幕間 Side:朱鷺子③
教室は片付けの音でまだ賑やかだった。
ガムテープが裂ける音。段ボールの角がぶつかる音。誰かの笑い声。
文化祭が終わったという実感は、いつも遅れてやってくる。
こういうとき、終わりは拍手じゃなくて、床のゴミと机の脚でできている。
「……朱鷺子ー、これ運ぶの手伝ってー!」
「今行く」
歩が元気すぎるのは、いつものことだ。
疲れているはずなのに、声だけで全員の体力を一段階引き上げる。
私は黒板消しを片手に、教卓のまわりを整える。
文字の跡を消して、チョークの粉を払って、プリントの端を揃える。
最後は必ず、教室を「いつもの形」に戻したくなる。
なのに今日は、落ち着かない。
さっき、和葉が委員長を呼び止めた。
「少し、お時間いただけますか」
平常心を装っている声だったが、指先が少し強く握られていた。
歩と私は、ほんの一秒だけ目を合わせた。
言葉は要らない。たぶん、私たちが思っている通りのことだ。
昨日。
和葉は言った。委員長に告白された、と。
言い方は淡々としていたのに、顔は淡々ではなかった。
だから私は背中を押した。
押したというより、逃げ道を塞いだに近い。
返事はする。先延ばしにしない。
和葉が、そういう子だから。
「……朱鷺子。和葉、戻ってこないね?」
歩が段ボールを抱えたまま、ひそひそ声で言う。
「戻る。時間が要るだけ」
「えー、返事って、そんな長い?」
「長いでしょ。短いほうが怖い」
「それは分かるー……」
歩は「うわー」と言って肩をすくめた。
感情の起伏は大きいのに、肝心なところではちゃんと察する。そこが歩の強さだ。
……私は、察しすぎるのが弱点かもしれない。
先回りして最悪を想像して、余計に慎重になる。委員長もたぶん、同じ種類の人間だ。
だからこそ、余計に思う。
和葉の「好き」の相手は、たぶん攻略難易度が高い。
相手が、相手だ。
あの人――弓削さん。
良く言えば堅実。実直。悪く言えば臆病。
そして何より、保護者フィルターが厚い。
たぶん「未成年」という属性からの攻撃は、全部無効化してくる。
色気? 無効。
甘え? 無効。
距離の近さ? たぶん無効。
強い。ギミックを理解しないと、土俵にも立てないタイプのボスだ。
「朱鷺子、顔こわっ」
「こわくない」
「いや今、絶対“無理ゲー”って顔してた」
「してない」
歩がニヤニヤしながら肩をぶつけてくる。
私は黙って、黒板の隅をもう一度きれいに払った。
……でも、無理ゲーって言われたら否定できないのが腹立つ。
和葉の武器は何だろう。
性格。姿勢。根気。
誰かのために手を動かせるところ。
頼まれたら断れないのに、やると決めたらちゃんと形にするところ。
それに――
……まあ、ある。
悔しいけど、分かりやすく「ある」。
美醜じゃない。スペックの話だ。
私にないものを、あの子は普通に持っている。
なのに、弓削さんには届かない。
保護者フィルターで全弾弾かれてる。理不尽だ。
結局のところ、持久戦に持ち込むしかない。
タイミングを待って、想いを溜め続けて――
そして一撃で仕留める。
……いや、物騒ね。恋愛だって。
「朱鷺子、また顔こわっ」
「だからこわくない」
「和葉のこと考えてる顔が、いちばん怖いんだって」
歩が笑う。
私も笑いそうになって、口元だけで止めた。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
教室の入口に、和葉が立っている。
……戻ってきた。
表情は整っている。
でも、目が少しだけ違う。泣いたあとでも、強がったあとでもない。
たぶん、覚悟を決めたあとの顔だ。
「和葉! おかえり! ほら、次!」
歩がいつも通りの声で呼ぶ。
和葉は一瞬だけ息を吐いて、段ボールに手をかけた。
「うん、今行く」
私は何も聞かない。聞くのは私の役目じゃない。
今ここで必要なのは、片付けを終わらせることだ。
――それに、聞かない優しさも、たまには必要だと思う。
「これでだいたい片付いたな。最後、床のゴミだけ拾っておけよー」
先生の声が落ちて、教室の空気が少し軽くなる。
和葉も「はい」と言った。平常心の声だった。
床の紙くずを拾って、机の位置を揃える。
普段の教室が戻ってくる。
「よし。そろそろ戸締まりするぞ。帰り支度しろー」
先生がそう言った瞬間、ようやく本当に終わった気がした。
廊下に出る。
どこかのクラスの笑い声が遠くて、校舎の中が急に広い。
歩が私と和葉の間に割り込んできた。
目だけで、和葉の顔を覗き込む。
「……ねえ和葉。何も聞かないけど、聞きたい。何も聞かないけど」
「歩、うるさい」
「だって気になるじゃん!」
「……大丈夫」
和葉はそれだけ言って、少しだけ笑った。
うまく笑えているか分からない笑い方。でも、逃げる笑いじゃない。
私は一歩遅れて、ふたりの背中を見る。
和葉の歩幅は、ちゃんと前を向いている。
……よし。
攻略は長い。弓削さんは硬い。
でも、和葉は根気がある。持久戦なら、あの子の得意分野だ。
私は小さく息を吐いて、いつもの調子で言った。
「歩。今日は黙って帰る」
「えー!?」
「和葉が“今日は”大丈夫って言ってる。なら今日は、それでいい」
歩は不満そうに口を尖らせたが、すぐに頷いた。
「……はーい。朱鷺子がそう言うなら」
私は視線だけで和葉を見て、最後にひとつだけ心の中で付け足す。
――ただし。焦っちゃいけない、和葉。
最終ボスは強いけど、HP管理をミスったら、こっちが先に落ちるから。
校舎の外はもう薄暗い。
文化祭の飾りが風に揺れて、紙がかさりと鳴った。
終わった。
でも、あの子の“これから”は、たぶんここから始まる。
そんなことを思いながら、私は歩と和葉と並んで、駅へ向かって歩き出した。




