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Side:和葉 2024年11月23日(土)

 土曜の昼の山が、ようやく越えた頃だった。

 店の前に立つと、ガラス越しの客席は半分ほど。


 満席ではない。けれど、空気はまだ“仕事の途中”で、落ち着きすぎてもいない。


 息を吸って、ドアノブに手をかける。

 ちりん、と鈴が鳴った。


「あ、和葉ちゃん。いらっしゃい」


 エプロン姿の奥さんが笑って手を上げる。

 その笑顔は顔合わせの日と同じで、胸の奥が少し軽くなった。


「今日はお試しなんだから、無理しなくていいのよ。まずは洗い場からね」


「はい。よろしくお願いします」


 声は少し硬い。けれど、戻るつもりはない。


 カウンターの向こう、調理場から旦那さんが顔を出す。

 この店は、客席と仕事場が近い。カウンターがそのまま仕事場だ。


「じゃあ、こっち」


 短い指示。迷いがない。


 洗い場はコンパクトで、置き場が決まっている。

 洗う場所、すすぐ場所、乾かす場所。布巾の置き方、スポンジの種類まで決まりがある。


「順番、守れ。皿は重いのから。軽いのは後で流れに乗る」


「はい」


「水、冷たかったら言え。手が動かなくなる」


「大丈夫です」


 言い終えた瞬間、指先に冷たさが刺さる。

 息が止まりそうになり、奥さんがくすっと笑った。


「まぁ、みんな最初はそうよ。つい“平気”って言っちゃうのよね」


「……すみません」


「謝らなくていいの。それじゃ、やってみましょう」


 最初の皿に手を伸ばす。

 水の音が大きい。皿が重なる音も、カウンター越しの話し声も、全部が近い。


 泡を立て、こすり、流す。

 単純な動きだが、気が抜けない。周りの音が勝手に耳に入る。


「次、これ」


 旦那さんの声が短く飛ぶ。

 奥さんは客席を見ながら、合間にこちらへ目を向ける。


「大丈夫? 慣れた?」


「……まだ、です」


「ええ。まだでいいのよ」


 そう言われると、「まだ」でいられる。

 少しずつ流れが見えてくる。皿が来る。置く。洗う。流す。重ねる。音が背景になり始める。


 そのとき、奥から皿がまとまって戻ってきた。

 置き場が一瞬で埋まりそうになる。手が止まりかける。


「今、来たな」


 旦那さんの声が低い。


「順番だ。大物から。ここに置け。軽いのは後」


「はい」


 返事をして、息を吸う。

 手を動かす。泡をつけ、流し、置く。怖さは消えない。けれど、止まらない。


 奥さんが客席へ声をかける。


「少しお待たせしますねー」


 返事が返って、店がまた動く。

 私はひたすら皿を洗った。


 しばらくして、旦那さんが一度だけ頷いた。


「……よし。ここまででいい」


 皿の山が目に見えて低くなっている。

 手の動きが迷わなくなっていた。


 奥さんが近づいて声を落とす。


「じゃあ、いったん手を止めましょう。十五分だけね。こういうのも大事だから」


「……休憩、ですか」


「ええ。今のタイミングがいちばんいいの。次の波まで、少し空くから」


 洗い場から手を離すと、指先にじんと疲れが出る。

 冷たさも遅れてやってくる。


 奥さんがカウンターの端にカップを置いた。


「紅茶とコーヒーがあるけど、どっちにする?」


「……紅茶で」


「はい。じゃあ紅茶ね」


 旦那さんが短く言う。


「砂糖はいらんだろ」


「はい」


 奥さんが小皿を添える。焼き菓子がひとつ。


「これ、割れちゃったの。味は同じよ。食べて」


「……ありがとうございます」


 遠慮しすぎると変になる。

 私は小さく頷いて、ひとくちかじった。


 甘くて、温かい飲み物が喉を通ると、体がほどける。


「手、冷えてない?」


「少し……でも、大丈夫です」


「そう。大丈夫って言えるなら、大丈夫」


 旦那さんが湯気の向こうから言った。


「順番守れてた。あれができりゃ割らん」


 評価は具体的で短い。胸に残る。


