第六話 煙と歯車と赤い紙片
都市の陰に蠢く小さな依頼と、それに潜む大きな歪み。レイとエルはその断片を拾い集めながら、静かに進み続ける。
第五環区アンダークラフトは、昼夜の境が曖昧だった。
太陽の光は高層区画に遮られ、月の明かりは煤煙に溶ける。ここに住む者の多くは、日付の感覚を持たない。代わりに、時計塔が打つ鐘の音で生活のリズムを測っていた。
「……お届けものだそうだにゃ」
エルが爪先で押しやった封筒は、赤い紙で作られていた。
封蝋には古い貴族家系の印が押されていたが、すでにその家は何十年も前に“表向きには”滅んでいる。
「消えた家名を騙る手紙か。それとも、あの家はまだどこかに残っている……か」
封を切ると、たった一言だけが書かれていた。
《記憶を売る女がいる。午前三時、第七鋳造区廃工場跡地。》
「記憶を……売る?」
「また変な話だにゃ。どうする?」
レイは窓の外を見た。黒い雨が静かに降っていた。あの遺跡以来、雨が“黒くなる日”が増えている。気候異常か、それとも——
「行くさ。最近、“記憶”に関する話がやたらと多すぎる」
廃工場跡地は、死んだ街の臓腑だった。
かつては魔導機の部品を鋳造していた巨大な炉と、無数の歯車の回転音が鳴り響いていた。だが今はすべてが沈黙し、空気には鉄と血の古い臭いが混ざっていた。
その中に、ぽつんと一人の女が立っていた。
白いフードの下から覗く顔は、年齢不詳。眼差しだけが妙に澄んでいる。
「レイ・クロイツァーね。来ると思ってたわ」
「……俺を知っているのか?」
「私の仕事は“記憶”を買い取ること。そして時々、それを売ること。あなたの記憶は……とても高く売れるわ」
「残念だが、俺の記憶は不良品だ。時間を越えて歪んでる」
「そう、それが“価値”なのよ」
女は小さな装置を差し出してきた。水晶と金属が組み合わさった、古代式の記憶転写機。
「あなたに見せたい記憶がある。もし、それを見るなら——」
「……報酬は?」
「“未来の死”よ。それを回避する方法、あるいは……誰かを救う手段」
レイは迷わなかった。
記憶転写機に触れた瞬間——彼の視界に、“知らないはずの風景”が流れ込んできた。
燃える都市。瓦礫の山。空に開いた“門”。
そして、そこに立つ“自分ではない誰か”。
「……これは、何だ?」
「“あなたが選ばなかった可能性”。それを買ったの。売主は——“仮面の男”。」
レイの瞳が細くなる。
あの男が……まだ、動いている?
「次は“本物の記憶”が動き出す。偽物じゃない、あなたの人生の中に入り込んだ“異物”が」
その声に、エルの背中の毛が逆立った。
「……にゃあ。嫌な予感がするにゃ」
レイはゆっくりとフードの女から離れ、廃工場を後にした。
この依頼はまだ、始まったばかりだ。
何も解決していない。ただ一つ——“誰かが未来を操作しようとしている”という事実だけが、はっきりとした。
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