2024年10月30日(水)
文化祭が終わって数日。
平日はいつも通りに進んで、夕方になると和葉が帰ってくる。
鍵の音。内扉。
御子神さんが廊下の奥から様子を見に来て、少しだけこちらを見てから戻っていった。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
和葉は玄関で制服の裾を直してから、まず御子神さんに「ただいま」を言う。
それから俺を見る。最近、この順番が妙にきっちりしている。
夕飯は手早く済ませた。
凝ったものを作るほどの余裕はないが、出来合いを並べる気分でもない。冷蔵庫の野菜と肉で炒め物を作り、和葉が味噌汁を温める。
「学校はどうだった」
「普通でした。……でも、文化祭の話はします」
「まだするのかよ」
「します。終わったばっかりです」
声が弾む。
俺が見に行ったこと。クラスの片付け。調理班の後処理をクラス委員の子と一緒にやった話。歩ちゃんの声がまだ枯れてること。朱鷺子が淡々と会計を締めたこと。
話題が途切れない。俺が相槌を打つ前に、次が来る。
「……お前、よく覚えてるな」
「覚えてます。だって、全部、嬉しかったので」
さらっと言う。
照れも、ごまかしも薄い。言葉が早い。前からこうだったか、と聞かれると上手く答えられない。
ただ最近は、迷いが少ない。
食器を下げ、風呂の準備をする。
和葉が先に入り、俺はその間に洗い物の残りを片付けて、御子神さんの水を替えた。
風呂から上がると、部屋の空気がいったん落ち着く。
ここで一日が終わるはずなのに――俺はデスクに戻って、仕事の続きを始めた。昼にやり切れなかった分を片付けるだけだ。
エアコンの送風と、キーボードの打鍵音。
その間に、もうひとつ増えたものがある。
視線。
画面を追っていると、ふと肩のあたりがむず痒くなる。
見られている、というほど強くはない。けど、気配がこちらに向いたのが分かる。
手を止めて振り返ると、和葉はこたつでノートを開いていた。ペンも握っている。
ただ、書いているというより――止まっている。
本人は勉強しているつもりでいる。たぶん。
「……どうした」
声をかけた瞬間だった。
「なにか、お手伝いすることありますか」
食い気味。待ってました、と言わんばかりの早さ。
俺のほうが一拍遅れて瞬きする。
「今はない」
「はい。じゃあ、続きやります」
和葉は視線をノートへ落とす。落とすが、俺がまたキーボードを叩き始めるまで、ページはめくられなかった。
しばらくして、机の端にコップが置かれた。
「……麦茶です。冷たいの、飲みます?」
「おう。助かる」
置き方がうまい。邪魔にならない位置。声も短い。置いたらすぐ引く。
なのに、さっきの「お手伝い」の勢いだけが、頭のどこかに引っかかったままだ。
ここ数日、和葉のタイミングが妙にいい。
俺が一区切りつく瞬間を、本人が意識しているとは思いたくない。けど、そういう“ちょうど”が増えた。
――役割を探してる。
そんな言い方は大げさか。
でも、用事がなくても用事を作ろうとする。そういう速さがある。
仕事が一段落したところで、和葉が小さく咳払いをした。
「いつきさん、ネットで買い物してもいいですか」
和葉が、いつもの調子で聞いてきた。
「必要なものなら、俺が出すぞ」
反射で言うと、和葉は一瞬だけ口を開け、それから首を横に振った。
「いえ。個人的なものなので……私が払います」
「個人的?」
「はい。……生活の中で使うんですけど、私のなので」
言い方が妙に丁寧で、逆に踏み込む気が失せる。
女性物だろう。そういうのは詮索するもんじゃない。
「……金額だけは無理するなよ」
「はい。大丈夫です。コンビニ決済、使いますね」
「分かった」
それで終わり。
和葉はスマホの画面を真剣に見つめ、支払い手順を確認するみたいに指を動かしている。
“今必要”というより、“準備”に見えたのは――たぶん、気のせいだ。
俺は残りの仕事を片付け、ようやく電気を落とした。立て込んでいたせいで、時計はいつもより少し進んでいる。布団に入ると、御子神さんはいつもの場所で丸いまま動かない。
***
深夜。喉が渇いて目が覚めた。
暗闇の中で身じろぎすると、布団の中がやけに狭い。
和葉が、ほとんどこちらの布団に入ってきていた。
前にもあった。
ただ――最近は、それが増えた。
寝相。冷え込み。理由はいくらでも作れる。
起こして戻すほどのことでもない。
俺は息を殺して、和葉の肩のあたりにだけそっと手を添えた。
押すんじゃなく、位置を戻すだけ。
ゆっくり。
布団の境目を越えていった体温が、少しずつ向こうへ戻っていく。
掛け布団を直して、隙間ができないように整える。
そのとき――和葉が、ほんの少しだけ眉を寄せた気がした。
寂しそうに、見えた気がした。
……気のせいだろ。
最近、夜が冷える。
そろそろ冬用の毛布を出す時期かもしれない。
そう思って目を閉じた。




