Side:和葉 2024年12月25日(月)
朝、目が覚めた瞬間に「今日は二十五日だ」と思い出した。
カレンダーの数字は昨日から変わっただけなのに、空気が少しだけ違って感じる。
台所の方から湯気の気配がして、私は布団を抜け出した。
「おはようございます」
「おう。顔、洗ってこい」
いつきさんはいつも通りの声だった。
でも、テーブルの端にコップが三つ並んでいるのを見て、私は小さく笑ってしまう。
「……二人、今日の十六時だよな」
「はい。十六時です」
「わかった。準備は午後からで十分だな」
「分かりました」
「変な気遣いはしなくていい。いつも通りでいい」
いつも通り。
その言葉が、今日は少しだけ心強い。
***
午前中は、机に向かった。ほんの少しだけ。
いつきさんはタイマーを置いて、私のノートを一度だけ覗く。
「今日は軽くでいいからな」
「はい」
「午後は休め。準備しとけ」
「分かりました」
***
十六時が近づくにつれて、私は同じ場所を何度も拭いた。
こたつの上を整えて、お茶菓子を出して、急須の湯を確認して——時計を見る。
チャイムが鳴る。
いつきさんの動きが早い。
私は一歩下がって、廊下の端から様子を見る。
「どうもー!」
「こんにちは、お邪魔します」
結城歩ちゃんの明るい声と、鷺沢朱鷺子の落ち着いた声。
「上がれ。寒いだろ」
いつきさんが言うと、二人は少しだけ目を丸くした。
この人、家だとこういう言い方になる。
廊下の奥から、御子神さんが一瞬だけ様子を見に来て、ふわっと尾を揺らして戻っていった。
玄関までは来ない。えらい。
「御子神さん、かわいー!」
「構いすぎるなよ。逃げる」
「はいはい、分かってますよー」
歩ちゃんは言いながら、もう嬉しそうにしている。
こたつに落ち着くと、空気が一気に賑やかになった。
でも、いつきさんがいるせいか、ふざけすぎないところで止まっているのが分かる。
「今日はお邪魔します」
朱鷺子がきちんと頭を下げる。
「気にすんな」
いつきさんは短く返して、私の方を見た。
「湯、足りてるか」
「足りてます」
私は頷いて急須を持つ。歩ちゃんがこたつの布団をめくりかけて、朱鷺子に軽く叩かれていた。
「勝手に探検しない」
「してないし! こたつの下、未知だから!」
「未知にしなくていい」
いつきさんが淡々と言って、歩ちゃんが噴き出した。
「いつきさん、今日ちょっとノリいい!」
「気のせいだ」
そのやり取りだけで、部屋が少しだけ柔らかくなる。
***
十七時前。
いつきさんが時計を見て、立ち上がった。
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
私が言うと、いつきさんは一度だけこちらを見た。
「無理すんなよ」
「しません」
「困ったら連絡しろ。……十九時くらいには戻る」
「分かりました」
歩ちゃんが手を振る。
「いってらっしゃーい! 気をつけて!」
朱鷺子も会釈する。
「いってらっしゃい」
「おう」
玄関の扉が閉まる。
部屋が、少しだけ広くなった気がした。
***
そこからは、三人だけの時間だった。
シャンパンみたいな瓶のジュースを開けて、紙コップに注ぐ。泡がふわっと立って、歩ちゃんがすぐに写真を撮り始めた。
「かんぱーい!」
軽くコップを合わせる音。こたつの熱で頬が少し温かい。
食べ物は持ち寄りで、ローストチキンの香ばしい匂いと、ケーキの甘い匂いが混ざった。
気がつけば、食べるより喋っている時間の方が長い。
「クリスマスっぽいこと、もう一個やろ」
歩ちゃんが突然言って、紙袋を抱えた。
「はいはい、プレゼント交換のやつね」
朱鷺子が淡々と答える。もう準備してた顔だ。
「え、和葉も用意してる?」
「……あります」
私はこたつの脇に隠していた小さな袋を引っ張り出して、両手で持った。心臓が変に早い。
「じゃ、せーの、で出す! せーの!」
三つの袋がこたつの上に並ぶ。サイズも形もバラバラで、歩ちゃんがそれだけで笑った。
「まず朱鷺子から! はい、和葉!」
渡されたのは薄い箱。開けると、きれいに揃ったペンと、細い付箋のセットだった。
「え……」
「勉強用。書く量が増える時期だから。消耗品は困らないでしょ」
朱鷺子らしい。実用的で、でもちゃんと“見てる”。
「ありがとうございます。大切に使います」
「うん」
次に歩ちゃんが私へ、ふわっと軽い袋を押し付けてくる。
「はい! 手!」
中から出てきたのはハンドクリームと、小さなカイロケースだった。柄は控えめで、でも可愛い。
「和葉、手荒れしてるときあるじゃん。バイトもあるしさ」
「見てたんだ……」
「見てるよー。私は見守り担当だから」
「担当って何」
笑いながら、私は自分の袋を二つに分けて差し出した。
「……二人にも」
「お、きた!」
歩ちゃんが開けると、ふわふわの靴下。色は派手じゃない。
「え、これ、めっちゃあったかそう!」
「歩ちゃん、いつも足冷たいって言うので」
「言ってた! 冬の勝ち確!」
朱鷺子の方は、シンプルなブックカバーと替え芯のセットだった。彼女は少しだけ目を細める。
