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2024年11月5日(火)

 十一月に入って、空気がひとつ薄くなった。

 朝は息が白いほどじゃないが、夕方になると手が冷える。


 スマホが震えた。


「今日、商店街……一緒に行けますか」


 和葉からのメッセージだった。

 普段の買い出しは和葉が一人で済ませることが多い。

 それでも今日は、“一緒に”と来た。


「どうした」


「みかん、箱で買いたくて。重いので」


 言い切るのが早い。言い訳がない。

 最近の和葉は、こういう頼み方をする。


 仕事を一区切りつけて、商店街の入口へ向かった。

 合流地点に着くと、和葉が制服の上にカーディガンを羽織って立っている。鞄を胸の前で抱えて、こちらに気づくとすぐ頭を下げた。


「お待たせしました」


「寒くないか」


「大丈夫です。今日は、みかん買いに来たので」


「もうそんな時期か、いいな」


「はい。今週、安いって言ってました」


 返事が軽い。

 以前の和葉なら、先に謝って遠慮して、最後に「ひとりで大丈夫です」と引いていたと思う。今日は違う。こちらの返事を待たずに歩き出す。


 気づくと、横に並んでいた。

 肩が触れるほどじゃないが、距離が近い。


「こっちです。果物屋さん」


 店先の箱を見て、和葉がすぐ決める。


「これ、甘いって。前に買ったとき当たりだったので」


「覚えてるんだな」


「覚えてます。家で食べるものですし」


 “家で”。

 さらっと言う。言葉が早い。余計な間がない。


 店の人が顔を上げて声をかけてきた。


「お、今日は二人か。箱でいくの?」


「はい。ひと箱ください」


 返事が早い。

 声も明るい。俺が口を挟む前に会話が進む。


 会計を済ませると、店の人が段ボールをこちらに向けた。


「重いぞ。兄ちゃん、頼むわ」


「はい」


 持ち上げると、ずしりと腕に来る。

 和葉は当然のように、袋物をまとめて持った。


「すみません。ありがとうございます」


「いい。箱買いするなら、最初から呼べ」


「呼びました」


 言い切る声が妙に明るい。

 そういうやり取りが増えた。


 帰り道、商店街の別の店先からも声が飛んできた。


「寒くなったなあ。風邪ひくなよ」


「はい。気をつけます」


 和葉が先に答える。

 笑顔も作り物じゃない。俺の後ろに隠れない。


 特別なことじゃない。

 ただ、そういう歩き方になっただけだ。


 ***


 帰宅して、箱を台所の端に置く。

 御子神さんが廊下の奥から様子を見に来て、こちらを一度だけ見てから戻った。


「ただいま」


 和葉が御子神さんに言って、それから俺を見る。


「みかん、ひとつ出しますね」


「頼む」


 段ボールを開ける音。

 みかんの匂いが、部屋の中に広がった。


 そのまま和葉は押し入れの前へ行き、扉を開けた。


「こたつ布団、出します?」


 提案の速度が早い。

 答える前にもう手がかかっている。


「そろそろな」


「じゃあ、先に敷きますね」


 布団を広げ、角を揃える。

 御子神さんが作業の途中から当然のように潜り込んだ。


「……早いな」


「定位置ですから」


 和葉が笑う。軽い。含みがない。


 天板を戻して電源を入れると、部屋の温度が足元から変わっていく。

 こたつの上に、みかんが二つ並んだ。


「食べます?」


「食う」


「じゃあ、私も」


 向かい合ってみかんを剥く。

 皮の匂いが広がって、冬が来たと思う。


 その流れで、こたつの上にプリントが並んだ。

 三者面談の案内。進路希望調査。


 和葉の名前とクラスは書いてあるが、志望の欄は空白のままだった。


「来てたんだな」


「はい。提出はまだ先です」


「看護で行くんだろ」


「はい。そこは、変わってません」


 相談というより、確認だ。

 すでに共有している話を、生活の段取りに戻すだけ。


「面談はその方向でいい。細かい学校の話は、資料を揃えてからだな」


「分かりました。私も、まとめておきます」


 返事が早い。

 そして、そのままメモを取り始めた。


 通帳のことも確認した。

 金額は言わない。見る必要もない。

 少なくはないが、これで全部賄えるほどでもない――それだけ分かれば十分だ。


「足りない分は制度も含めて整理する。今すぐ決めなくていい」


「はい」


 和葉はみかんを一房口に入れて、すぐ飲み込んだ。


「アルバイトのことも、少し調べてます」


「無理のない範囲でだぞ」


「学校に影響が出ないところで考えてます。決まったら、先に言います」


「それでいい」


 条件を出す。

 守るかどうかは、和葉が決める。


 こたつの中で、足先が少し動いた。

 触れはしない距離。けれど、離れすぎてもいない。


 御子神さんが、こたつの中で丸くなる。

 その温度に、和葉の声が馴染んでいく。


「寒くなりましたね」


「ああ」


「こたつ、好きです。落ち着きます」


 “好き”。

 落ち着く、という言葉がすぐ後ろについたのが、和葉らしいと思った。

 この家の中で、好きと言えるものが増えている。


 ***


 夕飯を済ませ、片付けを終えて風呂の準備をする。

 和葉が先に入り、俺は洗い物の残りを片付けて、御子神さんの水を替えた。


 俺の番になって脱衣所へ入ると、棚に見慣れないボトルが並んでいた。

 シャンプーと、トリートメント。それから、細いボディソープ。


 ああ。この前の買い物は、これか。


 今まで深く考えずに男物だけ置いてきた。

 それで困るとも思っていなかった。


 気を遣う、というほど大げさな話じゃない。

 でも最初から用意してやれてもよかったな、とは思う。


 必要なものを、必要だと思って揃えられるようになった。

 それだけで、十分だ。


 湯船に沈むと、肩の力が抜けた。

 こたつとみかんとプリント。今日の話は、どれも生活の話だ。


 風呂から上がると、こたつの中で御子神さんが丸くなっていた。

 和葉はその隣で、ノートの端を揃えてペンをしまっている。


「おやすみなさい」


「おう。おやすみ」


 電気を落とす。

 この家の冬支度が、ひとつ進んだ。

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