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コンプライアンスを遵守したい年の差恋愛  作者: 金雀枝
第8章:近くて、遠い
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幕間 Side:朱鷺子③

 教室は片付けの音でまだ賑やかだった。

 ガムテープが裂ける音。段ボールの角がぶつかる音。誰かの笑い声。


 文化祭が終わったという実感は、いつも遅れてやってくる。

 こういうとき、終わりは拍手じゃなくて、床のゴミと机の脚でできている。


「……朱鷺子ー、これ運ぶの手伝ってー!」


「今行く」


 歩が元気すぎるのは、いつものことだ。

 疲れているはずなのに、声だけで全員の体力を一段階引き上げる。


 私は黒板消しを片手に、教卓のまわりを整える。

 文字の跡を消して、チョークの粉を払って、プリントの端を揃える。


 最後は必ず、教室を「いつもの形」に戻したくなる。


 なのに今日は、落ち着かない。


 さっき、和葉が委員長を呼び止めた。


「少し、お時間いただけますか」


 平常心を装っている声だったが、指先が少し強く握られていた。


 歩と私は、ほんの一秒だけ目を合わせた。

 言葉は要らない。たぶん、私たちが思っている通りのことだ。


 昨日。


 和葉は言った。委員長に告白された、と。

 言い方は淡々としていたのに、顔は淡々ではなかった。


 だから私は背中を押した。

 押したというより、逃げ道を塞いだに近い。


 返事はする。先延ばしにしない。

 和葉が、そういう子だから。


「……朱鷺子。和葉、戻ってこないね?」


 歩が段ボールを抱えたまま、ひそひそ声で言う。


「戻る。時間が要るだけ」


「えー、返事って、そんな長い?」


「長いでしょ。短いほうが怖い」


「それは分かるー……」


 歩は「うわー」と言って肩をすくめた。

 感情の起伏は大きいのに、肝心なところではちゃんと察する。そこが歩の強さだ。


 ……私は、察しすぎるのが弱点かもしれない。

 先回りして最悪を想像して、余計に慎重になる。委員長もたぶん、同じ種類の人間だ。


 だからこそ、余計に思う。

 和葉の「好き」の相手は、たぶん攻略難易度が高い。

 相手が、相手だ。


 あの人――弓削さん。


 良く言えば堅実。実直。悪く言えば臆病。

 そして何より、保護者フィルターが厚い。


 たぶん「未成年」という属性からの攻撃は、全部無効化してくる。


 色気? 無効。

 甘え? 無効。

 距離の近さ? たぶん無効。


 強い。ギミックを理解しないと、土俵にも立てないタイプのボスだ。


「朱鷺子、顔こわっ」


「こわくない」


「いや今、絶対“無理ゲー”って顔してた」


「してない」


 歩がニヤニヤしながら肩をぶつけてくる。

 私は黙って、黒板の隅をもう一度きれいに払った。


 ……でも、無理ゲーって言われたら否定できないのが腹立つ。


 和葉の武器は何だろう。


 性格。姿勢。根気。

 誰かのために手を動かせるところ。

 頼まれたら断れないのに、やると決めたらちゃんと形にするところ。


 それに――


 ……まあ、ある。

 悔しいけど、分かりやすく「ある」。


 美醜じゃない。スペックの話だ。

 私にないものを、あの子は普通に持っている。


 なのに、弓削さんには届かない。

 保護者フィルターで全弾弾かれてる。理不尽だ。


 結局のところ、持久戦に持ち込むしかない。

 タイミングを待って、想いを溜め続けて――


 そして一撃で仕留める。


 ……いや、物騒ね。恋愛だって。


「朱鷺子、また顔こわっ」


「だからこわくない」


「和葉のこと考えてる顔が、いちばん怖いんだって」


 歩が笑う。

 私も笑いそうになって、口元だけで止めた。


 そのとき、廊下から足音が近づいてきた。

 教室の入口に、和葉が立っている。


 ……戻ってきた。


 表情は整っている。

 でも、目が少しだけ違う。泣いたあとでも、強がったあとでもない。


 たぶん、覚悟を決めたあとの顔だ。


「和葉! おかえり! ほら、次!」


 歩がいつも通りの声で呼ぶ。

 和葉は一瞬だけ息を吐いて、段ボールに手をかけた。


「うん、今行く」


 私は何も聞かない。聞くのは私の役目じゃない。

 今ここで必要なのは、片付けを終わらせることだ。


 ――それに、聞かない優しさも、たまには必要だと思う。


「これでだいたい片付いたな。最後、床のゴミだけ拾っておけよー」


 先生の声が落ちて、教室の空気が少し軽くなる。

 和葉も「はい」と言った。平常心の声だった。


 床の紙くずを拾って、机の位置を揃える。

 普段の教室が戻ってくる。


「よし。そろそろ戸締まりするぞ。帰り支度しろー」


 先生がそう言った瞬間、ようやく本当に終わった気がした。


 廊下に出る。

 どこかのクラスの笑い声が遠くて、校舎の中が急に広い。


 歩が私と和葉の間に割り込んできた。

 目だけで、和葉の顔を覗き込む。


「……ねえ和葉。何も聞かないけど、聞きたい。何も聞かないけど」


「歩、うるさい」


「だって気になるじゃん!」


「……大丈夫」


 和葉はそれだけ言って、少しだけ笑った。

 うまく笑えているか分からない笑い方。でも、逃げる笑いじゃない。


 私は一歩遅れて、ふたりの背中を見る。

 和葉の歩幅は、ちゃんと前を向いている。


 ……よし。


 攻略は長い。弓削さんは硬い。

 でも、和葉は根気がある。持久戦なら、あの子の得意分野だ。


 私は小さく息を吐いて、いつもの調子で言った。


「歩。今日は黙って帰る」


「えー!?」


「和葉が“今日は”大丈夫って言ってる。なら今日は、それでいい」


 歩は不満そうに口を尖らせたが、すぐに頷いた。


「……はーい。朱鷺子がそう言うなら」


 私は視線だけで和葉を見て、最後にひとつだけ心の中で付け足す。


 ――ただし。焦っちゃいけない、和葉。

 最終ボスは強いけど、HP管理をミスったら、こっちが先に落ちるから。


 校舎の外はもう薄暗い。

 文化祭の飾りが風に揺れて、紙がかさりと鳴った。


 終わった。


 でも、あの子の“これから”は、たぶんここから始まる。


 そんなことを思いながら、私は歩と和葉と並んで、駅へ向かって歩き出した。

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