2024年11月12日(火)①
台所の隅に、みかんの箱がもう一つ増えている。
先週買った箱は、気づけば空になった。
俺が好きで食ってるのもあるが、和葉が「お弁当の後にちょうどいいです」と一日一個を当たり前みたいに持っていくせいもある。
冬が、生活の中に入り込んできた。
「……また箱で買ったんですね」
朝。制服の上からカーディガンを羽織った和葉が、段ボールのふたを覗き込む。声が少し弾んでいた。
「先週の、なくなったからな」
「なくなるの、早いです……」
「お前も食ってるだろ」
「はい。……美味しいので」
ふたを開けると、みかんの匂いがふわっと広がった。
皮の張ったやつと、少しだけ柔らかいのが混じっている。
「……一個、持っていっていいですか?」
「ああ」
言ってから、俺は箱の中に手を入れた。指先で軽く押して、硬すぎないやつを探す。ひとつ選んで、和葉の方へ差し出した。
「これ」
「……ありがとうございます」
和葉は受け取って、小さく笑った。
「……御子神さんも、気になってるみたいですけど」
和葉が廊下の奥へ視線をやる。
そこに御子神さんがいるわけじゃない。けど、気配だけは確かにある。たぶん、さっきから様子を見に来ている。
「……危ないですよね」
「まあな。柑橘はやめとけ」
「ですよね」
和葉はみかんを鞄に入れた。
こういうやり取りが増えた。以前なら、何かひとつ借りるだけで先に謝って、最後に「やっぱり大丈夫です」と引いていた。今は、要件が先に来る。頼み方が、だいぶ普通になった。
その変化が、俺には少しだけ眩しい。
***
昼休み。仕事の合間にスマホを触ると、彼方から短いメッセージが入っていた。
〈今週どっかで飲むぞ。遥もいる。来れる日ある?〉
飲みの誘い自体は珍しくない。けど「遥もいる」とわざわざ書いてくるのは、たいてい話があるときだ。
俺は指を止めて、条件を頭の中で並べた。
夜遅くならない。帰りが安全。和葉が一人で困らない。――話をするなら、今がちょうどいい。
返信は短く。
〈行きます。二時間だけ〉
すぐに返事が来た。
〈よし。二時間で帰れ。俺が見張っとく〉
見張るの意味が分からない。
……たぶん、分からなくていい。
***
十八時を回って、仕事用の画面を閉じた。
台所から味噌汁の匂いがする。帰宅した和葉が、制服の袖をまくって鍋をかき回していた。こういう動作が、もう「家の音」になっている。
「今日は、少し遅くなる」
和葉は火を弱めながら、振り返った。
「お仕事ですか?」
「いや、用事。遥さんと彼方さんと飯」
「……あ、遥さんと彼方さん」
名前が出た瞬間、和葉の顔が少し柔らかくなる。あの夫婦に対する安心感があるんだろう。
「私、留守番ですね」
「そうなる。鍵は閉めろ。知らない来客は出るな」
「はい。分かってます」
返事が早い。余計な言い訳もない。
「御子神さんのごはん、私がやっておきます。あと……麦茶、作っておきますね」
「頼む」
言葉にしてしまうと、頼ってるみたいで少し気まずい。でも、和葉はもうそれを遠慮の材料にしない。普通に「はい」と返すだけだ。
俺は上着を羽織って、玄関で靴を履いた。
そのとき、背中にふわっと温かいものが落ちてきた。
「……今日は風、冷たいですから」
首元に回されたのはマフラーだった。
和葉の手つきは手慣れている。端を軽く整えて、すぐに手を引っ込める。
「自分でできる」
「知ってます。でも、今はこれが早いです」
反論するほどの理由がなくて、俺は息を吐いた。
「……ありがと」
「はい」
和葉は嬉しそうに笑って、少しだけ距離を取る。
廊下の奥から御子神さんが様子を見に来て、こちらを一度だけ見てから戻っていった。相変わらず玄関には来ない。えらい。
「……行ってくる」
「いってらっしゃい。気をつけてください」
背中に届く声が、明るい。
冬はちゃんと来る。けど、この部屋の空気は、前より冷たくない。
***
居酒屋は、商店街から一本外れたところにある。暖簾の向こうは平日でもそれなりに賑やかで、鍋の湯気と焼き鳥の匂いが混ざって体の芯がほどけた。
「弓削! おせーぞ!」
カウンターの奥で、彼方が手を振った。相変わらず声がでかい。遥さんはその隣で、落ち着いた顔でメニューを見ている。
「仕事してたんだよ」
「知るか。飲め」
「ちょっと、彼方。まず座らせてあげなさい」
遥さんがそう言って、俺の前に水を置いた。こういうところが、この夫婦のバランスだ。
乾杯だけ済ませて、俺は先に切り出した。
「……相談がある」
彼方が目を丸くして、遥さんが少しだけ眉を上げる。
「珍しいわね。弓削くんから“相談”って」
「和葉のことか?」
「……まあ、そう」
俺は一度だけ息を吐く。
この二人には、ちゃんと最初から言っておくべきだ。
「バイトの話なんだが」
