Side:和葉 2025年1月1日(水)
鍵が回る音は、外の冷たさを切り離す合図みたいだった。
扉が開く。玄関に流れ込んだ空気が、ひんやりしているのは一瞬だけで、すぐに部屋のぬくもりに負けた。
「……ただいま」
小さく言ったら、いつきさんは靴を揃えながら、いつも通りに返した。
「おう」
それだけ。
それだけなのに、肩の力がすっと抜ける。
コートを脱いで、マフラーを外して。着物じゃないのに、さっきまでの歩幅がまだ戻らなくて、廊下の段差を必要以上に気にしてしまう。
石段。
歩ちゃんが踏み外しかけたところから、記憶が勝手に巻き戻った。
あのとき、いつきさんは手を出さなかった。
「段、見とけよ」
声だけ。
それで止まれ、と言うみたいに。先に降りていく背中。
――でも、その少し前。
歩ちゃんがほんとに転びそうになった瞬間だけは、違った。
いつきさんの手が伸びて、歩ちゃんの身体を支える。
腰のあたりに当たって、すぐ離れる。
(……助けただけ)
当然だ。
許すも何もない。そう分かってる。
それなのに、胸の内側が、ほんの少しだけ落ち着かない。
自分でも「はい?」って思うくらい、くだらないのに。
――手が差し出されたのは、帰り道の終わり。
アパートの階段。
踊り場の手前で、いつきさんが当たり前みたいに片手を出してきた。
私は一瞬だけ迷って、それから、黙って指を重ねた。
あったかい。
その温度で、さっきの落ち着かなさが、するっと引いていった。
(……単純。私、ほんと単純だ)
玄関の上がり框に立ったまま、私は自分の手袋を見つめてしまった。指先が少しだけ熱い。
廊下の奥で、御子神さんがこちらを見ていた。
玄関までは来ない。けど、“帰ってきた”は分かってる顔。
「ただいま、御子神さん」
呼びかけると、尻尾が一度だけ、ゆっくり揺れた。
その仕草に、なんだか許された気がして、私はやっと靴を揃えた。
コートをハンガーに掛けて、マフラーをいつもの場所に置く。
***
こたつのある一間。机と仕事用の椅子。壁際の棚。全部がいつも通りで、正月だってことを忘れそうになる。
でも、こたつに手を伸ばした瞬間、指先に布の熱が残っていて――ああ、ちゃんと家は元旦だ、と気づく。
「先に手、洗ってこい」
「はい」
言われた通り、洗面所で手を洗う。水が冷たい。
鏡の中の私は、頬が少し赤い。外の風のせい、だけじゃないと思う。
戻ると、いつきさんが湯呑みに温かいお茶を注いでいた。麦茶じゃなくて、薄い緑。たぶん、私が前に「これ好きです」って言ったやつだ。
「……ありがとうございます」
「礼いらない。寒かったろ」
そっけないのに、そこが優しい。
湯呑みを両手で包むと、指先がじんわり温まる。
着物は返したのに、背筋の伸び方だけがまだ少し残っている。
ふと、あのときのことを思い出した。
呉服屋さんで、二つまで絞って――最後に、私は言ってしまった。
『……私が、じゃなくて。いつきさんが、いいと思う方が着たいです』
今思うと、だいぶ大胆だ。
口から出た瞬間、自分でも「え?」ってなったくらい。
それなのに、いつきさんは困った顔をしないで、ちゃんともう一度見比べてくれた。
あの“一拍”が、妙に優しくて。
私は湯呑みの縁に口をつけた。熱いはずなのに、今はあまり分からない。
***
しばらくすると、御子神さんが近づいてきて、こたつ布団の端を器用に持ち上げて潜り込んだ。
当然のように、いつもの場所へ。
「待ってました、って顔」
「待ってたんだろ」
いつきさんはそう言って、こたつの上に小さな袋を置いた。
神社で買った、団子の残り。
「……食べてもいいんですか」
「持ち帰るって言ったのはおまえだろ」
そういうところだけは、いつもきっちりしている。
団子を一口かじる。甘さが、少しだけ落ち着かない気持ちをなだめてくれた。
