Side:和葉 2025年1月5日(日)
白い廊下は、朝でも少しだけ眠そうに見える。
病院の匂い――消毒と、洗剤と、暖房の乾いた空気が混ざった匂い。
それを吸い込むたびに、背筋が勝手に伸びるのは、慣れたのか、まだ緊張しているのか、自分でもよく分からない。
更衣室で名札を付ける。
鏡の中の自分は、前より少しだけ顔が落ち着いている……気がした。
今日は冬休みの最後の手伝いだ。
自分で「最後」と思った瞬間、変に意識してしまう。だから、いつも通りにする。手を洗って、指先まで消毒して、ひとつ深呼吸。
「おはようございます」
声に出すと、ほんの少しだけ、現実になる。
午前中は、いつもの雑務をいくつか。
物品の補充。案内。伝票を運ぶ。
やることは派手じゃない。けれど、前より迷わず動ける箇所が増えているのが、自分で分かる。
それだけで十分だ――と、思ったところで。
「和葉ちゃん、休憩入れる?」
声をかけてきたのは、病棟でよく顔を合わせる看護師の佐伯さんだった。年は三十代くらい。忙しいのに、言葉の端がいつも柔らかい人。
「はい。大丈夫です」
「じゃ、今のうちね」
私は小さくうなずいて、休憩室へ向かった。
***
休憩室は、静かだった。
紙コップの自販機の前で誰かがコーヒーを選んでいて、ボタンを押す音が一回だけ響く。
佐伯さんが席に座って、対面の椅子を顎で示した。
「座って。和葉ちゃん、今日は最後なんだっけ」
「はい。冬休み中は、今日で」
「そっか。あっという間ね」
佐伯さんは紙コップを両手で包んで、ふっと息を吐いた。
「進路、看護のほう考えてるって言ってたよね」
「……はい」
「どう? 見てみて、思ったのと違った?」
思ったのと違う。
その言葉に、私は一瞬だけ詰まった。
違う、というより――思っていたより、現実だった。
当たり前だけど、ここは“日常”の延長にある場所でもある。
患者さんの呼吸。家族の声。スタッフの足音。時間が進む音がする。
「……違う、っていうより。思ったより、ちゃんと忙しいです」
自分で言って、ちょっと変な答えだなと思った。
でも佐伯さんは笑った。
「忙しいよ。ほんとに」
それから、少しだけ顔を改める。
「で、なんで看護なの? 和葉ちゃん」
心臓が一回だけ大きく鳴った気がした。
この質問、いつか来ると思っていた。
でも、いざ目の前に来ると、言葉がうまく並ばない。
「……うまく言えないんですけど」
「いいよ。うまくじゃなくていい」
佐伯さんはそう言って、急かさない。
私は紙コップのお茶を見つめた。湯気が薄い。
「……人の役に立ちたい、っていうのも、あります」
ありきたりだと分かってる。
でも、それだけじゃない。
「あと……私、前にここで助けてもらったので」
佐伯さんの目が、ほんの少しだけ動いた。
「各務先生に?」
「はい。色々あって……そのときに」
説明しきれない言葉が、喉の奥で止まる。
佐伯さんは、そこで止めてくれた。
「そっか」
それだけ。
それだけなのに、息がしやすくなる。
「……あのとき助けてもらったから、今の私があって」
言葉にしてみたら、少しだけ喉の奥が熱くなった。
ちゃんと説明できるほど整理できてないのに、気持ちだけは残っている。
「恩返し、とかじゃないんですけど……。私も、助ける側になれたらって思いました」
佐伯さんが、紙コップを机に置く。
「助ける側ってね、思ってるより怖いことも多いのよ」
「はい。怖いです。痛そうなのも、しんどそうなのも……見てると、逃げたくなるときもあります」
言ってから、少しだけ肩がすぼんだ。
前向きなことを言った直後にこれじゃ、格好悪い。
「……でも、逃げたくなるくらいのものを、逃げないで見てたいです」
でも佐伯さんは、笑わなかった。
「逃げたい、と思えるのも大事よ」
「……え」
「何も感じなくなるほうが危ない」
紙コップの縁を、指でそっとなぞる。
言われた言葉が、ゆっくり落ちてくる。
佐伯さんが少しだけ眉を上げて、でもすぐにいつもの顔に戻った。
「続けられそう? 和葉ちゃん」
続ける。
冬休みが終わったら、学校がある。
今みたいに、毎週のように来るのは難しい。
それでも、頭の中では“また来たい”が残っている。
「……続けたい、です」
「うん。じゃあ続けよ」
佐伯さんはさらっと言って、それで話を終わらせる。
その軽さが、救いになる。
少しだけ沈黙ができて、私は思い出したみたいに続けた。
「……あの。私がここに来たのって、最初は相談がきっかけで」
「うん」
「進路で看護の仕事を考えてるって、相談したら……見学も兼ねて、お手伝いさせてもらえることになって」
佐伯さんは「なるほど」と頷いた。
「各務先生に?」
「はい。……父が、各務先生と面識があって」
“父”。
言葉にした瞬間、少しだけ胸の奥がざわつく。
普段はそんな呼び方、していないのに。
でもここでは、それが一番余計なものがない言い方だ。
佐伯さんは、それ以上を聞かなかった。
ただ、軽く笑って言った。
「縁って大事よ。こういうのも、運のうち」
運。
その言葉が少しだけ軽くて、私は救われた気がした。
コネ、とか。そういう言葉を想像していた自分が、勝手に尖っていただけだ。
「でもね」
佐伯さんが少しだけ声の調子を変える。
「縁があっても、残るのは本人よ。和葉ちゃんは、ちゃんとやれてる」
ちゃんと。
その二文字が、紙コップより熱い。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。助かってる」
佐伯さんは立ち上がって、ゴミ箱に紙コップを捨てた。
「よし。戻ろ」
「はい」
休憩室を出るとき、空気が少しだけ違って見えた。
廊下は相変わらず白いのに。
***
昼過ぎ。
最後の片付けを終えたところで、呼び止められた。
「和葉ちゃん」
遥先生だった。
忙しそうなのに、声だけは落ち着いている。
「はい」
「今日で冬休みは終わり?」
「はい。明日から学校が始まるので」
「そっか。お疲れさま」
その一言が、なぜか胸に残る。
「どうだった?」
「……楽しかった、です」
言ってから、すぐに付け足した。
「楽しいだけじゃ、ないですけど」
遥先生が少しだけ笑った。
「それでいいわ。楽しいだけの仕事なんてない」
まっすぐだ。
まっすぐで、逃げ道がない。
遥先生は白衣のポケットから、小さな封筒を出した。
白い封筒。厚みがある。
「これは」
「冬休みのお年玉」
「……でも」
「バイト代じゃないの。お年玉。――でも、働いた分。受け取りなさい」
言い切られてしまうと、もう返せない。
私は両手で封筒を受け取った。
指先に、紙の硬さが伝わる。
軽いはずなのに、重い。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
遥先生はそれだけ言って、もう次の仕事へ戻っていった。
背中が早い。ここはそういう場所だ。
私は封筒を制服のポケットに入れる。
手のひらに残った感触が、しばらく消えなかった。
病院の自動ドアを抜けると、外の空気が冷たい。
冬の匂いがする。
冬休みが終わる。
でも、終わったからって全部が切り替わるわけじゃない。
ポケットの中で、封筒の角が指に当たった。
私はそれを確かめるみたいに、上着の上からそっと押さえた。




