第九話 欠けた鍵と音なき反響
記憶を奪われ、真実が改竄された都市で、レイは「かつての自分」を知る手がかりを追う。
だがそれは、世界を侵食する“偽りの歴史”との静かな戦争の始まりでもあった——。
レイは《クラフト零番館》のカウンターに座り、冷めたコーヒーを見つめていた。
「ユルゲンが生きていて、“仮面の男”の下で動いてる……どういう構図なんだ?」
呟きに、カウンター越しのマスターは無言でカップを差し出した。中には濃い琥珀色の液体。
「今度の依頼、妙に騒がしいな。普段の“雑用屋”とは格が違うように見えるが」
「……ただの記録調査だよ」
「それにしちゃ、昨日のお前の傷は深すぎる」
レイは答えず、代わりにコートの内ポケットから取り出した。
歪んだ水晶片。あの戦いの直前、ユルゲンが意図的に落としていった“記憶の残骸”。
「こいつが……鍵になる気がする」
水晶を魔導投影器に挿入すると、そこにはわずか数秒間だけ“記録”が残っていた。
薄暗い部屋。中央に鎮座する球体の装置。そして、手前の壁に描かれた一つの紋章。
「……これは?」
「“偽歴教団”だにゃ」
エルが低く唸った。
「都市の深層に棲む、“時間を塗り替える”連中にゃ。公式には存在しない。けど……記録操作、記憶捏造、個人史の改変。あらゆる“過去の犯罪”を支える組織」
レイは紋章の形を投影機に記録し、転送端末を起動した。
「調べる。“偽歴教団”の拠点を、痕跡を、関係者を」
「誰に頼むにゃ?」
「……《紙魚堂》だ」
エルが目を細めた。
「また変な名前出てきたにゃ」
「地上で言う“古書屋”。けど、実際は“過去の記録だけを売買する闇市”の屋号だ。信用はできないが、精度は確かだ」
夜の第九環区。書店の看板すらない地下路地の先、《紙魚堂》と書かれた白木の扉。
レイが中に入ると、空気がすぐに変わった。
埃の匂い。静かすぎる空間。天井から吊るされた水晶灯が、棚に並ぶ無数の古書と“記録片”を照らす。
「……レイ・クロイツァー。お前がここに来るのは、三年ぶりだったか」
声の主は、半透明の皮膚を持つ記録精霊。《紙魚堂》の管理者、《トウヤ》。
「“偽歴教団”の紋章。十五年前の中枢記録と繋がっていた。情報が欲しい」
「……それを出すには、対価がいる。“お前自身の記憶”だ」
レイは即答した。
「いいだろう。けど、“選ばせてもらう”。俺が手放す記憶は、俺が選ぶ」
トウヤは微笑み、小さな木箱を取り出した。中には、レイが渡した水晶が吸い取られていく。
代わりに渡されたのは、数ページの記録ファイル。
記録断片:十三年前、仮中央教会地下施設“第弐保管域”
観測された活動記録:術理研究官ユルゲン・メイルハルト、
同行者:未登録個体“R-KzR.β”、記録照合率78%(現クロイツァーとの一致)
内容:未完成の“偽歴中核装置”に接続試験——失敗。暴走事故発生。記録網層に影響。
結果:当該人物の記憶断裂確認、修復不能と判断。機関により身元隠蔽、再社会化処理へ移行。
通達者名:仮面付き人物、符号【イミテーターA】
「……“R-KzR.β”。コードネームか、実験体扱いだった……俺は」
レイの拳が、わずかに震えた。
「お前の“今の記憶”は、偽造された人格履歴に基づいて構築された。だが……完全には消しきれなかった。“猫”が残っている」
エルがしっぽをゆっくり振った。
「俺が、元々どんな存在だったか……それが問題じゃない」
レイはファイルを胸ポケットにしまい、立ち上がる。
「俺は今、“何を知り、何を止めるか”を選べる。奪われた過去より、仕掛けられた未来の方がタチが悪い」
トウヤが静かに目を伏せた。
「なら、警告だけはしておく。“次の記録”に触れれば、もう“今の君”ではいられなくなる」
「構わない。どうせ、俺は最初から“欠けた人間”だ」
外に出ると、雨が降っていた。
黒くはなかった。だが、冷たい。
レイはそれを無言で受けながら、呟いた。
「次は……《偽歴中核》を破壊する。そのために、まず“過去の自分”に会う」
そして——その先に、“仮面の男”と“ユルゲン”が待っている。
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