2023年3月26日(日)④
和葉が話し終えたとき、室内は静まり返っていた。
誰も言葉を挟まなかった。ただ、その沈黙は、すべてを受け止めるためのものだった。
「……話してくれて、ありがとう」
東海林の声は、穏やかで、少しだけ震えていた。
彼は手元の資料を整えながら、静かに続ける。
「本日より、和葉さんは一時保護の措置対象となります。
まずは、医療機関での観察と心理的ケアを行い、心身の安全を最優先に」
和葉は小さくうなずいた。弓削はその隣で、静かに息を吐いた。
「今後のことについてですが……」
東海林は少し言いよどんでから、慎重に言葉を選ぶ。
「一般的には、再婚した義父に親権があると見なされます。
ただし、今回のように虐待が疑われる場合には、親権の停止や喪失を家庭裁判所に申し立てることが可能です」
弓削は背筋を正し、東海林を見据えた。
「その申し立ては、誰ができるんですか」
「主には、児童相談所、もしくは後見人候補や親族による申し立てが可能です」
「もし……彼女が望むなら。俺がその立場になれる可能性はありますか」
東海林は一瞬だけ目を細めた。
「未成年後見人としての選任には、家庭裁判所の判断が必要です。
ですが、あなたのように、当人に信頼されている大人の存在は非常に重要です」
それから、今度は東海林が和葉に視線を向けた。
「……和葉さん。あなた自身の意思も、非常に大切になります」
和葉は、少し驚いたように顔を上げた。
「現時点では、法的には義父との関係が残っていると仮定して進めています。
でも、もし――あなたが、今後一切、義父と関わりたくないと強く望むなら、私たちはその意志を尊重します」
和葉の目が、かすかに揺れる。
「……もう、関わりたくないです」
「二度と、顔も見たくありません」
その一言には、恐れよりも静かな決意が込められていた。
東海林は、ゆっくりとうなずいた。
「わかりました。それなら、こちらでも正式な対応を進めていきます」
弓削が少しだけ肩の力を抜く。
「……彼女のことを、今後も見守っていきたいと考えています」
「ありがとうございます。まずは我々が責任を持って安全を確保し、
後見人選任や委託先については、明日以降、関係機関と調整していきましょう」
「はい」
会話がひと段落すると、部屋の壁際に控えていた女性職員が一歩前に出る。
東海林は彼女に対し軽く頷いた。
「それでは、案内させてもらいますね」
女性職員は和葉の目線に合わせるようにしゃがみ、やさしく声をかけた。
「……弓削さん」
和葉が、すこし迷いながら口を開く。
「また、来てくれますか……?」
「ああ。必ず行く」
「……約束、ですよ?」
「約束だ」
和葉はほんの少しだけ笑った。
その笑みは、すこしだけ頬をゆるませるだけの、小さな希望だった。
***
弓削は、帰り道の途中で足を止めた。
雲間からのぞく夕陽に、少しだけ目を細める。
(親権のこと。裁判。後見人……)
現実味のない単語ばかりが、頭の中で反響している。
だけど。
(あの子が、自分の足で生きていけるようになるなら)
(俺は、その背中を支える役目くらい、引き受けてもいい)
小さく、頷くように顔を上げた。
***
「……ただいま」
家の扉を開けると、三毛がすぐに足元へ駆け寄ってきた。
「飯か。ちゃんと覚えてるな」
いつもの餌皿にフードを入れると、三毛は嬉しそうに鳴いた。
「……あの子も猫好きらしい」
ぽつりと独り言のように呟きながら、ソファに身を沈めた。
(誰にも期待していなかったあの目が、少しだけ変わっていた)
(俺に、何かを託そうとしてた)
重いようで軽い、軽いようで苦しい。そんな責任を、今、胸の奥に抱えている。
三毛がソファに飛び乗って、弓削の膝にくるりと丸くなった。
「……しばらくは、そっちに構ってやれないかもな」
寝息のような音が、ゆっくりと部屋に広がっていった。
いつもどおりのお時間になってしまいました。
すみません、1章はもう暫く続きそうです。
ほっこりする展開はまだ先になってしまいますが、気長にお付き合いいただけますと嬉しいです。
今回もご覧いただきありがとうございました。