2025年1月1日(水)②
玄関を出た瞬間、冷たい空気が肺の奥まで入ってきた。
吐く息が白い。正月ってのは、こういう温度で思い出す。
和葉はコートの襟を指先で押さえながら、俺の半歩後ろを歩く。
さっきまでこたつにいたのが嘘みたいに、背筋が伸びている。
「寒いか」
「大丈夫です」
返事はいつも通りだが、声は少しだけ固い。
今日は着付けだ。緊張するのも当然だろう。
***
レンタル店は駅前の通りを一本入ったところにあった。正月の朝なのに、店の看板だけは明るい。
予約名を伝えると、スタッフが慣れた動きで和葉を奥へ通した。
「こちらでお選びください。候補が決まりましたら、お声がけくださいね」
ラックに並ぶ着物は、写真よりずっと現実的だった。柄の密度、布の厚み。
和葉は最初、遠慮がちに袖口を指で触れ、すぐに手を引っ込めた。
「触っていい」
「……はい」
少しずつ距離を詰めて、二着を手元に持ってくるまでに十数分。
どちらも派手ではない。片方は淡い色で、もう片方はくすみ青。柄は小さく、主張しすぎない。
「二つまで絞れました」
「見せてみろ」
和葉が並べる。
淡い方は柔らかく見える。くすみ青の方は落ち着いて見える。どっちも似合う。どっちも正解だ。
「どっちが、いいと思いますか?」
「……どっちでも似合う。好きな方でいい」
言い切ったあと、和葉の目がほんの少し揺れたのが分かった。
「……私が、じゃなくて」
和葉は視線を落として、言葉を整えるみたいに一度息を吸った。
「いつきさんが、いいと思う方が着たいです」
そう言われると、適当に返すのが難しい。
俺はもう一度、二着を見比べた。
「……こっち」
くすみ青を指で示す。
「理由は」
「顔が明るく見える」
それだけ言うと、和葉は小さく頷いた。
口元が少しだけ緩む。勝ち誇るでもなく、浮かれすぎもしない。今の和葉の笑い方だ。
着付けは思ったより早かった。
和葉がカーテンの向こうから出てくる。
くすみ青は落ち着いているのに暗くない。帯は明るめで、全体が重くならない。
髪もまとめられて、普段より首筋が見える。
「……どうでしょう」
「似合ってる」
言い切った瞬間、和葉が一度だけ瞬きをした。
それから、さっきより少しだけ柔らかい声で返す。
「……ありがとうございます」
店を出ると、空が高かった。
着物の裾を気にして歩く速度が少し落ちる。俺も合わせた。
***
神社に近づくにつれて、人の流れが太くなる。
参道の両脇に屋台。煙の匂い。焼ける音。正月の雑踏は、普段より角が丸い。
鳥居の前で、和葉がスマホを確認して立ち止まった。
「……来てます」
和葉が言うのと同時に、向こうから手が振られる。
「和葉ぁ! まじで着物じゃん!」
歩が走ってきて、途中で止まった。足元が砂利だからだ。
朱鷺子はその後ろで、落ち着いたまま頭を下げる。
「明けましておめでとうございます、弓削さん」
「あけましておめでとう。二人も早いな」
「当たり前じゃん! 写真! 写真撮らせて!」
歩の勢いが、去年と同じで安心する。
和葉は困った顔をしているのに、嫌そうじゃない。
「……お願いします」
和葉が小さく言う。
それだけで、歩は勝手に嬉しそうにしている。
写真が始まる前に、俺はポケットから小さなポチ袋を二つ出した。
派手な柄じゃない。正月に必要なもの、という顔だけしている。
「はい」
「え、なに?」
「お年玉」
歩が目を丸くして、朱鷺子が一瞬だけ固まる。
「いやいやいや、受け取れないって!」
「受け取れ。正月だ」
「……っ」
朱鷺子が口を開きかけたのを、俺は先に切る。
「同じ額。変な意味はない」
朱鷺子は一拍置いて、姿勢を正した。
「……ありがとうございます。大切に使います」
歩は逆に、妙に丁寧に両手で受け取ってから、笑った。
「うわ、ちゃんとポチ袋だ。弓削さん、こういうとこちゃんとしてる」
余計なことを言うな。と思ったが、否定するほどでもない。
参拝の列に並ぶ。
和葉は袖を気にしながら、前の人の動きを真似している。歩が耳元で「こうやって投げるの」と囁いて、朱鷺子が「静かに」と小声で制止する。いつもの二人だ。
順番が来て、和葉は賽銭を落として、鈴を鳴らす。
手を合わせる時間が、ほんの少しだけ長い。
参拝を終えると、屋台の匂いが一気に近づいた。
***
「焼きそば食べたい! あ、ベビーカステラも!」
歩がすでに店を見定めている。
朱鷺子は「まず温かいもの」と言って、手をこすった。
甘酒の看板が見えたところで、和葉が一瞬だけ視線を向ける。
去年のことを思い出したように見えた。俺も一瞬だけ、同じ記憶に触れた。
和葉が口を開きかけて、止める。
「……甘酒」
「飲みたいのか」
和葉は小さく頷いて、すぐに首を振った。
「去年のは……だめでした」
歩が「酔ってたやつ!」と笑いかけて、朱鷺子に肘で止められる。
屋台の横に、小さな札が出ていた。
米麹甘酒
和葉がそれを指で示す。
「アルコール入ってないみたいです……こっちなら、いいですか?」
「いい」
和葉は店の人に「これをください」と言って、紙コップを受け取った。
一口飲んで、目を丸くする。
「甘い……」
「甘酒だ」
「去年のより、安心します」
言い方が真面目で、少しだけ笑いそうになった。
その後は、焼きそばとベビーカステラ。朱鷺子は団子を選んだ。
和葉は袖が汚れないように、紙皿を持つ手を何度も確認している。歩が「私が持つ!」と奪い、和葉が「だ、大丈夫です」と慌てる。忙しい。
最後におみくじを引く流れになった。
「和葉、引こ!」
歩に背中を押されて、和葉が箱を振る。
出てきた棒の番号を見て、少しだけ眉を寄せた。
「……小吉です」
「小吉って一番リアル!」
歩が勝手に納得した顔をしている。朱鷺子は自分のを開いて、「吉」とだけ言った。
「何て書いてある」
俺が聞くと、和葉は紙を折り直してから、目線を上げた。
「……焦らないで、って」
短く、それだけ。
「なら、いい」
「はい」
風が吹いて、和葉の袖が少しだけ揺れた。
くすみ青が、冬の光を拾って明るく見える。
歩がまたスマホを構えて、「次は三人で!」と騒ぎ出す。
そして当然みたいに、俺の方へスマホを差し出した。
「弓削さん、撮って!」
俺は数歩下がって、三人が収まる位置を探した。
写るのは得意じゃない。
でも、撮る側なら手は動く。
シャッター音のあと、和葉がこちらを見て、口元だけで笑った。