「……合理的ね」
「邪魔にならないものがいいかなって」
「うん。助かる」
朱鷺子が“助かる”って言うの、ちょっとだけ嬉しかった。
包装紙を片付けながら、歩ちゃんがケーキを指さす。
「でさ、苺は平和に分ける? それとも戦る?」
「戦いません」
私が即答すると、朱鷺子が静かに補足する。
「歩、今日は平和条約を結びなさい」
「クリスマスに条約!? 重!」
「重くない。必要」
歩ちゃんが笑いながら切り分ける。クリームが少しだけ崩れた。
「あっ……ごめん」
「大丈夫。味は変わらないです」
「和葉、いい子すぎ」
「いい子じゃないです」
口では否定したのに、なぜか照れた。
こたつの上に皿が並ぶ。苺はちゃんと三つに分かれていた。
「ねえ和葉。クリスマスって、いつもこんな感じ?」
歩ちゃんが何気なく聞いてきて、私は一瞬言葉に詰まった。
「……賑やかなのは、初めてです。だから、ちょっと不思議」
朱鷺子が視線を落として、静かに頷く。
「不思議でいいのよ。慣れる必要はないわ」
笑って、食べて。
少しだけ冬休みの段取りも話した。
気づけば時計の針が、十九時に近づいていた。
***
玄関の鍵の音がして、私は背筋を伸ばした。
歩ちゃんも朱鷺子も同じタイミングで姿勢が整うのが、ちょっと面白い。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
歩ちゃんが先に言ってしまって、すぐに口を押さえた。
「……すみません、癖で」
「別にいい」
いつきさんはテーブルの上を一瞥して、散らかっていないのを確認したみたいに小さく頷いた。
「二人とも、今日はありがとな」
そう言って、いつきさんが小さな封筒を二つ、テーブルに置いた。
「え、なにこれ……」
歩ちゃんが封を切った瞬間、声が弾む。
「図書カード!? クリスマスプレゼントですか?」
「まあ。そういうことでいい」
「やった、ちょうど欲しかった漫画の新刊が——」
「歩。そういうのは胸の中にしまいなさい」
朱鷺子が淡々と止める。
「……せめて『参考書に使います』くらい言っておきなさい。礼儀よ」
「朱鷺子こわ」
「怖くない。社会性」
いつきさんは小さく肩をすくめた。
「別に好きな本買えばいい。金券のほうが変に困らないだろ」
「困りません! めっちゃ助かります!」
歩ちゃんが勢いよく頭を下げて、朱鷺子もきちんと会釈する。
「ありがとうございます。大切に使います」
「おう」
その流れのまま、歩ちゃんが小さな紙袋を差し出した。
「……これ、いつきさんに。クリスマスです」
朱鷺子も同じように、包みをそっと置く。
「……悪いな」
「悪くないです。受け取ってください」
朱鷺子の声は淡々としているのに、押しつけじゃない。
いつきさんは一度だけ頷いて、それを脇へ寄せた。
「あとで、見る」
私はその言葉を聞きながら、自分の引き出しのことを思い出して、そっと目を伏せた。
まだ、内緒のままのもの。
***
「じゃ、そろそろ帰ります」
朱鷺子が時計を見て言う。歩ちゃんも名残惜しそうに頷く。
「暗いし、商店街の明るいとこまで送る。ついでだ」
「え、いいですよ」
「いいから」
いつきさんの一言で決まりになって、私たちは四人で外に出た。
冬の夜は息が白い。
商店街は店先の小さな飾りと、ゆるいクリスマスの曲で明るく見える。
チキンみたいな匂いがして、ケーキの箱を抱えた人がすれ違った。
「なんか、ちゃんとクリスマスだね」
歩ちゃんが言う。
「ちゃんとって何」
「ちゃんとだよ。光も匂いも人も!」
朱鷺子が周りを見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「……確かに」
信号のある角まで来ると、人通りはまだあった。
ここで十分、という感じの明るさ。
「じゃ、ここまでで」
朱鷺子がそう言って、歩ちゃんも手を振る。
「今日はありがとー! またね!」
「またね」
私が言うと、歩ちゃんは満足そうに笑った。
二人の背中が商店街の灯りの中に溶けていく。
***
家に戻ると、さっきまでの賑やかさがふっと引いた。
紙コップを片付けて、ゴミ袋を縛る。
いつきさんは黙って手伝って、手際よく台所の方へ運んだ。
「疲れたか」
「ちょっとだけ。でも、楽しかったです」
「なら、よかった」
短い会話のあと、私は部屋の端に置いてある自分のタンスの前へ移動した。
引き出しに手をかける。
取っ手がひんやりして、指先が少しだけ迷う。
私は引き出しをそっと開けた。
ハンカチの下に隠した紙袋が、まだそこにある。
持ち手をつまむと、紙袋がかすかに鳴る。
中で包まれたものが、やわらかく動いた。
端からのぞく薄い緑色のリボンに、猫の小さなタグが揺れている。
私はそれを指先で押さえて——紙袋を、膝の上に置いた。
廊下の向こうで、衣擦れの音がした。
足音が、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
息を整える。
部屋の外の空気が、ほんの少しだけ甘く感じた。