「最初、音がうるさく感じるでしょ。慣れるまでがいちばん疲れるのよね」


「……うるさかったです。全部、近くて」


「そうそう。この店、近いからね」


 奥さんは客席をちらっと見て、声を少し落とした。


「来週も、同じくらいの時間で来られそう?」


 ドキッとするが、嫌ではない。


「はい。大丈夫です」


「じゃあ来週も、同じくらいで様子を見ましょう。少しずつね」


 旦那さんが頷く。


「洗い場の流れが固まれば、次は客席も見られる」


 奥さんがにこっと笑う。


「後半は、客席を少し整えるのをお願いしようかしら。拭くだけでいいの。無理しなくていいからね」


「……はい」


 返事をした自分が、思ったより落ち着いている。

 休憩って、こういうためにあるのだと実感した。


 時間が来て、奥さんが手を叩く。


「はい、休憩終わり。戻りましょう」


「はい」


 洗い場に戻るかと思ったら、奥さんが首を振った。


「今は皿が落ち着いてるから、客席を整えましょう。テーブル拭いて、イス直して。できそう?」


「できます」


「ええ。いい返事」


 布巾を渡され、私は客席側へ出た。

 視界が広がる。さっきまで“内側”にいたのが嘘のようだ。


 テーブルを拭く。水滴の跡を残さないよう端まで。

 イスを戻す。メニューを立て直す。


 奥さんはカウンターの向こうで、私の動きを見ながら接客を続ける。

 旦那さんは調理場で手を動かす。


 この店は全部が近い。だから私の動きも、きっと見える。


 ドアの鈴が鳴る。

 ちりん。


「お、今日は落ち着いてるな」


 聞き覚えのある声。魚屋のおじさんだ。

 商店街で何度も見かけた人。和葉ちゃん、と呼ぶ人。


「いらっしゃい」


 奥さんが笑って返す。


「今日はね、お試しの子が入ってくれてるの」


「へぇ」


 魚屋のおじさんの視線が、こちらに来る。


「……あれ、和葉ちゃん?」


 名前が出た瞬間、背中が少し硬くなる。

 だが、布巾を止めない。


「こんにちは」


 声は小さくていい。今は仕事中だ。


「すげぇな。もう働く側か」


「今日だけお試しなんですよ」


 奥さんがさらっと言うと、魚屋のおじさんは頷く。


「そりゃ助かる。ここの奥さん、無理しがちだからな」


「ちょっと、余計なこと言わないで」


 奥さんが笑いながら返す。

 旦那さんも調理場の奥から短く言った。


「黙って座れ」


「はいはい」


 魚屋のおじさんが席に座る。

 私はテーブルを拭き終え、イスを整える。


 知ってる人に見られている緊張はある。けれど、嫌ではない。

 ここにいる自分が、町に溶けていくようだ。


 時計を見ると、もうすぐ終わりの時間だった。

 最後に奥さんが声をかける。


「じゃあ、今日はここまででいいわ」


「はい」


 布巾を戻し、手を洗う。

 エプロンの紐をほどくと、肩がふわっと軽くなる。


「初日でこれだけできたら十分。来週も、同じ時間で。大丈夫?」


「はい。大丈夫です」


 言い切れる。逃げない。


 奥さんがカウンター下から紙袋を取り出して差し出した。


「これ、持って帰って。余っちゃって」


 中には焼き菓子がいくつか。さっき食べたのと同じ匂い。


「……ありがとうございます」


「家で食べてね。今日はよく動けてたもの」


 “よく動けてた”と言われて、胸の奥がじんわり温かくなる。

 照れくさいが、嫌ではない。


 店を出ると、空気がひんやりしていた。

 夕方の冷たさで頬が引き締まる。


 紙袋を抱え直して、商店街を歩き出す。


 疲れはあるが、嫌ではない。

 また来る。そう思えた。


 スマホを取り出し、連絡先を開く。指が少し止まる。

 今日はまだ明るいが、次はもう少し遅くなるかもしれない。


 遅くなる日は、ちゃんと連絡しよう。

 迎えに来てもらうのも、選べるように。


 その考えが、胸の奥の緊張を別の形に変えた。

 怖いだけではない。


 私は歩き出した。

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