Side:和葉 2024年11月30日(土)
土曜の昼前。
玄関で靴を履きながら、マフラーの端を少しだけ整えた。
前回ほどの緊張はない。
それでも、外に出る前には自然と背筋が伸びる。
「行ってきます」
キッチンの方から、いつきさんの声が返ってきた。
「気をつけろよ」
それだけ。
送り出されている感じがして、胸の奥が静かになる。
商店街は、いつも通りの土曜日だった。
人の流れも、音も、先週と大きくは変わらない。
同じ道を歩いているはずなのに、今日は少し落ち着いて見える。
***
「おはようございます」
店に入ると、奥さんがこちらを見て頷いた。
「二回目ね。今日はこっちお願いね」
差し出されたのは、前回より少し工程の多い作業だった。
説明は短くて、要点だけ。
分からなければ聞けばいい。
そういう前提で任されているのが分かって、肩の力が抜ける。
店の旦那さんは、作業台の向こうで黙々と手を動かしている。
私の手元を一度だけ見て、何も言わなかった。
それでいい、という合図みたいに感じた。
カップが触れ合う小さな音。
立ちのぼる湯気に、コーヒーの匂いが混じる。
店の中の空気が、静かに回っている。
しばらくして、入口の鈴が鳴った。
顔を上げると、彼方さんと遥さんが入ってきていた。
二人とも店内を一度見回してから、空いている席に向かう。
彼方さんは、私に気づくと小さく手を上げた。
「お、やってるな」
「はい」
「二回目か。どうだ?」
「……大丈夫だと思います」
「そりゃ何より」
それだけ言って、彼方さんはそれ以上踏み込まなかった。
「彼方、今は仕事中」
遥さんが、少しだけ低い声で言う。
「はいはい」
軽いやり取り。
でも、その一言で場の線がはっきりする。
昼のピークを越えると、店の空気が一段ゆるんだ。
片付けをしながら、手が少し空く時間。
「混んでないとき狙って来た」
彼方さんの声が、カウンター越しに聞こえた。
「……助かる」
旦那さんの返事は短い。
「昔は、この時間でも人が切れなかったよな」
「……ああ」
「閉めても、まだ来た」
「……そうだったな」
懐かしむというより、事実を並べているだけの会話。
私は、その声を横で聞きながら手を動かす。
「……そこ、もう少し」
旦那さんが短く言う。
「はい」
言われた通りに直すと、何も言われない。
それが、ここでの普通なんだと思う。
しばらくして、遥さんが席を立ち、私の方を見た。
「落ち着いたわね」
「はい。さっきよりは」
「初めての二回目って、この辺りが一番疲れるのよ」
そう言って、少しだけ笑う。
「……そうなんですか」
「うん。でも、ちゃんと立ってる顔してるから大丈夫」
評価というより、経験談みたいな言い方だった。
「手、冷えてない?」
「大丈夫です」
「そ。ならいいわ」
それで会話は終わった。
***
夕方。
片付けが一段落したころ、奥さんが声をかけてきた。
「今日はここまでで大丈夫よ」
「ありがとうございました」
少し間を置いて、奥さんが続ける。
「そういえばね」
作業台を拭きながら、世間話みたいな調子で。
「もし平日、学校のあとに少し入れる日があったら、
夕方だけ手伝ってもらえたら助かるなって思って」
私は、思わず手を止めた。
「もちろん、無理ならいいのよ。
学校が一番だから」
「……少し、考えてもいいですか」
「ええ。家の人とも相談してね」
決めさせない言い方だった。
でも、選択肢として置かれた感じがする。
店を出る前、彼方さんが私に向けて言った。
「無理すんなよ。様子見ながらでいいから」
「はい」
それだけで、十分だった。
***
外に出ると、夕方の空気がひんやりしていた。
商店街の入口で、いつきさんが立っている。
今回は、すぐに見つけられた。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
並んで歩き出す。
今日は、最初から一緒だ。
「どうだった」
「……できたと思います」
「ならいい」
短い返事。
それだけで、胸の奥が軽くなる。
***
家に着いて、内扉を開ける。
廊下の奥から御子神さんが顔を出して、こちらを一度だけ見てから戻っていった。
「ただいまです」
手を洗う。
タオルで拭いていると、いつきさんが小さなチューブを差し出してきた。
「これ。使え」
「……ハンドクリーム」
「水仕事だったろ」
それだけ。
受け取って、キャップを外す。
あ、押しすぎた。
白いクリームが、思ったより多く手のひらに出てしまう。
少し迷ってから、いつきさんの手を取った。
「……余ってますし」
言ってから、自分で少し遅いと思った。
「このままにするの、もったいないので」
手のひらに残った分を、いつきさんの手に移す。
指を絡めるほどじゃない。
けれど、手の全体を包むくらいの距離で触れる。
ゆっくり、手の甲から指の付け根まで、クリームを伸ばす。
温かさが伝わって、指先がほんの少しだけ震えた。
いつきさんは何も言わない。
ただ、手を引かずにそのまま任せてくれる。
それが、少しだけ胸に残る。
塗り終えて、そっと手を離す。
「……ありがとうございました」
「ん」
短い返事が、いつきさんらしく聞こえた。
ハンドクリームのやさしい香りが、こたつの中にふわりと残る。
御子神さんの尻尾が、ゆっくりと揺れた。
二回目の土曜は、
仕事だけじゃなく、帰ってからの時間まで含めて、
静かに次へ続いていく一日になった。




