2025年1月3日(金)
正月三日。
昼の光がいちばん白い時間帯で、部屋の中まで妙に明るい。
テレビではまだ正月番組がだらだら続いているが、俺はこたつに根を張る気にはならなかった。
「行くぞ」
声を掛けると、和葉はすぐに顔を上げた。
まだ正月の空気が抜けきっていない目をしているのに、返事はきちんとしている。
「はい。……どこにですか」
「商店街。ついでに湯」
「湯……銭湯ですか」
「そう」
和葉は小さく頷いた。
銭湯にはもう何度も一緒に来ている。最近は和葉のほうが、割と乗り気だ。
家の風呂も広めではあるが、湯に関してはやっぱり別物らしい。
「今日は買い出し、そんなにいらない。夕飯の分と、あと……習慣だな」
「習慣?」
「正月三日、行くと干支のタオルがもらえる」
言いながら自分でおかしいと思った。
タオル一枚でわざわざ動くのか、と。だが毎年欠かさず通っていると、逆に行かないほうが落ち着かない。
「俺、毎年それもらいに行ってる」
「……毎年?」
「欠かすと落ち着かない」
外に出ると、冷たい空気が頬を叩いた。
和葉は首をすくめるが、歩き出すとすぐに呼吸を整える。上着の襟元を指で押さえる仕草が、まだ少し硬い。
***
商店街は、正月の装飾が半分だけ残っていた。
店先に小さなのぼり。いつもより控えめな呼び込み。人も多すぎず、少なすぎず。
八百屋の前で、顔なじみの親父が箱の影から手を上げた。
「お。弓削くん、あけおめ!」
「おめでとう」
「和葉ちゃんも、あけおめ。今日も目ぇ利きそうな顔してるねぇ」
和葉が一拍だけ迷ってから、ちゃんと頭を下げる。
「あけましておめでとうございます」
「この前の菜の花、どうだった?」
「美味しかったです。苦くなかったです」
「だろ。今日はもっといい。今朝のだ」
親父はそう言って、束を軽く持ち上げた。
和葉の視線が自然にそこへ吸い寄せられる。以前みたいに固まらない。
「菜の花、一把。あと長ねぎ」
「了解。ねぎは太いのいく?」
「太いの」
買い物は、余計な言葉がいらない。必要なものを選んで、渡して、受け取るだけだ。
大根は一本まるごとだと重いから、半分にしてもらう。
和葉が根元の切り口をそっと確認して、うなずいた。
「いいやつだな」
「……はい。みずみずしいです」
答えが返ってくるのが、もう当たり前になっている。
魚屋は、シャッターが半分だけ開いていた。正月は仕入れも薄い。だが三日なら最低限はある。
店の兄ちゃんが奥から出てきて、俺を見て笑った。
「弓削さん、あけまして。和葉ちゃんも、おめでと」
「あけましておめでとうございます」
「今日は鮭? それとも鯖?」
和葉が俺を見る。俺は首を少しだけ振る。
「鮭でいい」
「じゃ、鮭でお願いします」
「了解。二切れでいい?」
「はい」
会話が短くて、無駄がない。
なのに、妙にあったかい。
豆腐屋で厚揚げを一袋。味噌汁と、菜の花のおひたしでも作れば形になる。
袋が少しだけ重くなって、和葉が「持ちます」と言いかけたが、首を振った。
「いい。銭湯行くなら邪魔だろ」
「……たしかに」
「買い物したら一回帰る。荷物置いてから行く」
和葉は納得した顔で頷く。
こういう現実的な段取りは、和葉にも分かりやすいらしい。
アパートに戻って、買ったものを手早く冷蔵庫に入れる。
和葉は菜の花を水に放って、根元を揃える動きが無駄なくて、見ていると逆に落ち着かない。
「手際いいな」
俺が言うと、和葉は少しだけ視線を落として笑った。
「……癖、みたいなものです」
それ以上は聞かない。
俺は袋の口を結び直して、鍵を掴んだ。
「行くぞ。湯、冷める」
「はい」
***
湯と言っても、旅行じゃない。近所の銭湯だ。
俺が毎年欠かず通っている、あのいつものところ。
正月三日に行くと、干支のタオルがもらえる。
派手なイベントじゃない。番台の横に積まれた袋から一枚手渡されるだけだ。
でも、年が切り替わった実感は、それくらいで十分だったりする。
暖簾をくぐると、湿った木の匂いと、ほんの少しの洗剤の甘さが鼻をくすぐった。
脱衣所の方向から、桶の当たる音が一つ。いつも通りの音。
番台の婆さんが、新聞を畳みながら顔を上げた。
「おや。来たね」
「どうも」
俺が会釈すると、婆さんは目を細めて、俺の隣をちらりと見る。
「そろそろ来ると思ってたよ」
言い方が、毎年のそれだ。
俺は苦笑して、靴を揃える。
「……ほんとに毎年なんですね」
和葉が小声で言った。
「欠かすと落ち着かない」
「そういえば……」
和葉は思い出したみたいに、こちらを見た。
「タンスに、タオルがたくさんありましたね」
「あるな」
「……集めてるんですか」
「使ってる。気分で替えるだけだ」
「気分……?」
「今日はこれ、ってやつがある」
和葉が小さく笑った。
「……いいですね。それ」
婆さんが、番台の横に置いてある袋を指で叩いた。
「今年は巳年だよ。ほら、これ」
差し出されたのは、白地に干支の絵が入ったタオルだった。
蛇が丸まって、どこか愛嬌のある顔をしている。
俺は受け取って、軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「毎年、律儀だねぇ」
「律儀っていうか……習慣です」
「習慣はね、なくすと寂しくなるから」
婆さんはそう言って、和葉の方に視線を向けた。
「和葉ちゃんも、あけおめ。今日も一緒だね」
「はい。あけましておめでとうございます」
和葉がぺこりと頭を下げる。
その所作がきちんとしていて、婆さんは「よしよし」とでも言うみたいに頷いた。
「寒かったろ。中、あったまってきな」
和葉が「はい」と返す。
その間に、俺はタオルをくるっと丸めて、脱衣所の籠に入れた。毎年の動きだ。
――巳年。
干支なんて気にする柄じゃないと思っていたのに、こうして手にすると、案外“今年”が目の前に置かれる。
和葉がタオルをちらっと見て、少しだけ目を丸くした。
「……かわいいですね」
「そうか」
言いながら、俺は自分の声が少しだけ柔らかくなっているのに気づいて、咳払いで誤魔化した。
「先、入ってこい。女湯はこっちだ」
「はい。……あとで」
和葉が暖簾の前で小さく手を振って、向こうへ消える。
俺は男湯の暖簾をくぐりながら、番台の婆さんの声を背中で聞いた。
「今年も、いい年にしなよ」
軽い言い方。
でも、こういうのが効く歳になったのかもしれない。
湯気の向こうに、いつもの湯の音が広がっていた。




