Side:和葉 2024年11月12日(火)
玄関の鍵が回る音がして、足音が遠ざかる。
「いってらっしゃい」
言い終わってから、部屋が少しだけ広く感じた。
いつも静かなはずなのに、今日は“静かさの種類”が違う。
さっき、出かける前。
弓削さんの首に、マフラーをかけたときのことを思い出す。
自分でできる、って言われるのは分かってた。
でも今日は、かけてあげたいと思った。
嫌がられたらどうしよう、と一瞬だけ迷って。
それでも手を伸ばした。
「……ありがと」
そう言われたとき、胸の奥が少しだけあたたかくなった。
大げさなことじゃない。
特別なことでもない。
でも――なんか、いいなって思った。
それだけで、今日は十分だった気がする。
私は台所に戻って、火を止めた味噌汁の鍋にふたをした。
夕飯の時間ではないのに、匂いが残っていると落ち着く。自分の中の「家」が、ここにある感じがする。
冷蔵庫を開けて、麦茶のポットを確認する。
さっき作ったばかりで、まだ冷えきっていない。氷を足すこともできるけど、今日はやめた。帰ってきたら、ちゃんと冷えたものを出したい。
廊下の奥で、小さな気配が動く。
「……御子神さん」
名前を呼ぶと、御子神さんは一度だけこちらを見て、ゆっくり近づいてきた。
玄関には行かない。えらい。けど、家の中の“抜けた分”はちゃんと分かっている顔だ。
「ごはん、先にしよっか」
器を置いて、袋を開けて、いつもの量を入れる。
御子神さんは迷わず食べ始めた。安心する音。
私はその背中を少しだけ撫でて、スマホを手に取った。
迷ったのは一瞬。今日は、話したほうがいい気がした。
通話ボタンを押す。相手は二人。
『もしもーし! 和葉ー!』
先に出たのは歩ちゃん。元気すぎて、耳がくすぐったい。
『こんばんは。急にどうしたの』
朱鷺子の声は落ち着いている。いつも通りで、少し安心した。
「こんばんは。今、大丈夫?」
『大丈夫大丈夫! 夜に電話めずらし!』
「うん。今日は、ちょっと……弓削さんがいないから」
『えっ!? いないの!?』
「用事で外。遥さんと彼方さんと、ごはん」
『あー、各務夫妻! なるほどね!』
歩ちゃんが納得して、すぐに次へ行こうとする。
『それで、電話の用事は?』
朱鷺子が先に聞いてくれた。
私は息を整えて、言った。
「二つあるの。バイトの話と……今日の学校のこと」
「学校のほうは、委員長の件」
電話の向こうが一拍だけ静かになった。
『……あれね』
歩ちゃんの声が、急に小さくなる。わざとらしいほど。
『無理に言わなくていいけど。和葉が話したいなら聞く』
朱鷺子の言い方はいつもまっすぐだ。押してこないのに、逃げ道だけは残してくれる。
「大丈夫。話す」
「一人で抱えてるの、よくない気がして」
『それそれ。そういうの大事』
歩ちゃんが即肯定してくれる。
「じゃあ先に、バイトのほう」
私は御子神さんの背中を撫でながら続けた。
「最近、弓削さんと“バイトどうする”って話を何回かしてて」
「お金のためっていうより、社会経験としてやってみたい」
「……でも、初めてだから、正直ちょっと怖い」
『え、偉くない!? 社会経験って言えるの偉い!』
「歩ちゃん、褒めすぎ」
『だって偉いもん!』
朱鷺子は一拍置いて、現実の方を聞いてくる。
『条件は? 時間とか』
「夜遅いのは避けたいかな」
「帰り道が安全で、人がまともで……できれば変な人が寄ってこない感じ」
『まとも、って条件が一番難しいわね』
朱鷺子が淡々と言って、歩ちゃんが吹き出す。
『やめてよ朱鷺子、現実見せないで!』
『でも大事よ』
朱鷺子は崩さない。そこが頼もしい。
『学校終わりなら、夕方から短時間?』
「うん。週に何回とかも、最初は少なめがいいかも」
『じゃあさ、候補は? カフェとか? 本屋とか?』
「それが……まだ“ここ!”って決まってない」
「いろいろ考えるほど、逆に迷って」
『いいじゃん! じゃあ私らで勝手に候補出していこう!』
『勝手に決めない』
朱鷺子のツッコミが入る。
『でも、方向性は決められる。人が多い場所は避けたい?』
「うん。最初は、落ち着いてるところがいい」
『だったら、個人店の喫茶店とか。客層が安定してると楽』
