Side:和葉 2024年11月16日(土)
玄関を出る直前、前髪に触れそうになってやめた。
ピンがきちんと留まっている感覚が、まだ残っている。
首元のマフラーも、室内でかけてもらったまま。
――大丈夫。今日は、一人で入る。
お店のドアに手をかけた瞬間、心臓が一段だけ跳ねた。
だいじょうぶ。
さっき、いつきさんが「行ってこい」って言ってくれた。
短いのに、ちゃんと背中が押される。
鈴が、ちりん、と鳴る。
「いらっしゃいませ――」
奥から出てきたのは、エプロン姿の女性だった。
笑うと目尻がふわっとやわらかい。
その後ろから、同じくらいの年の男性が顔を出して、私を見て頷いた。
髪に白いものが混じっているのに、立ち姿がしゃんとしている。
「……美作和葉です。今日、お時間いただいて……」
声が少し上ずった気がして、言い終わった瞬間に口の中が乾いた。
でも女性は、そんなの気にしていないみたいに笑う。
「あら、丁寧。こちらこそね。彼方くんから聞いてるよ。緊張しなくていいから、こっち座って」
案内されたのは、入口から少し奥の二人席だった。
店内は思ったより静かで、コーヒーと焼き菓子の匂いがする。
外の冷たい空気が、急に遠くなる。
椅子に座ったとたん、肩の力が抜けそうになって、慌てて背筋を立て直した。
「じゃあ、まず簡単に。和葉ちゃん、だよね」
「はい。和葉です」
奥から男性がカウンター越しに声を乗せる。
「彼方には世話になってる。あいつ、小学生の頃からこの辺うろうろしてたからな」
「それ、言わなくていいの」
女性が笑って、男性の肩を軽く叩く。
その仕草が、長い時間のやり取りみたいで、少しだけ安心した。
――彼方さんが小学生の頃から。
ということは、このご夫婦はきっと、ずっとこの場所で店を回してきた人たちだ。
「うちは基本、俺が調理。女房が接客で回してきた」
男性の声は落ち着いていて、言い切り方に迷いがない。
女性――奥さんは笑顔のまま頷いた。
でも立ち上がるとき、ほんの少しだけ腰に手が添えられたのを見て、私は視線を外した。
見なかったふりをした方がいい気がした。
「最近ね、ちょっと調子に波があって」
奥さんは明るい声で言う。
明るいのに、息を整える間がほんの一瞬だけ挟まる。
「私ひとりで回す時間があると、どうしてもバタついちゃうの。だから募集してるのよ」
「無理して倒れられても困るからな」
男性が短く言って、奥さんが「はいはい」と笑う。
笑いながらも、二人とも本気で困っているのが分かった。
私は膝の上で指を握り直して、できるだけ落ち着いた声を作った。
「私、こういうお店で働くのは初めてです。なので……できることから、教えていただけたら」
「うん。初めてでいいのよ」
奥さんがメモ帳を出して、混む時間帯を指でなぞる。
「土日の昼が一番。あと、午後もお客さんが途切れない日があるの。まずは洗い物と片付けからお願いできる?」
「はい。洗い物は、家でもよくやってます」
男性が「それなら助かる」と頷く。
「洗い場は場所と流れが大事だからな。最初は俺か女房が横で見る。慣れたら一人で回せるようにする」
“横で見る”。
その言い方が、押しつけじゃなくて、当たり前の段取りみたいで安心する。
「立ち仕事、大丈夫?」
奥さんに聞かれて、私は一度息を吸った。
「……はい。体力には自信あります」
「それなら助かるわ」
奥さんが頷いて、続けた。
「裏が回るようになったら、少しずつ接客もお願いしたいの。配膳とか、お水出しとか。レジはすぐじゃなくていい。順番にね」
――接客。
その言葉だけで、胸の奥がきゅっとなる。
初めての場所で、ちゃんと動けるか。
お客さんの前で固まらないか。
迷惑をかけないか。
でも、「少しずつ」と言われたら、逃げたい感じにはならなかった。
怖いのはある。でも、やってみたいも、ちゃんとある。
取り繕うのも違う気がしたから、私は正直に言った。
「……不安はあります。でも、やってみたいです」
奥さんが目を細めて笑った。
「うん。そう言えるなら大丈夫。最初はみんなそうだから」
男性も短く頷く。
「無理そうなら遠慮なく言ってくれ。こっちが調整する」
その言葉が、“逃げ道”じゃなくて“安全帯”みたいに聞こえた。
「じゃあ、来週の土曜日。短い時間でいいから、お試しで入ってみる?」
奥さんの提案に、私は一瞬だけ息を止めた。
お試し。
それって、ちゃんと「次」があるってことだ。
「……はい。お願いします」
言ったあと、遅れて実感が追いかけてきた。
私、今、ちゃんと返事した。自分で。
「よし。最初は説明して、洗い場の流れと皿の戻し方から。慣れりゃすぐだ」
「はい。ありがとうございます」
奥さんがにこっと笑って、最後に念押しした。
「当日は動きやすい靴でね。髪は今日みたいにまとめて。あと、寒いから上着もしっかり」
「はい」
頷きながら、私は自分の首元に触れたくなった。
マフラーが、まだあたたかい。
ドアのところまで見送られて、鈴が鳴る。
外の冷気が頬に当たる。
さっきより冷たいはずなのに、息が白くなるのが少し嬉しい。
そして、すぐ目に入った。
向かい側の植え込みのそば。
コートの襟を立てて立っている、いつきさん。
見つけた瞬間、胸の中がほどけたみたいに緩んで、思わず歩幅が小さくなる。
変に走ると子どもっぽいから、早足だけで。
「……お待たせしました」
「待ってない。どうだった」
ぶっきらぼうなのに、視線がちゃんと私を見ている。
その感じが、いちばん安心する。
私は胸の前で指をきゅっと組んで、うなずいた。
「……お話、できました。ちゃんと」
「そうか」
いつきさんの目が、私の前髪に一瞬だけ行った。
確認。たぶん、ほどけてないか。
それがなんだか嬉しくて、言葉が少し柔らかくなる。
「来週、一度だけ、短い時間でお試しを、って。最初は洗い物からで、慣れたら……接客も少しずつ、って」
「決めたのか」
「はい。……やってみたいです」
言い切れた。逃げなかった。
そのことが、自分でも誇らしい。
「……じゃあ、帰るか」
「はい」
歩き出してすぐ、私はマフラーの端を握り直した。
さっきより、力が抜けてる。
室内でかけてくれたマフラー。
外に出てからも、ずっとあったかい。
「……あの」
「ん?」
「待っててくれて、ありがとうございました」
礼を言うところ、そこじゃない気もした。
でも、言わないと落ち着かなかった。
「待ってただけだ」
「それが……助かりました」
風が少し弱まったところで、私はマフラー越しに小さく笑った。
「……髪、ほどけてませんか」
「ほどけてない。気にすんな」
「……よかった」
言った瞬間、いつきさんがほんの少しだけ視線を外した。
なにか言いかけたみたいに、口元がわずかに動いて――でも、何も言わない。
代わりに、いつも通りの声が落ちてくる。
「帰ったら昼だ。何食う」
私は少しだけ迷ってから、素直に言った。
「……うどん、でもいいですか」
「いい」
それだけで、胸の奥があったかくなる。
たぶん今日の私は、ちゃんと前に進めた。




