2024年12月30日(月)
窓を開けた瞬間、冷たい空気が一気に部屋へ流れ込んできた。
暖房はつけたままなのに、床の冷たさが足裏からじわっと上がってくる。
「……さむっ」
和葉が小さく言って、両手を袖の中に引っ込めた。
こたつの天板を外して、布団を半分だけめくった。
普段は見て見ぬふりをする場所だ。埃と毛と、たぶん米粒。
掃除機のスイッチを入れた途端、御子神さんがキャットタワーの天辺へ駆け上がった。
そこから身を丸めて、こちらを見下ろしている。賢い。
「こたつの下って……こんなに溜まるんですね」
和葉が覗き込んで、少しだけ目を丸くする。驚き方が控えめなのが、いかにもらしい。
「溜まる。生活してるからな」
「……生活」
ぽつ、と言葉を繰り返して、和葉が雑巾を手に取った。
水気をしっかり絞って、こたつの脚の周りを丁寧に拭き始める。掃除というより、整えるに近い。
俺は踏み台を持ってきて、天井の照明カバーに手をかけた。
外してみると、白いはずの内側がうっすら灰色になっている。年末の大掃除は、こういう“見ない場所”を現実に戻す作業だ。
「踏み台、押さえます」
下から和葉が声をかけてくる。
「大丈夫だ」
「大丈夫でも、押さえます」
言い返しが少しだけ軽い。
こういうやり取りも、最近は当たり前になってきた。
照明カバーを拭き、乾いた布で水気を取る。
ついでに棚の上も一枚拭こうとして、踏み台の上で体を捻った瞬間――ポケットの中でスマホが震えた。
掃除用の薄手の手袋をしたまま画面を見る。表示は見慣れた名前。
(母さんか)
年末に電話なんて珍しい……と言いかけて、やめた。
うちの母親は節目には妙に律儀だ。むしろ「今じゃなきゃいつだ」と思っているタイプだろう。
踏み台を降りて手袋を外し、通話に出る。
「もしもし」
『あんた今、掃除してる?』
開口一番、それだ。敬語も何もない。いつも通り。
「してる」
『へぇ。珍し』
「うるさい」
『和葉ちゃんいる?』
用件はそっちか。
俺は視線を落とす。和葉はこたつの脚を拭いたまま、こちらの様子を遠巻きに見ていた。雑巾の動きが止まっている。
「いるけど」
『正月、初詣行くんでしょ。着物、着せなさい』
「は?」
『年頃の女の子なんだから、こういうのは着せてあげたいのよ。レンタルでいいから』
「急に言うな」
『急じゃないわよ。年末よ? こっちはちゃんと考えてたの』
「金は?」
『出す。振り込む。……っていうか、もう振り込んだ』
「……はやいな」
『レンタル代と、ついでにお年玉も入れてある』
間を置かず、続ける。
『あんたの分はないよ。もう大人でしょ』
言い方は淡々としている。冗談でも嫌味でもない。ただの事実みたいに。
「知ってる」
短く返すと、向こうで小さく鼻を鳴らす気配がした。
『ちゃんと写真撮りなさいよ』
そこで声がほんの少しだけ柔らかくなる。
命令じゃない。見たいだけ。母さんらしい。
「本人が嫌がるかもしれないだろ」
『嫌がるなら無理にとは言わない。でも、聞いてみて。和葉ちゃん、ああいうの似合いそうだし』
それは分かる。分かるが、俺が言うことでもない。
「本人に聞く」
『そうして。……あんた、昔からこういうの興味なかったけどね』
「そうだったな」
『そうよ。写真も残ってない。私が撮ろうとしても逃げるし』
「掃除の途中なんだ。切るぞ」
『はいはい。和葉ちゃんに代わって』
急かされる形で、俺はスマホを和葉に差し出した。
「母さん」
「……はい」
和葉は雑巾を置き、手を拭いてから両手で受け取った。
姿勢が少しだけ正しくなる。分かりやすい。
「もしもし。……はい、美作です」
『和葉ちゃん? 元気?』
母さんの声が、俺に向けるのとは違う。
テンションを上げるわけじゃないのに、温度が一段柔らかい。
「はい。おかげさまで」
『大掃除してるって聞いた。えらいね』
「いえ……。いつきさんに、教えてもらってます」
教えてもらってる、って言い方が和葉らしい。
実際は勝手に手が動いてるくせに。
『正月、初詣行くでしょ。着物、着なさい』
「え……」
和葉の声が小さくなる。拒否じゃない。ただ驚いている。
『レンタルでいいの。お金はこっちで出すから。振り込んだからね』
「……いいんですか?」
その言葉が出た瞬間、和葉の目が少しだけ揺れた。
普段の「大丈夫です」とは違う。遠慮が混じってる。
『いいの。遠慮しないで。今しかないんだから』
押し付けるように言わない。
でも、引っ込める気もない。“してあげたい”が透ける。
『写真、送ってね。着てるとこ、見たいのよ』
「……はい」
和葉が短く返事をする。
その声は、さっきより少しだけ明るかった。
通話が終わって、和葉がスマホを俺に返す。
返し方が丁寧すぎて、逆に笑いそうになる。
「……すみません。急に」
「謝ることじゃない」
画面を見て、振り込み通知を確認する。確かに入っている。
レンタル代にしては少し多い。母さんなりの“足し”だろう。
「どうする」
俺が聞くと、和葉は一瞬だけ視線を落とした。
雑巾を握ったまま、指先がきゅっと丸くなる。
それから、少しだけ顔を上げる。
「……着てみたい、です」
言い方は控えめなのに、目はちゃんとしていた。
こたつの端に膝をついたまま。変な状況なのに、その一言が妙にまっすぐに落ちた。
「寒いぞ」
「ショール……借りられるみたいです。あと、足元もあったかいのがあるって」
もう具体的に考え始めている。
この切り替えの速さも、最近の変化だ。
「じゃあ予約するか。年内に動かないと埋まる」
「はい。……ありがとうございます」
礼を言う相手が違うだろ、と言いかけてやめた。
和葉の礼は、相手が誰でも同じだ。癖みたいなものだ。
窓の外から風が吹き込んで、カーテンの端がふわっと揺れた。
洗剤の匂いと、掃除機の温い排気が混ざる。年末の空気だ。
俺は踏み台に戻って、照明カバーをはめ直す。
下の気配が近づく。
和葉は何も言わずに踏み台の脚へ手を添えた。
指先が、少しだけ冷たい。
俺は一瞬だけ間を置いて、短く言う。
「……ありがと」
「いえ」
返事は小さい。けれど、さっきより柔らかい。
こたつの下から引っ張り出した埃の山を、和葉がちりとりで集める。
キャットタワーの最上段から、御子神さんが静かにこちらを見下ろしている。
窓の冷気が足元をかすめて、雑巾の水気が指先に残る。こたつだけが、いつも通り温かい。
その真ん中で、和葉の雑巾の音だけが、やけに整って聞こえた。