ポケットの中で、紙が折れている感触がする。
私は迷ってから、そっと取り出した。
おみくじ。
小吉。
紙の上の文字を、もう一度なぞるみたいに読む。
「……焦らないで、って」
「小吉なら上等だろ」
「上等……」
「大吉引いて調子に乗るより、現実的だ」
言い方。
でも、いつきさんらしい。
私はくすっと笑いそうになって、慌てて口元を手で隠した。
「……じゃあ、財布に入れておきます。忘れないように」
「忘れるだろ」
「忘れません」
「強いな」
その一言が、意外と嬉しくて、私は「はい」とだけ返した。
***
机の上でスマホが震えた。
通知の相手は、歩ちゃん。
写真。
さっき、参道で「撮る!」って言ってたやつ。
開く前から心臓が変な動きをする。
私は深呼吸して、画面をタップした。
――三人。
真ん中に私。左右に歩ちゃんと朱鷺子。
歩ちゃんはいつもの全開で、朱鷺子は落ち着いた顔。
そして私は……ちゃんと笑っている。自分でも意外なくらい。
撮ったのは、いつきさんだ。
だから写っていない。写っていないのに――変な話だけど、そこに“いる”感じがした。
距離がちょうどいい。
頭のてっぺんも、足元も切れていなくて、背景の鳥居も傾いていない。
変に近づかないのに、置いていかれてもいない。
私は画面を見つめたまま、息だけ小さく吐いた。
「変なのじゃないだろうな」
言われて、私はようやく笑ってしまった。
「……すごい。きれいに撮れてます」
「当たり前だろ」
「鳥居も傾いてないし、誰も切れてないし……」
「それ普通だ」
普通、って言いながら、いつきさんは湯呑みに手を伸ばす。
でも、視線だけは一度、画面のほうに戻った。
少し迷って、私はスマホを差し出した。
「見ます?」
「……見る」
覗き込んだ横顔が、ほんの一瞬だけ止まる。
眉がわずかに動いたのは、たぶん“確認”の癖だ。
「……まあ、いいか」
それだけ言って、すぐに視線を外す。
淡々としてるのに、私はなぜか安心してしまう。
私は口元だけで笑って、歩ちゃんに「ありがとう!」と返した。
朱鷺子にも短く送って、画面を閉じる。
スマホが暗くなると、こたつの上に戻ってきたお茶の湯気だけが、ふわっと目に入った。
***
写真の余韻が落ち着いてから、私はもう一度だけ、神社のことを思い出した。
参拝のとき、何を願ったか――今さら思い出して、胸のあたりがそわつく。
ちゃんと考えていたはずなのに、いざ手を合わせたら、欲張りな言葉が喉の奥で渋滞した。
健康、とか。
学校、とか。
友達、とか。
御子神さんのこと、とか。
でも最後に残ったのは、ひとつだけだった。
(来年も、また一緒に――ここに来られますように)
“来年”と心の中で言っただけで、手のひらに力が入る。
一緒にいるのは、私の大事な人たちで――今日はそれだけで十分なのに。
それでも、その先を考えてしまった。
――焦らないで。
小吉の紙の言葉が、少し遅れて追いかけてくる。
私は湯呑みを両手で包んだ。熱が指先に染みて、呼吸がゆっくりになる。
***
御子神さんがこたつの中で向きを変えたらしく、布団が小さく持ち上がって、すぐに落ち着いた。
その音が、家の音だ。
「……元旦、終わっちゃいますね」
「まだ昼だ」
「そうでした」
私が言うと、いつきさんは湯呑みを置いて、軽く伸びをした。
「腹、減ったか」
「……少し」
「なら、なんか出す。餅は……夜でいいな」
夜でいい、の言い方が、妙に生活っぽい。
「はい。夜、楽しみです」
返したら、いつきさんが一瞬だけこちらを見て、すぐに目を逸らした。
「……焦るなよ」
小吉と同じことを、違う意味で言われた気がして、私は黙ってうなずいた。
こたつの下で、御子神さんの尻尾が、また一度だけ揺れた。
まるで「よし」と言うみたいに。




