2025年1月1日(水) ①
目が覚めたとき、部屋はいつもより静かだった。
外の音が少ない。車も、踏切も、遠い話し声も。正月だから、という理由が一番しっくりくる。
こたつの端で、御子神さんが丸くなっている。昨夜のまま、場所も体勢も大して変わっていない。
俺だけが先に起きてしまったらしい。
スマホで時間を確認する。まだ早い。
着付けの予約は八時半。余裕はあるが、油断はできない。
台所に立って、蛇口をひねる。水が冷たい。
顔を洗っているうちに、ようやく“元旦”の感覚が追いついてくる。
圧力鍋を出して、地鶏スープのパックを開けた。
昨日買った大根と人参は短冊。鶏肉はもも。食べやすい大きさに切る。
具とスープを鍋に入れて蓋を閉め、火にかける。
圧が上がったら弱火。あとは時間に任せるだけだ。
正月の朝に、鍋の前で張りつく気はない。
手を動かすところは動かして、待つところは待つ。
餅は彼方さんから貰ったのし餅の端。
角に切って、軽く焼く。焦げ目がつくと、香りが立つ。
背後で布団が擦れる音がした。
「……おはようございます」
振り返ると、和葉が寝癖を手で押さえながら立っていた。まだ目が半分だ。
「おはよう」
和葉は一瞬だけきょとんとして、それから小さく背筋を伸ばした。
「あけましておめでとうございます」
ちゃんと言い直すあたり、律儀だ。
「あけましておめでとう」
俺も同じように返して、作業に視線を戻した。
気恥ずかしいのをごまかすには、手を動かすのがちょうどいい。
「……雑煮、作ってるんですか」
「作るって言ったろ」
「はい。……いい匂いです」
和葉が台所に近づいて、圧力鍋の方を少しだけ覗いた。
それから思い出したように手を洗いに行く。
「何か、手伝いますか」
「せりを切ってくれ」
「はい」
昨日買ったせりを渡すと、和葉はまな板の上で丁寧に揃え始めた。
切る音が一定で、落ち着く。
圧力鍋が、ぷしゅ、と小さく音を立てる。
火を止めて、圧が抜けるのを待つ。急がない。そこだけは時間が要る。
蓋を開けると、湯気が一気に立った。
大根と人参に、ちゃんと色が入っている。鶏の脂が薄く浮いて、正月の匂いがする。
味を整えて、火を止める。
和葉が切ったせりは、椀に盛る直前まで置いておく。
「餅、入れるぞ」
「はい」
焼いた餅を椀に入れて、上から汁を張る。
赤白のかまぼこ、なると、伊達巻を切って並べる。普段なら気にしないが、正月くらいは見栄えも整える。
仕上げに、せりをひとつまみ。
最後に、小さなスプーンでいくらを少しだけ落とす。毎年のやつだ。正月の贅沢。
箸とお椀を並べ、こたつに運ぶ。
「いただきます」
「いただきます」
和葉はまず、椀の中を一度だけ見下ろした。
かまぼことなると、伊達巻といくら。全部がちゃんと“正月”の顔をしている。
小さく息を吹きかけてから、そっとすすった。
次の瞬間、眉がふわっとほどける。
「……おいしいです」
言いながら、もう一口いく。早い。
「熱いだろ」
「大丈夫です。……でも、熱いです」
どっちなんだ、と思いつつ、口元だけで笑いそうになった。
和葉は箸を止めて、いくらを一粒だけ拾うみたいに口に運ぶ。
それから、少しだけ真面目な顔でうなずいた。
「これ、毎年……なんですね」
「そうだ」
「……贅沢です」
小声なのに、嬉しさが混ざっている。
鶏だしのコクに、せりの香りが抜ける。いくらの塩気が最後に残る。
うちの雑煮だ。
食べ終わって、椀を下げる。
時間を確認すると、まだ余裕がある。ちょうどいい。
「和葉」
「はい」
呼ぶと、和葉はすぐに姿勢を正した。正月の挨拶の延長みたいな顔。
俺はテーブルの引き出しから、ポチ袋を二つ取り出した。
どちらも派手な柄じゃない。コンビニで買った、無難なやつだ。折り目だけはきちんと揃えてある。
「これは、母さんたちから」
一つ目を渡す。
和葉は両手で受け取って、少しだけ目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「中身は、あとで見ろ」
「はい」
そしてもう一つ。
「で、これは俺から」
和葉が固まった。
「……え」
「お年玉だ。正月だし」
「……多くないですか」
「多くない」
即答すると、和葉は困ったように笑った。
遠慮と嬉しさが混ざった顔だ。
「今年で三年になる年だろ」
口に出してから、少しだけ自分でも意外だった。
こういう言い方をするつもりじゃなかったのに、するっと出た。
「……はい」
「出費も増える。……使い道は考えろ」
「はい。……大事に使います」
その言い方が、ちゃんと和葉だった。
時計を見る。そろそろ動く時間だ。
俺は立ち上がって、コートを手に取った。
「行くぞ」
「はい」
和葉も立ち上がる。
いつもより背筋が伸びている。着物じゃないのに、もう“よそ行き”の顔だった。
玄関で靴を履く。
ドアを開けると、冷たい空気がすっと入り込んできた。吐く息が白い。
和葉が隣で、小さく息を吸う。
「……行ってきます」
正月にその言葉は変だろ、と一瞬思って、言わなかった。
代わりに、短く言う。
「行くぞ」
「はい」
御子神さんはこたつから動かないまま、こちらを一度だけ見た。
静かな元旦の空気が、足元からじわっと冷えていく。




