がまだ残っていて、入口付近に鏡餅が並んでいた。
正月価格の名残みたいなパックを横目に、鍋の材料をカゴに入れていく。
白菜、長ネギ、豆腐。
ひき肉、春雨。
生姜と、だし用の昆布。
和葉は売り場の前で立ち止まり、白菜をひと玉持ち上げて、少しだけ重さを確かめた。
この仕草がやけに慣れている。
こいつは、こういうのだけは最初から“できる側”だ。
できすぎて、時々こちらが落ち着かないくらいに。
「……いつきさん」
「ん」
「豆腐、絹と木綿、どっちが好きですか」
「鍋は木綿」
「私もです」
即答。
小さい一致が積み重なるたびに、生活が“ちゃんと続いてる”感じがする。
会計を済ませ、袋を分ける。
重い方を俺が持つのは当然として、軽い袋を和葉に渡したら、受け取る指先が少しだけ固かった。
「……どうした。手、冷えたか」
「いえ。そうじゃなくて」
和葉は袋の持ち手を握り直し、言いにくそうに視線を泳がせる。
「今日、先生から……封筒、もらいました」
「封筒?」
「冬休みの……お年玉、って」
遥さんならやりそうだ。
いや、むしろ“そういう形”にしたかったんだろう。
「受け取っていい」
「……いいんですか」
「和葉がちゃんと動いた分だ。建前はどうでもいい」
俺がそう言うと、和葉は少しだけ眉を下げて笑った。
「……はい」
納得したように頷く。
その“はい”が前より素直になっていて――俺は気づかないふりをした。
***
部屋に戻ると、こたつのスイッチを入れて、すぐに湯を沸かした。
狭い部屋は、こういう時だけ便利だ。あっという間に温まる。
「俺が鶏だんご作る。和葉は座ってろ」
「え。私が――」
「今日のリクエストに応えたのは俺だ。頑張ったのはお前だろ。……だから、座ってろ」
言い切ると、和葉は一瞬だけ口を開けて、それから観念したみたいにこたつに潜った。
まな板を出して、ネギを刻む。
ひき肉に生姜を入れて混ぜる。丸めるのは苦手じゃない。黙々とやれる。
背中越しに、こたつの中で和葉がもぞもぞ動く気配がして、ふと振り返った。
「寝るなよ」
「寝ません」
即答が早すぎる。危ない。
「……病院、どうだった」
手を動かしながら聞くと、和葉は少しだけ間を置いた。
「忙しかったです。やっぱり」
「そりゃそうだ」
「でも……前より動けました。迷わなくなったところもあって」
その声に、嬉しさと、ちょっとだけ悔しさが混ざっている。
成長ってやつは、だいたいそういう味がする。
「看護師さんに休憩で色々聞かれて……。経緯とか」
「経緯って、何を?」
「どうして私が手伝ってるのか、とか。先生と……知り合いなのか、とか」
「そういうのな。適当に濁していい」
「……父が、各務先生と付き合いがあって、って言いました」
「それで十分だ」
そこで和葉が、ほんの少しだけ目を伏せた。
「こういう話、他の人にする時。『お父さん』じゃなくて『父』で、いいんですよね」
「そうだな。変じゃない」
余計なことを考えて、言葉を詰める癖。
でも、それをちゃんと口に出せるようになったのは、進歩だ。
鍋が煮えて、湯気が立つ。
こたつの上に鍋敷きを置いて、二人で囲む。
「いただきます」
「いただきます」
だんごをひとつよそって渡すと、和葉は一口かじって、目を丸くした。
「……おいしい」
「だろ」
「自分で言います?」
「言う」
返事がぶっきらぼうでも、和葉はもう気にしない。
むしろ、そういうところで笑う。
食べて、温まって。
片付けを終えて、こたつに戻る。
湯気の残り香みたいな温度が、部屋に漂っていた。
***
洗い物を済ませた和葉が、こたつに戻ってくる。
膝の上に小さな白い封筒を置いて、端を指で揃えた。
「……これ」
「ん?」
「今すぐ開けなくても、いいですよね」
「いい。開けたい時に開けろ」
和葉は、少しだけ安心した顔をして、封筒を机の隅に置いた。
それから、言いにくそうに唇を噛む。
「……今日、最後に」
「最後に?」
「……答えはしたんです。『楽しかったです』って」
「でも、それだけじゃなくて……」
俺は湯飲みを置いた。
和葉は一度だけ深呼吸をして、ゆっくり言った。
「……怖かったです」
予想より真っ直ぐな言葉だった。
「最初は、私がそこにいていいのか分からなくて。
患者さんの近くを通るだけでも、邪魔なんじゃないかって思って」
「でも、看護師さんが『そこ、通るよー』って普通に声かけてくれて。
それで……あ、ここ、普通なんだって」
“普通”。
