2024年12月31日(火)
窓の外は薄い灰色だった。
晴れてるとも曇ってるとも言いきれない、年末らしい色。
昨日の大掃除の名残が、部屋の隅に少しだけ残っている。まとめた段ボール、縛った古紙、洗った照明カバー。
片付いたというより、生活を一度ばらして戻しただけ――そんな手触りだ。
こたつに戻ると、御子神さんがすでに丸くなっていた。
人間の都合は昨日までで、今日は通常運転らしい。
スマホが一度、短く震えた。
画面を見て、指が止まる。
(彼方さんか)
通知だけ見て、いったん伏せた。
内容は見なくてもだいたい想像がつく。年末はそういう人だ。
「今日は、何しますか?」
台所の方から和葉が顔を出した。髪を軽くまとめ、手に小さなメモ帳を持っている。
この二日で、そのメモ帳を開く回数が増えた。
「買い出しだな」
「はい」
返事が早い。
コートを羽織って外に出ると、空気が冷たい。年末は、ただ歩いているだけで急かされる。
***
スーパーに入ると、空気が一段温かい。
入口に山積みのみかん。鏡餅。かまぼこ。年末と正月の匂いが混ざっている。
「……お正月って感じですね」
和葉が小さく言った。
「年末の雰囲気は嫌いじゃない」
まずは必要なものから籠に入れる。そば、ねぎ、かき揚げ。天ぷらは揚げてある方でいい。
かまぼこは赤白で一つ。見栄えの問題だ。
和葉が売り場を見回して、少し迷うように足を止めた。
「おせちって……作りますか」
「無理だ。あれは準備が要る」
言いながら、そばを籠に入れる。
「……じゃあ」
「雑煮くらいなら作れる」
和葉の目が少しだけ上がる。
「……雑煮」
「餅は宛がある」
言った瞬間、和葉がきょとんとした。
「宛、ですか」
「あとで回収する。――で、うちは鶏だしで、大根と人参。あと、せり」
鍋コーナーで、きりたんぽ鍋用の地鶏スープを手に取る。
正月にきりたんぽはやらないが、だしだけは便利だ。味がもう出来てる。
「それで作るんですね」
「正月に便利だ」
野菜売り場で大根と人参を選ぶ。短冊にするなら、細すぎない方がいい。
鶏肉はもも。脂がある方が、だしに負けない。
青物のコーナーで、せりの束を見つける。
和葉が少しだけ身を乗り出した。
「せり、香りが強いですよね」
「火を止めてから入れる。……せりは、香り残してなんぼだ」
「……はい」
返事が真面目で、少しだけ笑いそうになる。
かまぼこを取って、籠の中を見直す。
和葉が小さく言った。
「……いくら、も……?」
言い方が遠慮がちだった。
「入れる」
即答すると、和葉が目を瞬かせた。
「高いですよね」
「高い。けど――年一回の雑煮だ。毎年入れてる」
鮮魚コーナーへ向かって、小さなパックを一つ手に取る。
値札を見ても、視線は逸らさない。そういうものだ。
和葉は少しだけ口元を緩めた。
「……お正月、ですね」
会計を済ませて袋を持つ。
みかんの重さと、地鶏スープの冷たさが手に残った。
店を出たところで、スマホをもう一度だけ見た。
彼方さんからのメッセージが、まだ画面の上に居座っている。
「そういえば、さっきの“宛”って、何ですか」
和葉が聞く。
気になって当然だ。
「商店街で餅つきやってる。もらいに行く」
「餅つき、ですか」
和葉の声がわずかに弾む。マフラーの端を指でつまんだ。
***
商店街に着くと、いつもより声が多かった。
蒸した米の甘い湯気。臼を叩く乾いた音。そこに子どもたちの歓声が混ざって跳ねる。
「よいしょー!」
小学生くらいの声が、妙に揃っている。誰かに仕込まれたやつだ。
臼の前では、法被を着た彼方さんが腕まくりをしていた。
横には消防の文字が入ったベストを着た人間もいる。防火啓発ののぼりが立っているあたり、地域行事として成立している。
「おう弓削! 来たな!」
彼方さんがこちらを見つけて手を振る。
子どもが列を作っていて、手には小さな紙コップ。きなこか、あんこか――甘い匂いが混ざっている。
「こんにちは」
和葉が少し緊張した声で挨拶すると、彼方さんの顔が一段やわらかくなった。
「おう。来たか。寒いだろ、そこ」
「大丈夫です」
