Side:和葉 2024年11月25日(月)
朝の教室は、暖房の匂いがまだ薄い。
窓の外は明るいのに、風だけが冬みたいに冷たくて、首の後ろがきゅっと縮こまる。
私はマフラーの端を指で整えながら、自分の席に荷物を置いた。
「おはよ、和葉」
歩ちゃんが、いつもの調子で手を振る。
その少しあとに、朱鷺子が静かに入ってきて、私の顔を一度だけ見た。
「……ちょっと疲れてる?」
「えっ」
言われて初めて、頬がこわばっていたのに気づく。
「大丈夫です。昨日は早く寝たので」
「昨日じゃなくて、土曜のやつでしょ。初バイト!」
歩ちゃんが机に手をついて、身を乗り出してくる。
「どうだった? やばかった? 怖い人いなかった?」
「怖い人は……いなかったです」
「よかったぁ。で、どう? 楽しかった?」
楽しかった、という言葉をそのまま使うのは、少しだけ照れくさい。
私は一度、息を吸ってから答えた。
「疲れましたけど……嫌じゃなかったです」
歩ちゃんが「それ!」と指をさして笑った。
「その言い方、なんか和葉っぽい!」
朱鷺子がペンケースを机に置きながら、小さく頷く。
「嫌じゃない、は大事よ。続けられるってことだもの」
「続けられる、かは……まだ分からないです。初日なので」
「初日でその感想なら上出来でしょ」
歩ちゃんは勝手に納得した顔をして、次の弾を投げてくる。
「で、弓削さんは? 迎え来た?」
私は反射で口をつぐむ。
歩ちゃんが当たり前みたいに「弓削さん」と言うのが、いまだに少しだけくすぐったい。
「……来ました。店の近くまで」
「え、店まで?」
「帰り道だけ、一緒に」
歩ちゃんが、口笛を吹くふりをした。
「それ、普通に迎えじゃん」
「迎えっていうほどじゃないです。……合流しただけです」
朱鷺子が淡々と口を挟む。
「言い方が小さくなるのは、和葉の癖ね」
「だって……」
たしかに、来てくれたのは嬉しかった。
でも、そのまま“嬉しい”と言ってしまうと、重くなる気がして、まだ言えない。
「……来てくれるって分かってると、帰り道が楽です」
それだけ言うと、歩ちゃんが変な顔をした。
「なにそれ。かわいい」
「かわいくないです」
「かわいいよ。……で?」
歩ちゃんが、にやにやする。嫌な予感しかしない。
「進展は?」
「進展……」
私は一度、言葉を探した。
大きな変化があったわけじゃない。
……でも、何もなかったとも言いにくい。
「……マフラーのことが」
「マフラー?」
歩ちゃんが首をかしげる。
朱鷺子も、少しだけ目を細めた。
「この前、寒い日に……私が、いつきさんにマフラーをかけたことがあって」
「えっ、和葉が?」
「はい。……そのあと、別の日に。今度は、私にかけてくれました」
一拍。
歩ちゃんの口が、ゆっくり開く。
「…………それ、進展では?」
「待って。審議が必要」
朱鷺子が即座に言って、歩ちゃんが「出た」みたいな顔をする。
「だってそれ、単に“寒そうだったから”の可能性もあるでしょ」
「でもさ、わざわざ? かけ直す? 人に?」
「そこなのよ。
“優しさ”としては普通でも、相手に向ける優しさの種類が変わってる可能性はある」
朱鷺子の声が、少しだけ真面目になる。
「……私としては、どうなんでしょう」
「本人が判断を委ねてきた」
「じゃあ審議! これは進展として認定して良いのか!」
歩ちゃんが机を軽く叩いて、勝手に始めた。
「私は……半歩、だと思います」
言った瞬間、頬が熱くなる。
「半歩ね。採用!」
「採用って何」
「進展ポイント、加点!」
朱鷺子が小さく息を吐く。
「……少なくとも、後退ではないわね」
その言い方に、少しだけ救われる。
私はマフラーの端を指でつまんで、そっと整えた。
マフラーのことだけじゃない。
あのとき、自分から「途中まで」と送れたことも、たぶん同じくらい大きい。
はっきり「迎えに来て」とは言えなかったけど、
それでも、頼っていいと思えたのは、前より少し前だ。
「……半歩、です」
声に出すと、本当に少し前に進んだみたいに聞こえる。
朱鷺子が、ふと思い出したように言った。
「そういえば。進路希望のプリント、もう出したの?」
心臓が一瞬だけ跳ねた。
関係の話から、急に現実に引き戻される。
「はい。先週、提出しました。期限が近かったので」
「そっか。じゃあ次は面談ね」
「……たぶん、そうです」
“たぶん”と言うと、歩ちゃんが大げさに頷く。
「面談ってさ、家の人の話も出るんでしょ?」
私は、ほんの少し迷ってから答えた。
「家では、相談してます。だから……大丈夫です」
何が大丈夫なのか、うまく言えない。
でも、言い切ってしまえば本当に大丈夫になる気がした。
朱鷺子が、静かに言う。
「和葉は、ちゃんと前に進んでるわよ。
バイトも始めて、進路も提出して……日常が増えてる」
日常が増えてる。
その言い方が、妙にしっくりきた。
私は机の横にかけたマフラーを、もう一度指先で触る。
柔らかい毛先が、少しだけ温かい。
「……増えてます。ほんとに」
「増えてる増えてる。で、今日も放課後なんかあるの?」
「今日は……普通に帰ります」
「じゃあ一緒に帰ろー。寒いし」
歩ちゃんが笑って、鞄を軽く叩いた。
授業開始のチャイムが鳴る。
私はノートを開いて、シャープペンを持つ。
窓の外は、薄い冬の光。
その中で、校庭の木の枝が風に揺れている。
私はマフラーの端を一度だけ整えて、前を向いた。




