2024年10月27日(日)
家の鍵を回す前から、廊下の奥で気配がした。
御子神さんが、待ってる。
「ただいま」
ドアを開けて、すぐ閉める。施錠してから内側の柵を開けると、御子神さんは短く鳴いて足元へ来た。
身体を擦りつけるでもなく、“帰宅チェック”だけ済ませて満足したみたいに、尻尾だけ揺らして戻っていく。律儀なやつ。
鞄を置いて手を洗い、冷蔵庫を開ける。
卵、豆腐、ネギ。キャベツが半玉。味噌汁は昨夜の残りが少し。
――十分だ。
フライパンを温め、キャベツをざくざく切る。卵を落としてさっと炒め、塩をひとつまみ。
味噌汁を温め直して、豆腐とネギを足す。
凝ったことはしてない。けど、今日は出来合いを並べる気分じゃなかった。
あの騒がしさの中から帰ってきて、手を動かして、部屋の温度を“いつも”に戻したかった。
――今日は、行ってよかった。
あの子が、ちゃんと笑ってたから。
湯気が立ち始めたころ、玄関の鍵が回った。
「ただいま戻りました」
声が、いつもより少し高い。
疲れてるはずなのに、まだ興奮が抜けてない声だ。
「おう。おかえり」
和葉が靴を揃え、鞄を下ろし、制服の襟を直す。動きは丁寧。けど、肩がわずかに落ちてる。
見た目は“いつも通り”にしてるのに、足元だけ正直だ。
「……お疲れ」
言うと、和葉は一拍だけ目を丸くしてから、ふっと笑った。
「ありがとうございます。いつきさんも……今日、来てくれて」
「邪魔になってなかったならいい」
「邪魔じゃないです。ほんとに」
言い切るところが、今日は妙に強い。
祭りのあと、ってこんなもんか。
和葉は手を洗ってから、こたつの前に座った。湯呑みを両手で包み、ふうっと息を吐く。
その吐息が、ようやく“終わった”って形になったみたいだった。
「売れました。……思ってたより」
「へえ」
「パウンドケーキ、午前中で一回目がなくなって」
「歩ちゃんが声張るの、強すぎて。あれ、才能です」
「だろうな」
想像がつく。歩は勢いがいい。
朱鷺子は、静かな顔で淡々と回す。
その中で、和葉がちゃんと笑って、手を動かして、客を見て――やれていた。
「……和葉」
「はい」
「よくやった」
短く言うと、和葉は湯呑みの縁を見つめたまま頷いた。
嬉しそうなのに、照れるのが下手で、顔を上げない。
「……はい」
その“はい”が、今日は少しだけ柔らかい。
夕飯は、簡単に済ませた。
和葉が皿を並べる。俺は味噌汁をよそい、炒めた卵とキャベツを小鉢に分けた。
「……わぁ。いい匂い」
「手抜きだぞ」
「手抜きでも、あったかいのが嬉しいです」
箸を動かすたび、和葉の肩から少しずつ力が抜けていくのが分かった。
食欲があるなら大丈夫だ。今日はまず、寝て回復すればいい。
御子神さんが“ご飯のあとはすり寄る時間”をきっちり守って、こたつの足に身体を擦りつけてきた。
和葉が小さく笑う。
「御子神さん、今日も律儀ですね」
「俺に似たんだろ」
「自分で言います?」
「言う」
和葉が、くすっと噛み殺すみたいに笑った。
やっぱり、今日のテンションは少しだけ違う。悪い方じゃない。
片付けを終えて、和葉に先に風呂へ行かせる。
湯を張る音がして、しばらくすると浴室から小さく鼻歌が聞こえた。
……いや、聞こえた気がしただけか。
たぶん、気のせいにしとくのが一番平和だ。
俺は台所を拭いて、御子神さんの水を替える。
ふと、玄関の方を見た。
今日、外で見た“学校”は賑やかで、騒がしくて、眩しかった。
ここは静かで、狭くて、ぬるい。
けど――帰ってくる場所としては、十分だ。
風呂場の扉が開く音。
和葉が出てきた。髪はタオルでまとめて、首筋にまだ湯気の名残がある。パジャマ姿で、目だけ少し眠そう。
「……お風呂、ありがとうございました」
「俺は何もしてない」
「でも、お湯があるのは、助かります」
そう言って、こたつの前に正座する。
そして、間を置かずに顔を上げた。
「……お願いがあるんですけど」
「何」
「ストレッチ、手伝ってください」
「ストレッチ」
「脚が、棒です」
言いながら、ふくらはぎを軽く揉んで見せる。
その動きが、今日一日の疲れを一気に現実にした。