「強がんな。ほら、あったかいの飲め」
彼方さんが紙コップを差し出して、和葉が慌てて両手を出す。
遠慮の仕方がまだぎこちない。
俺は近づいて、短く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。つきたてのうちに食え」
彼方さんはそう言いながら、テーブルの下から包みを引っ張り出した。
のし餅の端を切り分けたものらしい。まだほんのり温かい。
「ほら。雑煮の分な。――子どもら優先だから、すぐ帰るなよ。もう一回つくから見てけ」
「見てけって……」
「いいから」
有無を言わせない口調。
商店街の真ん中で、子どもたちがまた声を揃える。
「よいしょー!」
和葉がその様子を見て、口元を少しだけ緩めた。
こたつの中の笑いとは違う、外の空気に触れた笑い方だった。
***
十分見たところで、彼方さんにもう一度礼を言って離れた。
手提げ袋の中で、餅がずしりと重い。
家に戻ると、御子神さんがこたつから顔だけ出してこちらを見た。
餅の袋をひと嗅ぎして、興味がない顔でまた丸くなる。相変わらずだ。
夕方まで、和葉は台所で動いていた。出汁の匂いが立って、ねぎを刻む音が途切れない。
俺はその間、明日のルートを確認して、スマホのカメラ設定をいじった。
母さんの声が頭をよぎる。
『ちゃんと写真撮りなさいよ』
撮られるのは昔から得意じゃない。
でも撮る側なら、まあいい。必要なら手は動く。
夜。
テレビはつけた。音は流れているが、内容は頭に入ってこない。
「できました」
和葉が鍋を運んでくる。湯気がふわっと立った。
そばの匂いと出汁の匂い。年末の匂いだ。
「いただきます」
「いただきます」
出汁は薄くなかった。ちょうどいい。
温かいものが腹に落ちると、ようやく一日が終わる感じがした。
「……今年、早かったですね」
和葉がぽつりと言う。
「そうか」
「はい。……でも、長かった気もします」
言い終えてから、和葉は自分で変だと思ったのか、小さく笑った。
俺は突っ込まない。分かる気がした。
食器を下げ、こたつに戻る。
御子神さんが体勢を変えて、俺の膝の近くに寄ってきた。温かい方を知っている。
時計が進む。
外は静かで、たまに遠くで車の音がする。
和葉がスマホを手に取り、画面を見たまま指を止めた。
「……歩ちゃんたちに、明日のこと聞いてもいいですか」
「ああ、連絡しておけ」
「はい」
和葉は一呼吸置いてから、短い文を打った。送信して、すぐ画面を伏せる。待ってるふりが下手だ。
数秒で通知が鳴る。
「……早い」
「年末は暇なんだろ」
和葉が画面をこちらへ少し傾けた。
『行く行く!! 着物!? まじ!?』
『写真撮らせて〜! 絶対!』
歩らしい。勢いがある。
続けてもう一つ。
『時間だけ決めましょう。混む前がいいわ』
『無理はしないこと。寒いから防寒も忘れずに』
朱鷺子は朱鷺子だ。内容が正しい。
「……八時半に着付けで、そのあと神社……って送ります」
「送っとけ」
「はい」
和葉の指がまた動き出す。送信して、今度は少しだけ肩の力が抜けた。
「約束、できました」
「よかったな」
俺の返事は淡白だ。
でも和葉は小さく笑った。それだけで十分らしい。
年が変わる数分前、和葉がこたつの中で手を握り込むのが見えた。
寒いわけじゃない。落ち着かないだけだ。
俺はリモコンで音量を少し下げた。
テレビの喧騒が遠のくと、部屋の静けさが戻ってくる。
遠くで、除夜の鐘が一つ鳴った。
「……あけましたね」
和葉が小さく言う。
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます」
その直後、和葉のスマホが小さく鳴った。
画面に二件の通知が並ぶのが見える。和葉が覗き込んで、口元だけで笑った。
「……二人からです。あけおめ、って」
「そりゃ来るだろ」
和葉は「あとで返します」と小さく言って、スマホを伏せた。
「……寝ろ。朝早い」
「はい」
こたつの端で、御子神さんが一度だけ尻尾を揺らした。
部屋の中は温かいまま、外の冷たい年が静かに切り替わっていった。




