Side:和葉 2024年12月22日(金)
体育館の床は、思っていたよりずっと冷たかった。
上履き越しでも冬がじわじわ染みてくる。整列したまま息を吐くと、胸の奥まで冷える気がして、私は肩をすくめた。
前の方で校長先生が話している。
言っていることは毎年だいたい同じで、真面目に聞いているふりをしながら、頭の中では別のことを考えてしまう。
「冬休みは生活リズムを崩さないように——」
生活リズム。
その言葉だけで、冷蔵庫に貼ってある付箋が浮かんだ。
《健康>勉強>生活>バイト》
貼られたときは、ちょっと悔しかった。子ども扱いされたみたいで。
でも今は、あれがあると安心する。迷いそうになったときの目印になるから。
校歌を歌って、終業式はあっさり終わった。
体育館の出入口に近づくと外気がすっと入り込んできて、逆に気持ちが切り替わる。
冬休みが始まる。
ちゃんと、始まる。
***
教室に戻ると空気が一気にほどけた。
窓の外は薄い雲。日が落ちるのが早いから、蛍光灯の白さがいつもより硬く感じる。
「はい、通知表。呼ばれたら取りに来い」
担任が机の上に封筒を積む。
封筒の角が揃っているのが妙に気になった。きれいすぎると、余計に怖い。
名前が呼ばれるたび、椅子がきい、と鳴る。
前に出る子の背中を見ているだけで心臓が少し忙しくなる。
「美作」
「はい」
封筒を受け取る。紙の重みは軽いはずなのに、手の中だけ妙に重い。
中身の点数が重いんじゃない。ここまでの時間が重い。
「よくやったな」
担任はそれだけ言って次の名前を呼んだ。
短いのに、ちゃんと届いた。
席に戻って封を切る。
「どう? 上がった?」
歩ちゃんが隣からぐいっと覗き込む。今日はやけに元気だ。冬休み補正だと思う。
「まだ見てません」
「もったいぶるなぁ」
「もったいぶってません」
朱鷺子が前の席から振り返る。
「ここは教室よ。もう少し静かに」
「はーい。朱鷺子はいつも正しい」
歩ちゃんが笑って、私の封筒を指でちょんとつつく。
成績表を取り出して数字を目で追う。
大きく落ちたところはない。上がっている科目がいくつかある。全部じゃない。けど、上がっている。
気づいた瞬間、肩の力が抜けた。
「……やったじゃん。ちゃんと上げてる」
「少しだけです」
「少しで十分。少しが積み重なるやつ」
歩ちゃんの言い方が珍しくまともで、私はちょっとだけ笑ってしまった。
朱鷺子が自分の紙を畳みながら言う。
「あなた、安定してる。前みたいに乱高下してないわね」
「……毎日、ちょっとずつやりました」
毎日。
ゼロにしない。10分でもいいから触る。
その積み方を教えてくれたのは、いつきさんだ。
「冬休み、勉強会どうする?」
歩ちゃんがもう次の話題に切り替える。切り替えが早い。
「週二回くらいがいいかな。午前中」
「午後は?」
「バイトの日もあるので……あと、家のことも」
「じゃ、午前固定。図書館の日も作る?」
「作りたいです」
朱鷺子が頷く。
「場所が変わる方が集中できるわ。家は誘惑が多い」
「誘惑って何。和葉の家、誘惑なくない?」
「こたつ」
「こたつは誘惑だね……」
歩ちゃんと私の声が重なって、三人で小さく笑った。
ノートの余白に冬休みの予定を書き始める。
勉強会。バイト。家の用事。
25日の集まり。
増える予定を、ちゃんと箱に入れて並べていく感じ。
「じゃ、また連絡するね。歩は時間守ってね」
「守る守る! たぶん!」
「たぶんは禁止」
「朱鷺子厳しい!」
でも、その厳しさがあるから安心する。
***
放課後、駅前のイルミネーションが目に入った。
駅ビルのガラスに反射して、光が二重に揺れている。冬は寒いけど、街が明るいのは嫌いじゃない。
「じゃ、ここで」
改札前で三人が止まる。
「和葉、プレゼント決まったら教えてねー」
「焦らなくていいわ」
「……うん」
二人が改札へ吸い込まれていくのを見送って、私も足を動かしかけた。
でも、改札の手前で止まる。
プレゼント。
何をあげたらいいんだろう。
欲しいものを聞いたら、きっと「いらない」と言う。
必要なものは自分で買う。余計なものは持たない。
じゃあ、いつきさんが「好き」なものから考えた方がいい。
好きな食べ物。嫌いなものを見たことがない。
私が作ったものでも、買ってきたものでも、いつきさんはだいたい同じ顔で食べる。雑じゃない。ちゃんと食べて、最後に「うまかった」とだけ言う。
だから、そこからは絞れなかった。