「和葉が、やってみたいって言ってる」
彼方が「へえ」と短く言い、遥さんが黙って続きを待つ。
「金が目的って感じじゃない。……社会経験として、やった方がいいと思ってる」
「ただ、最初の一歩が難しい」
「最初の店選び、ってやつか」
彼方が箸を止めた。
「そう」
俺は頷いて、指を折っていく。
「夜はなし。帰り道が安全。変な客がつきにくい。責任者がまとも」
「あと……本人が嫌がらないこと」
「最後のひとつが、一番大事ね」
遥さんが言った。声が少し柔らかい。
「“やらせる”のは違うもの。選べるようにして、決めるのは和葉ちゃん」
「俺もそう思ってる」
言いながら自分の言葉を確認する。俺が決めることじゃない。俺が勝手に手を引いて、和葉の選択肢を狭めるのも違う。
「で、つて?」
遥さんが聞いた。
「……紹介できるところがあるなら、話だけでも聞きたい」
彼方が口笛を吹く。
「お前が“話だけ”って言うの、めずらしーな。相当まじめに考えてんな」
「まじめに考えない理由がない」
返すと、彼方は「そりゃそうだ」と笑った。
遥さんは箸を止めて、少しだけ考える顔をした。それから、俺を見て言う。
「その条件なら……うちが一番やりやすいと思うの」
「……遥さんのとこ?」
「そう。大きい病院じゃないから、調理室みたいなものはないのよ。食事は配食だし、調理はさせない」
言葉が具体的で、余計な飾りがない。それだけで安心材料になる。
「お願いするなら“院内サポート”。清掃と備品。配膳の受け取りと下げまで。医療行為はもちろん、絶対に触れさせない」
「患者さんへの対応も、基本は私かスタッフが入る。そこはちゃんと線を引くわ」
彼方が横から入る。
「何かあったら、遥が――」
「怒らないわよ。ちゃんと注意するだけ」
「同じだろ」
俺は思わず息を吐いた。笑いに近い。
遥さんが続ける。
「それにね、見学のときの和葉ちゃん、覚えてる」
職場見学の話を、ここで出してくるのは上手い。遥さんが思いつきで言ってないと分かる。
「はしゃがないで、ちゃんと周りを見てた。動線も邪魔しなかったし、説明も最後まで聞いてたの。向き不向きって、そういうところに出るのよ」
「……ただ」
俺は即答しない。ここで俺が「お願いします」と言ってしまうと、和葉の選択肢に見えなくなる。
「本人がどう感じるか次第です」
「ええ、もちろん。決めるのは本人」
遥さんは迷いなく頷いた。
「私は“こういう選択肢がある”って、話を聞かせてあげるだけ。断ってもいい前提でね」
彼方が、ぐいっとグラスを飲み干してから言う。
「病院が合わなかったとき用に、他も出しとくか?」
「……頼む」
「昼だけの喫茶店。俺の知り合いがやってる。客層は落ち着いてる。あと、調剤薬局の棚整理。あそこは店長がまともだ」
「高校生OKかは確認がいるわね」
遥さんが現実を添える。
選択肢が増える。それだけで、一段楽になる。和葉が「選べる」状態に近づく。
遥さんが最後に言った。
「弓削くん。今は決めなくていい」
「……はい」
「でも、準備だけはしておきなさい。選べる状態にしてあげて」
俺はグラスの水滴を指でなぞった。
準備をする。選べるようにする。
それ以上を望むのは、まだ先だ。
***
家に帰ると、部屋の灯りがちゃんとついていた。玄関を開けた瞬間、麦茶の匂いがする。和葉が作って、冷蔵庫に入れておいたんだろう。
「おかえりなさい」
こたつの横から、和葉が顔を上げる。髪が少しだけほどけていて、家の中の顔をしていた。
「ただいま」
御子神さんは俺の足元まで来ない。少し離れたところで丸くなって、しっぽだけ動かした。通常運転。
「麦茶、冷えてます」
「……助かる」
和葉は「はい」と笑って、コップを出した。俺が座ると、対面にちょこんと座る。
ここで全部話すのは簡単だ。店の名前も、条件も、あれこれ。
でも、それは違う。
「和葉。バイトの件」
和葉の背筋がすっと伸びる。目が真剣になる。
「はい」
「選択肢は、いくつか出せそうだ。安全面も含めて」
「……ほんとですか」
声が明るい。けど、浮かれすぎない。そういうところが、和葉らしい。
「ただ、決めるのはお前だ。俺が決める話じゃない。話を聞いてみて、嫌なら断っていい」
「はい。……ありがとうございます」
和葉は、すぐに「でも」と言わなかった。遠慮で引かない。代わりに少しだけ考えてから言う。
「まず、話を聞いてみたいです」
「そうしろ」
それだけでいい。今夜は、それだけで十分進んだ。
御子神さんがこたつの角で丸くなる。和葉の足先が少し動いて、猫に当たらない位置に収まった。小さな気遣いが、自然に出るようになっている。
俺は麦茶を一口飲んで、喉の奥を冷やした。
冬は、ちゃんと来る。
だからこそ、先のことも、少しずつ整えていく。




