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2024年12月4日(水)

 児童相談所の自動ドアが閉まると、外の冷気がいきなり濃くなった。

 空はまだ夕方の名残りを引きずっているのに、風だけ先に夜の顔をしている。


「寒いですね」


 和葉がコートの前を押さえて言う。

 来るときより声が軽い。肩の力が少し抜けたのが分かる。


「帰るか」


「はい」


 歩き出して、二、三歩。

 和葉が小さく息を吐いた。


「……思ったより、普通でした」


「東海林さんが最初に言ってただろ。確認だって」


「はい。……でも、ほんとに確認でした」


 あの部屋の空気を思い返す。

 相談室は相変わらず事務的で、机の上の書類も、カレンダーも、全部が淡々としていた。


 俺たちが椅子に座ると、東海林は軽く頷いてから言った。


「今日は“確認”です。構えなくて大丈夫ですよ」


 和葉の肩が、そこでほんの少し落ちた。

 それから学校のこと、体調のこと、家での過ごし方。質問は端的で、答えも端的で済む。


 和葉はきちんと答えていた。

 固すぎず、崩れすぎず。俺が口を挟む必要がないくらい、自分で自分のことを言えていた。


 途中で、東海林がペン先を止めて、書類を一枚めくった。


「制度の話を一つだけ。関係性の整理という意味では、養子縁組という選択肢もあります」


 その言葉に、和葉の視線が一瞬だけ落ちた。

 返事が半拍遅れる。指先が膝の上で止まる。


 東海林は、その揺れを拾い上げないまま続ける。


「ただ、急いで結論を出す話ではありません。現状、生活は安定していますし……本人の意思が第一です」


 俺も短く付け足した。


「今の段階では考えていません。和葉の負担になることはしたくない」


 和葉は一度、息を吸ってから頷いた。


「……はい。私も、今はそれで大丈夫です」


 それで終わり。

 深掘りも、議論もない。東海林はいつも通りの落ち着いた声で、今後の連絡の取り方だけを確認して、面談を締めた。


「何かあれば、遠慮なく。こちらも必要なときは動きますが、普段は今まで通りで大丈夫です」


 “今まで通り”。

 その言葉が、やけにありがたかった。


 帰り道、和葉の歩幅が少しだけ弾む。

 俺はそれを見ながら、言葉を探して――やめた。軽く終わったからこそ、重ねる必要はない。


 家の近くまで来たところで、和葉がふと足を緩める。


「……ありがとうございました」


「礼を言うようなことはしてない」


「面談じゃなくて……いつきさんに、です」


 和葉はそれ以上言わず、視線を前に戻した。

 風が吹いて、髪が頬にかかる。指で直す動きだけが、少しだけぎこちない。


「風邪ひくなよ」


「はい」


 それで十分だった。


 ***


 帰宅して、簡単に夕飯を済ませ、湯を沸かして、こたつに戻る。

 御子神さんは食後の巡回を終えたらしく、廊下の奥から一度だけ様子を見に来て、こたつの縁で丸くなった。律儀なやつ。


 和葉は手帳を閉じ、湯のみを両手で包んだ。


「看護の話、ちゃんと伝えられてよかったです」


「言えてたな」


「はい」


 嬉しそうに笑うのに、どこか落ち着かない。

 視線が揺れて、湯のみの縁を指でなぞって、止まる。


「……あの」


 言いかけて、口を閉じた。


「なんだ」


「……いえ。なんでもないです」


 なんでもない、の言い方じゃない。

 けど、無理に言わせる話でもない。


「寝るか」


「はい」


 布団を敷く音が、部屋に静かに広がる。

 灯りを落とすと、窓の外の街灯がカーテンの端を薄く照らした。


 しばらくして、和葉の小さな声。


「……いつきさん」


「ん」


「今日は……」


 そこまで言って、止まる。

 息だけが聞こえる。


「……おやすみなさい」


「おう。おやすみ」


 返事をして、俺は目を閉じた。

 追わない。今夜は、特に。


 ***


 目が覚めたのは、腕の内側が温かかったからだ。


 寝返りを打とうとして、動けない。

 薄暗い中で見ると、和葉が俺の布団に入り込んでいた。腕に抱きつくようにして、額が上腕に当たっている。


 呼吸が浅い。眉が少し寄っていて、口元が小さく震えている。

 うなされている、というほどではない。ただ、落ち着いていない。


「……和葉」


 小さく呼んでも、返事はない。起きていない。

 俺は慎重に腕を引こうとした。


 その瞬間、和葉の指先がぎゅっと力を増した。

 拒むというより、縋るみたいに。


 息を吐く。

 寒い夜だ。布団越しに伝わってくる体温が、自分より確かに高い。熱があるわけじゃない。ただ、ここにいる、と言っている温度。


 俺は引くのをやめて、もう片方の手で掛け布団の端を持ち上げた。

 和葉の肩が冷えないように、布団を整える。触れるのは布団だけ。余計なことはしない。


 足元で、御子神さんが小さく身じろぎした。

 丸い背中が上下して、また静かになる。


 しばらくすると、和葉の呼吸が少しずつ深くなった。

 腕に絡んでいた力も、ほんのわずかに緩む。


 俺は天井を見たまま動かなかった。

 朝になれば、きっと戻る。戻してやるべきだ。今夜だけは、そういう夜だったで終わらせる。


 窓の外で風が鳴って、カーテンが微かに揺れる。

 布団の中の温度だけが、ゆっくり均されていく。


 御子神さんの寝息と、和葉の呼吸が、同じリズムで部屋を満たしていた。

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