『あとさ、図書館の整理とか! ああいうの最高じゃん!』
「歩ちゃん、図書館はバイト募集そんなに無いよ」
『えっ、そうなの!?』
このテンポで話せるだけで、肩の力が抜ける。
私は気づかないうちに笑っていた。
『でも和葉、ちゃんと考えてて偉いわ』
朱鷺子が短く言った。
「……ありがとう」
そして、深呼吸ひとつ。
「じゃあ、学校のほう」
「委員長の件」
歩ちゃんが「うん」と小さく返事をする。
朱鷺子も声の温度を少しだけ落とす。
「……委員長の件ね」
「返事したことは、二人もだいたい察してると思う」
「あの日、時間作ってくれたし……背中押してくれたから」
一度、息を吸う。
「結論から言うね」
「断った」
『……だよね』
歩ちゃんが、ため息みたいに言う。
『理由は言えた?』
朱鷺子が、淡々と確認する。
「言えた」
「好きな人がいるから、って」
言い切ると、胸の奥が少しだけ熱くなった。
あのときの私は、逃げなかったと思う。
『……言ったんだ』
朱鷺子の声が少し柔らかくなる。
『委員長、どうだった? 変な感じになってない?』
「驚いてた。でも、最後はちゃんと引いてくれた」
「しつこくされたりは、なかった」
『それなら良かった』
朱鷺子がはっきり言った。
歩ちゃんが息を吸う。
『でさ……和葉』
『その“好きな人”ってさ……』
わかってる。わかってるのに、言われると心臓が変な跳ね方をする。
私は即答できなかった。
言葉にしたら、もっと現実になる気がしたから。
『……弓削さん?』
朱鷺子が、静かに確認した。
……当てないでほしいのに、当ててほしいみたいな顔をしてたんだろうか。
私は御子神さんの背中を撫でて、落ち着こうとした。
「……うん」
短く答えたら、歩ちゃんが盛大に息を吸った。
『やっぱりぃ!?』
「声大きい」
『だってだって! そりゃそうじゃん!』
『歩、うるさい』
朱鷺子のツッコミが入る。けど、声がどこか優しい。
「……でも」
私は続けようとして、言葉が詰まった。
「好きって言うの、簡単じゃない」
「委員長には言えたのに、弓削さんのことは……なんか、怖い」
『怖い?』
「うん。認めたら、変わっちゃいそうで」
「今の生活とか、距離とか」
朱鷺子が少しだけ間を置く。
『じゃあ、例え話をするわね』
「例え話……?」
『もし、よ。もし私が弓削さんと付き合ったとしたら——和葉、どう思う?』
ぶっこみが強すぎて、私は一瞬、声が出なかった。
『ちょ、朱鷺子!? 急に何言ってんの!?』
歩ちゃんが叫ぶ。
「え、えっ……?」
頭に浮かんだ瞬間、嫌だ、と思った。
その気持ちが自分でもはっきりしていて、余計に恥ずかしい。
御子神さんは気にせず、まぶたを半分だけ閉じている。ずるい。
『ほら。今のが答えに近い』
朱鷺子の声が冷静で、さらに刺さる。
『それに私、前に言ったでしょ。年上、わりとタイプって』
『言ってた! 言ってた!』
歩ちゃんが勢いよく頷いている気配がする。
「……うん。聞いた」
現実味が出て、余計に驚く。
朱鷺子がそれを分かった上で言ってるのが、なおさら。
『でも、例え話よ』
朱鷺子はさらっと言った。
『それに、和葉と弓削さんなら——私は和葉を選ぶわ』
「……え」
『友情という意味ね』
少しだけ笑い混じりの声。
だけど冗談じゃなくて、ちゃんとした線の引き方だった。
『だから安心して。和葉は自分の気持ちを認めればいい』
胸の奥が、すっと軽くなった。
「……ありがとう」
「なんか、ひとりでぐるぐるしてた」
『だから電話して正解!』
歩ちゃんが言い切る。
『委員長の件、しばらく様子見でいいわ。変な動きがあったら、すぐ言って』
朱鷺子が現実の支え方を添える。
「うん。ありがとう」
通話を切って、スマホを置く。
御子神さんは、いつの間にか私の足元で丸くなっている。
「……よし」
私は立ち上がって、キッチンの片付けを始めた。
コップを二つ出して、ひとつは自分用、もうひとつは弓削さん用にする。
まだ帰ってこないのに用意しておくのは変かもしれない。
でも、変じゃない。今の私の“待ち方”は、たぶんこういう感じだ。
麦茶のポットに手を伸ばす。ちゃんと冷えている。
ちょうどいい。
冬は、ちゃんと来る。
だからこそ、私もちゃんと進む。




