表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
211/243

2024年11月23日(土)

 土曜の夕方。

 家の中が、いつもより静かに感じられた。


 御子神さんはこたつの端で丸くなって、目だけを細めている。

 起きているのか寝ているのか分からない、いつもの姿だ。


 ノートPCを閉じて、時計を見る。

 まだ少し早い。


 迎えに行くほどの時間でもない。

 そう自分に言い聞かせるのに、指は勝手にスマホを触っていた。


 落ち着かない。

 それが自分でも分かって、少し腹が立つ。


 今日は“お試し”の初日だ。

 無理に手を出すな。過保護になるな。


 言い聞かせれば言い聞かせるほど、気になる。


 スマホが震えた。

 和葉からだ。


『終わりました。いま店を出ます。明るいので、ひとりで帰れます』

『でも、もしよければ……途中まで』


 文章は丁寧で、最後だけ少し素直だ。

 俺は短く返す。


『途中まで。商店街の入口で待ってろ』


 コートを掴んで立ち上がると、御子神さんが「みゃ」と小さく鳴いた。


「留守番な。すぐ戻る」


 猫に言っても意味はない。

 それでも、言わないと落ち着かない。


 外に出ると、空気が冷えていた。

 昼の暖かさが消えて、頬に冷たさが当たる。


 ***


 商店街の入口で、和葉はすぐ見つかった。


 薄いマフラーを巻いて、紙袋を抱えて立っている。

 背筋はまっすぐ。けれど、足先だけが少しそわそわしている。


「お疲れ」

「お疲れさまです。ありがとうございます」


 顔を上げた和葉は、いつもより表情が明るい。

 疲れているはずなのに、目はしっかり前を向いていた。


「大丈夫だったか」

「はい。最初は手が震えました。恥ずかしかったです」


 恥ずかしいと言えるなら、余裕はある。

 俺は視線を逸らしながら、紙袋を見る。


「それ、店のやつか」

「あ、はい。余ったからって。『家で食べて』って」


 “家で”。


 その言葉が、胸の奥に小さく引っかかる。

 嫌じゃない。むしろ、少しだけ温かい。


「店の人、どんな感じだった?」


 和葉は紙袋の端をつまみながら、思い出すように話す。


「奥さんが『今日はお試しだからね、焦らなくていいよ』って、一つずつ教えてくれました。

 私が『ありがとうございます』ばかり言うから、『うんうん、いい子だねぇ』って笑われて……」


「言いすぎだろ」

「やめてください。癖で……」


 自覚があるのはいい。

 ただ、仕事中に「ありがとうございます」ばっかり言ってると忙しいだろ。

 必要なときだけでいい。


「旦那さんは?」

「口数は少ないけど、手を止めるとすぐ『分からんとこあるか?』って聞いてくれました。優しかったです」


 和葉は少しだけ笑って、続けた。


「あと、魚屋さんのおじさんが来て……」

「……来たか。うるさかっただろ」

「来ました。『初日か!』って勢いよく。

 うるさかったけど、『頑張れよ』って言われたら、ちゃんとしようって思いました」


 見られて強くなるタイプだ。

 和葉は照れたみたいに、マフラーの端を握る。


 風が吹いて、端がふわっと浮いた。

 反射で手を伸ばして押さえる。


「すみません、だらしなくて」

「違う。寒いだろ」


 端を整えて、すぐ手を離す。

 触れたのは一瞬なのに、和葉の耳元が赤くなる。


「今日、迎えをお願いしてよかったです」

「途中まで来ただけだ」

「でも、来てくれるって分かると帰り道が軽いです」


 言葉はまだ丁寧で、遠慮も混じっている。

 それでも、必要なときは頼る。

 その選び方を覚え始めたのが、ちゃんと伝わった。


 ***


 家に着いて、内扉を開ける。


 御子神さんは玄関までは来ない。

 廊下の手前でいったん止まって、こっちを見た。


 それから紙袋の匂いに負けたみたいに、ちょいちょいと近づく。

 鼻先を寄せて、嗅ごうとする。


「御子神さん、ダメです。あとでです」


 和葉が真面目に注意すると、御子神さんはしれっと目を逸らした。

 俺は思わず笑ってしまう。


 こたつに座って、湯を沸かす。


 和葉は手を洗ってから、焼き菓子を皿に並べた。

 その動きが、もう“仕事のあと”になっている。

 今日一日が、ちゃんと身体に残っているのが分かる。


「疲れてるだろ。無理すんなよ」

「疲れてます。でも、嫌じゃないです」


 その言い方が和葉らしい。

 嫌じゃないと言えるのは、強さだ。


 俺は紅茶を注いで、二つのマグを差し出す。

 湯気と一緒に、甘い匂いがこたつの中に広がった。


「来週も行くんだろ」

「はい。次はもう少し手際よく動けると思います」


「ほどほどにな」

「はい。ほどほどにします。たぶん」


「一体どっちだ」


 和葉が笑い、俺も息を吐く。


 焼き菓子を一口かじると、口の中に甘さが広がった。

 御子神さんは相変わらず動かない。

 尻尾の先だけが、ゆっくり揺れている。


 スマホを見ずに、ただ和葉の顔を見ている時間が心地いい。


 これから遅くなる日もあるだろう。

 迎えに行く回数は増えるかもしれない。


 それでも、和葉が遠慮せずに「迎えに来てほしい」と言えるようになったのなら――悪くない。


 俺はもう一度、湯気の向こうで和葉の笑顔を確かめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