「やり方、わかるのか」
「動画で見ました。……でも、一人だと加減が難しくて」
「……わかった」
俺はタオルを一枚持ってきて、こたつを少し壁際に寄せた。
足元のラグがずれて、御子神さんが「何してんだ」みたいな顔で見上げる。
それでも、床に座るスペースは作れた。
「靴下履け。冷える」
「はい」
「じゃ、足出せ」
「言い方」
「うるさい」
和葉が笑いながら、足を伸ばした。
俺はタオル越しに足裏へ引っかける。
「痛かったら言え」
「はい。……でも、我慢したほうが効きますよね?」
「我慢の方向が違う」
「じゃあ、ちゃんと言います」
タオルを引いて、ふくらはぎから太ももの裏へ。
筋が張っている。今日は相当立ちっぱなしだったんだろう。
「……っ」
「痛いか」
「痛いです。……でも、効いてます」
「それでいい」
角度を少し緩めて、呼吸のタイミングに合わせる。
こういうのは、勢いでやると逆に痛める。
もう片方もやって、最後に肩を軽くほぐす。服の上から、手のひらで押す程度だ。
御子神さんが近づいてきて、俺の手元を見てから、和葉の膝の上に丸くなった。
「御子神さんまで来た」
「見学です」
和葉は小さく笑って、肩を回した。
「……すごい。楽になりました」
「なら寝ろ」
「はい」
返事は素直なのに、目だけがまだ明るい。
祭りの余熱が、身体のどこかに残ってる顔だ。
***
歯を磨いて、顔を洗う。
布団を敷き、灯りを落とす。
今日の和葉は、布団に入ってもすぐ寝ない気がした。
実際、隣の気配はまだ落ち着かない。寝返りというより、話の続きを探している動きだ。
「ねえ、いつきさん」
暗がりで呼ばれると、昼間の喧騒が嘘みたいに近い。
「なんだ」
「来てくれて……嬉しかったです」
いきなり来る。
布団の中だから、余計に直球が刺さる。
「……行くって言っただろ」
「はい。でも、“言った”と“来た”は、違います」
理屈が強い。今日の和葉は。
「……まあ、そうだな」
俺が折れると、和葉は満足そうに、でも静かに息を吐いた。
「終わったから、やっと言える気がして」
「何が」
「……いろいろ、です」
それ以上は言わない。
言わないのに、今日の和葉がずっと喋っていた理由だけは、なんとなく分かる気がした。
和葉は文化祭の話を続けた。
歩が呼び込みで喉を潰しかけたこと。朱鷺子が最後まで計算をミスらなかったこと。
片付けが妙に大変だったこと。疲れたのに、みんな笑っていたこと。
誰がどう頑張って、どこが大変で、それでも楽しかったこと。
その中で、自分がちゃんと立っていられたこと。
話が途切れるたびに、和葉は小さく息を吸って、また別の話題を拾ってくる。
話し足りないというより、黙るのが惜しいみたいだった。
俺は相槌を打ちながら、天井を見ていた。
しばらくして、和葉が言う。
「……明日、起きられる気がしません」
「起きろ」
「はい」
返事は素直。
けど、声はもう眠い。
「今日だけだ。今日くらいは、甘えていい」
自分で言っておいて、少しだけ間が空いた。
隣の布団が、かすかに鳴る。寝返り――というより、距離を測る音。
暗がりで、指先が触れた。
探るみたいに。ためらうみたいに。
和葉の手だった。
握るわけでもなく、ただ触れているだけ。
それが、そっと指に絡んでくる。
触れて、離れて。
また、触れる。
俺は、引かなかった。
かといって、握り返すこともしなかった。
「……何してるんだ」
少しだけ間があって、和葉が息を吸う気配。
「……確かめています」
「何を」
「……大丈夫、ってこと」
それ以上は続かなかった。
意味は、よく分からない。
ただ、指先に伝わる温度が、さっきより落ち着いてきた気がした。
「……ありがとうございます」
そう言って、和葉の手が引かれる。
暗がりに戻った指先を見つめてから、俺は天井へ視線を戻した。
――今日は、これでいい。
それ以上、確かめる必要もない。
「寝ろ」
「はい。……おやすみなさい」
「おやすみ」
足元で、御子神さんが一度だけ尻尾をぱたんと動かした。
それが、今日の締めの合図みたいで――俺も目を閉じた。