好きな物。必要なものは自分で買うし、余計なものは増やさない。
机の上も、部屋の中も、いつもすっきりしている。
プレゼントにしやすい「これが好き」が、思い浮かばない。
じゃあ——好きな時間。
浮かんだのは、銭湯。
湯上がりに瓶のコーヒー牛乳を一口飲んで、少しだけ目を細める横顔。
冷たい外気に当たって肩がふっと落ちる瞬間。呼吸が整う感じ。
スマホを取り出して検索窓に指を滑らせる。
『銭湯 グッズ』
タオル、スパバッグ、サウナマット。知らない単語がいくつも並ぶ。
その中に、ひとつだけ目に引っかかるものがあった。
サウナハット。
ページを開くと、「のぼせ防止」「頭部の保護」と書いてある。
「……そういうの、あるんだ」
なくても困らない。でも、あったら守れる。
それなら、いつきさんは嫌がるだろうか——そんなことを考えながら、私は駅ビルの上階へ向かった。
***
生活雑貨店の中は、外より少しだけ暖かい。
香り付きのキャンドルや、マグカップ、毛糸の靴下が並ぶ棚を横目に、私は奥へ進む。
見つけたのは、季節コーナーの端にある小さな棚。
フェルト素材の帽子が数種類、折り畳まれて置かれていた。
ポップには「温浴・サウナグッズ」とある。
手に取る。
メンズ用・ゆったりサイズ。深めタイプ。
自分の頭にそっと当ててみると、ぶかぶかで視界まで落ちてきそうになる。
「……まあ、いつきさんなら」
色はチャコール。黒ほど強くなくて、地味だけど落ち着いている。
裾の端に小さな刺繍があった。
猫のシルエット。
同色で、よく見ないと分からないくらい。
猫耳みたいな形じゃない。
ふざけてない。
でも、少しだけ柔らかい。
指で刺繍の縁をなぞる。
このくらいなら、いつきさんも嫌がらないだろうか。
「いらない」と言われても、押しつけにならないだろうか。
少し迷って、私は帽子を棚に戻しかけた。
なくても困らない。ほんとに。
でも、銭湯の帰り道。冬の空気の中で、いつきさんが首をすくめたのを思い出す。
守れるなら、守ってほしい。
私は帽子をもう一度手に取って、レジへ向かった。
会計を終えると、紙袋は思ったより軽かった。
軽いのに、手の中にちゃんと「決めた」感じが残る。
***
家の近くまで戻るころには、空がすっかり暗くなっていた。
息が白くなる。耳が少し痛い。
紙袋をコートの内ポケットに入れてファスナーを閉める。
その音がやけに大きく聞こえた。
玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
机の前から、いつきさんの声。
いつも通りの場所。いつも通りの画面。
でも、今日はその“いつも”が少し嬉しい。
「終業式、どうだった」
「……無事に終わりました。これ」
封筒を差し出す。
いつきさんは受け取らず、机の端を軽く叩いた。
「見せてみろ」
「はい」
私は封を切って成績表を広げた。
数字を並べるだけだと逃げたくなる気がして、自分の指で上がったところと、課題のところをなぞる。
「……自分で言える範囲でいい。どこが上がって、どこが課題か」
「ここが上がってて、ここがまだ……です」
言葉にすると、少しだけ落ち着く。
いつきさんは黙って見て、最後に小さく頷いた。
「上がってるな」
「少しだけです」
「少し、が一番強い。続くから」
それは褒め言葉というより評価みたいで。
でも冷たくない。ちゃんと温度がある。
「冬休み、勉強会を週二回くらいで……午前中にしようって」
「午後は休め。詰めすぎるな」
「はい」
「家でやるなら、手伝う。茶くらい出す。……その代わり、ちゃんとやれ」
「……はい」
ちょっとだけ口元が緩むのが見えて、私はうっかり笑いそうになる。
「体調落ちたら休め。無理はしない」
「分かってます」
線引きがある。
その線があるから、安心できる。
***
私は自分の部屋に戻ってコートを脱いだ。
内ポケットから紙袋を取り出す。
一度だけ開けて、猫の刺繍を確認する。
想像より、ずっとさりげない。
「……大丈夫、かな」
自分の収納の引き出しを開ける。
ハンカチとノートの下、いちばん奥にそっとしまう。
引き出しを閉めると、部屋の中が少しだけ静かになった気がした。
廊下の方から小さな物音。
いつきさんが眼鏡を外して、机の横に置いた音だった。
私は引き出しの取っ手から手を離して、窓の外を見た。
遠くの街灯が、冬の空気の中で小さく揺れている。
まだ、内緒。
修羅場で遅くなってしまいました...




