2024年11月23日(土)
土曜の夕方。
家の中が、いつもより静かに感じられた。
御子神さんはこたつの端で丸くなって、目だけを細めている。
起きているのか寝ているのか分からない、いつもの姿だ。
ノートPCを閉じて、時計を見る。
まだ少し早い。
迎えに行くほどの時間でもない。
そう自分に言い聞かせるのに、指は勝手にスマホを触っていた。
落ち着かない。
それが自分でも分かって、少し腹が立つ。
今日は“お試し”の初日だ。
無理に手を出すな。過保護になるな。
言い聞かせれば言い聞かせるほど、気になる。
スマホが震えた。
和葉からだ。
『終わりました。いま店を出ます。明るいので、ひとりで帰れます』
『でも、もしよければ……途中まで』
文章は丁寧で、最後だけ少し素直だ。
俺は短く返す。
『途中まで。商店街の入口で待ってろ』
コートを掴んで立ち上がると、御子神さんが「みゃ」と小さく鳴いた。
「留守番な。すぐ戻る」
猫に言っても意味はない。
それでも、言わないと落ち着かない。
外に出ると、空気が冷えていた。
昼の暖かさが消えて、頬に冷たさが当たる。
***
商店街の入口で、和葉はすぐ見つかった。
薄いマフラーを巻いて、紙袋を抱えて立っている。
背筋はまっすぐ。けれど、足先だけが少しそわそわしている。
「お疲れ」
「お疲れさまです。ありがとうございます」
顔を上げた和葉は、いつもより表情が明るい。
疲れているはずなのに、目はしっかり前を向いていた。
「大丈夫だったか」
「はい。最初は手が震えました。恥ずかしかったです」
恥ずかしいと言えるなら、余裕はある。
俺は視線を逸らしながら、紙袋を見る。
「それ、店のやつか」
「あ、はい。余ったからって。『家で食べて』って」
“家で”。
その言葉が、胸の奥に小さく引っかかる。
嫌じゃない。むしろ、少しだけ温かい。
「店の人、どんな感じだった?」
和葉は紙袋の端をつまみながら、思い出すように話す。
「奥さんが『今日はお試しだからね、焦らなくていいよ』って、一つずつ教えてくれました。
私が『ありがとうございます』ばかり言うから、『うんうん、いい子だねぇ』って笑われて……」
「言いすぎだろ」
「やめてください。癖で……」
自覚があるのはいい。
ただ、仕事中に「ありがとうございます」ばっかり言ってると忙しいだろ。
必要なときだけでいい。
「旦那さんは?」
「口数は少ないけど、手を止めるとすぐ『分からんとこあるか?』って聞いてくれました。優しかったです」
和葉は少しだけ笑って、続けた。
「あと、魚屋さんのおじさんが来て……」
「……来たか。うるさかっただろ」
「来ました。『初日か!』って勢いよく。
うるさかったけど、『頑張れよ』って言われたら、ちゃんとしようって思いました」
見られて強くなるタイプだ。
和葉は照れたみたいに、マフラーの端を握る。
風が吹いて、端がふわっと浮いた。
反射で手を伸ばして押さえる。
「すみません、だらしなくて」
「違う。寒いだろ」
端を整えて、すぐ手を離す。
触れたのは一瞬なのに、和葉の耳元が赤くなる。
「今日、迎えをお願いしてよかったです」
「途中まで来ただけだ」
「でも、来てくれるって分かると帰り道が軽いです」
言葉はまだ丁寧で、遠慮も混じっている。
それでも、必要なときは頼る。
その選び方を覚え始めたのが、ちゃんと伝わった。
***
家に着いて、内扉を開ける。
御子神さんは玄関までは来ない。
廊下の手前でいったん止まって、こっちを見た。
それから紙袋の匂いに負けたみたいに、ちょいちょいと近づく。
鼻先を寄せて、嗅ごうとする。
「御子神さん、ダメです。あとでです」
和葉が真面目に注意すると、御子神さんはしれっと目を逸らした。
俺は思わず笑ってしまう。
こたつに座って、湯を沸かす。
和葉は手を洗ってから、焼き菓子を皿に並べた。
その動きが、もう“仕事のあと”になっている。
今日一日が、ちゃんと身体に残っているのが分かる。
「疲れてるだろ。無理すんなよ」
「疲れてます。でも、嫌じゃないです」
その言い方が和葉らしい。
嫌じゃないと言えるのは、強さだ。
俺は紅茶を注いで、二つのマグを差し出す。
湯気と一緒に、甘い匂いがこたつの中に広がった。
「来週も行くんだろ」
「はい。次はもう少し手際よく動けると思います」
「ほどほどにな」
「はい。ほどほどにします。たぶん」
「一体どっちだ」
和葉が笑い、俺も息を吐く。
焼き菓子を一口かじると、口の中に甘さが広がった。
御子神さんは相変わらず動かない。
尻尾の先だけが、ゆっくり揺れている。
スマホを見ずに、ただ和葉の顔を見ている時間が心地いい。
これから遅くなる日もあるだろう。
迎えに行く回数は増えるかもしれない。
それでも、和葉が遠慮せずに「迎えに来てほしい」と言えるようになったのなら――悪くない。
俺はもう一度、湯気の向こうで和葉の笑顔を確かめた。