和葉がそれを口にするのは、まだ時々ぎこちない。けど、確実に増えている。
「それから、物品の補充。
『足りないの見つけたら、言ってくれるだけで助かる』って言われて……」
和葉は自分の手を見た。
指先をぎゅっと握って、ほどいて。
「私、何かできると……安心します」
それは、“役割がないと落ち着かない”ってやつだ。
便利でもあるし、危うくもある。
「……できることがあるのはいい。
でも、安心のために無理するな」
「はい」
返事は素直だが、たぶん半分。
だから、もう一歩踏み込む。
「今日、疲れてるだろ」
「……ちょっとだけ」
「“ちょっとだけ”は便利な言葉だな」
和葉は、くすっと笑ってから、少しだけ肩を落とした。
「……ほんとは、けっこう」
「だろ」
俺は息を吐いた。
「それで。進路の話。
――どうする」
和葉の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
逃げる揺れじゃない。準備していた揺れだ。
「……看護にします」
声は小さくない。はっきり言い切った。
俺は頷いた。余計な間も、驚いた顔も、いらない。
「そうか」
「まだ少し怖いです。命を扱うところとか。……それでも、ちゃんと向き合ってみたいです」
いい言い方だ。
“向いてるから”でも、“正しいから”でもなく――怖さを分かった上で選んでる。
こいつは、勢いで決めるタイプじゃない。
「理由は?」
短く聞くと、和葉は少しだけ目を丸くして、苦笑した。
「……面接みたい」
「面接はもっと嫌な聞き方する」
和葉が小さく笑う。その笑いが消えないうちに、言葉が続いた。
「……助けてもらったからです」
それだけ言って、和葉はすぐに付け足した。
「恩返し、とか……そういう、綺麗なやつだけじゃなくて。
私、昔から……人が困ってるの、放っておけないんだと思います」
意外でもなんでもない。
こいつの家事の丁寧さは、根っこがそこにある。
「それに……今日、ちょっとだけ分かったんです」
和葉は膝の上で指を組み直して、ほどけないように押さえた。
「“一人で抱えない”っていうのが、ちゃんとルールなんだって」
「抱えない?」
「はい。看護師さんが、『迷ったら止まって確認していい』って。
『勝手に判断して動く方が危ないから』って言われて……」
言いながら、和葉は小さく笑った。
でも、その笑いはごまかしじゃなくて、ほっとした時のやつだった。
「私、今まで……迷ったら黙って頑張る方が正しいと思ってたんです。
でも、それは多分間違ってて。迷ったら、声に出す。ちゃんと聞く。――それが正しいって」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
それを和葉に悟られたくなくて、湯飲みを持ち上げる。
「……それは、いいこと覚えたな」
「はい。今日、一番うれしかったかもしれません」
俺は湯飲みを置いて、和葉の顔を見る。
「今日それが分かったなら、十分だ。
迷ったら止まって、確認できる。――それが一番大事だ」
「……はい」
「ただ――無理だと思ったら、早めに言え」
釘は必要だ。優しさの形として。
「患者が優先だからって、いつも自分を後回しにしたら、続かない。
続かなきゃ意味がない」
和葉は、ゆっくり頷いた。
「……はい。ちゃんと続けたいです」
言い方が少しだけ強い。
強さを出しすぎると、折れる時が怖い。
「折れそうになったら?」
「……言います。いつきさんに」
その返しに、俺は少しだけ肩の力が抜けた。
「ならいい」
俺は、封筒の方を顎で示した。
「それ、どうする」
「……貯めておきます。
受験とか……オープンキャンパスとか、そういうのに」
「賢い。
必要なら、足りない分は俺が出す」
和葉が顔を上げた。反射で遠慮が出そうな目。
「そこは遠慮するところじゃない。俺の役目だ」
和葉は、少しだけ口を開けてから、ちゃんと頷いた。
「……はい」
こたつの中で、和葉の足が少しだけ動いて、俺の脛に触れた。
すぐ引っ込めようとして止まり、結局そのままになった。
窓の外で、風が鳴る。
窓ガラスがかすかに震えて、冬の底を思い出させる。
「……明日から学校だな」
「はい」
「起きられるか」
「起きられます」
「じゃあ早く寝ろ」
「……はい」
口では素直に返事をしながら、和葉はこたつから出る気配がない。
俺も俺で、立つ理由が薄い。
テーブルの端に、白い封筒。
冬休みの終わりの証拠みたいに、こたつの灯りを受けて角が少しだけ光っていた。




