2023年3月25日(土)①
普段は、道を外さないように生きているつもりだった。
特別正義感があるわけでも、立派な人間なわけでもない。ただ、誰かに迷惑をかけず、無難に過ごしたいと思っていた。
でも――あの日の俺は、少しだけ疲れていた。
在宅での仕事を終えて、いつもより重い肩をほぐすように、近所にある馴染の銭湯へ向かっていた。
小雨がまだ残っていて、傘を差して歩いていた。
春先にしては気温が低く、空は夕方を過ぎてもどんよりと曇ったまま。
そんなとき、歩道の端にしゃがみ込んだ、小さな人影が目に入った。
思わず、足が止まった。
少女だった。
細い肩に制服のブレザー、濡れた髪が頬に張りついている。
膝を抱えるようにうずくまり、顔は伏せたまま。こちらに気づいているのかどうかもわからない。
通報すべきか。声をかけるべきか。それとも、見なかったふりをするべきか。
こんな時代だ。大人の男が少女に声をかけたら、それだけで誤解を招く。
わかってる。わかってるが――
でも、そうやって皆が目を逸らしてきたから――今の彼女が、ここにいるんじゃないか。
気づけば、俺は傘を差し出していた。
「……寒くないか?」
少女は顔を上げない。ただ、かすかに肩が震えているのがわかった。
「困ってるなら、交番に……いや、病院のほうがいいか」
それでも反応はない。
俺は手に持っていたタオルを迷いながらも差し出した。
「今、銭湯に行こうと思ってたんだが……体、冷えてるよな。一緒に来るか?」
その言葉に、少女が微かに顔をこちらに向けた。
濡れた髪の隙間からのぞく瞳が、まっすぐに俺を見ていた。
「……いいの?」
掠れた、小さな声。
「ああ」
俺は思わず頷いていた。
少女と並んで歩き出す。
といっても、隣を歩くには少し距離がある。
濡れた靴がアスファルトを踏むたびに、ぐちゅ、と音を立てる。
そのたびに、彼女の細い肩が小さく震えていた。
何か言ったほうがいいだろうか、と一瞬迷ったが、言葉が出てこなかった。
傘を持っているのは彼女だ。
でも、俺が濡れるより、きっとそっちのほうが正しい。
そのまま、黙って歩き続けた。
銭湯の明かりが見えたとき、少しだけ肩の力が抜けた。
入り口の前で足を止め、振り返る。
「ここで、待ってるんだ」
少女は驚いたように俺を見たが、何も言わずにうなずいた。
傘を手渡して、俺は駆け出した。
――服。
いったん家に戻ろうかと思ったが、大柄な男物なんて彼女に合うはずがない。
(コンビニ……Tシャツとインナーくらいはあるはず)
濡れた服は、銭湯の脱衣所にあるコインランドリーでなんとかなるだろう。
彼女にぴったり合うわけじゃないが、着替えがないままというわけにもいかない。
足元の水たまりを踏みながら走りながら、
こんなこと、普段の俺なら絶対にやらなかっただろうな、と思った。
でも、今だけは迷っている余裕なんてなかった。
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不慣れな点もあるかと思いますが、週に1~2回の更新を目指してがんばります。