第十話 廃図書区にて、声はまだ
静かに、しかし確実にレイは「本当の世界」に触れ始める——
《第六環区》、行政地図上では“資料保存用区画”と記されているが、実際には誰も近づかない。
通称——廃図書区。
かつて膨大な物理資料と記録魔導書を保管していたが、十数年前の“記録層事故”以降、封鎖されて久しい。現在は、記憶喪失者や幻聴症患者が時折入り込むだけの廃墟となっている。
だがそこには、わずかに残された“動く記録”があるという。
レイはそこに向かっていた。
「……ここが“声が聞こえる場所”か」
エルはレイの肩で尻尾を揺らした。
「猫の耳にも変な響きが届くにゃ。“かつて語られたことをもう一度”って……誰の声かは知らないけど」
廃図書館の扉は既に歪み、片側が崩れ落ちていた。奥は完全な暗闇。魔導灯を灯しても、霧のような記録干渉層が光を吸う。
階段を下り、地下第三保管室へ。
そして、ある書架の前に立ったとき——
唐突に、“声”がした。
「ようやく来たか、“俺”」
時間と空間の間を縫うように、男の声が響いた。
「……誰だ」
レイが問いかけると、棚の奥から光の影が現れた。やがて、それは人の姿を取る。
まるで鏡のようだった。
髪の色も、眼の形も、声の質も——すべて、レイと同じ。
だが、“何かが違う”。
それはまるで、「レイ・クロイツァー」がまだ“記憶を失う前の自分”を保存した記録再現体のようだった。
「お前は、何だ」
「“旧データより生成されたレイ・クロイツァー”。あるいは、“忘れられたお前”とでも言おうか」
記録体は一冊の魔導書を開きながら言った。
「偽歴教団は“時間の傷口”を拡げ、世界の意味を塗り直す。それを止めるには、元の“時の接続点”に触れるしかない。だが、お前はすでにそれを……」
「失った。そう言いたいんだろ」
「違う。“差し出した”んだ。自分の意志で、誰かを救うために」
レイは息を呑んだ。
「……誰を?」
「それを覚えていないのが、今のお前だ。だが——ここに来た時点で、もう道は一つしかない」
記録体は魔導書をレイに差し出した。
「この書には、“お前の過去”と“偽歴装置の座標”が記されている。だが同時に、開いた瞬間——」
「“今の俺”は崩れる」
記録体はうなずいた。
「人格の上に築かれた“空白”に、真実が戻る。その代償を、受ける覚悟があるか」
レイは魔導書を見つめた。
ふと、エルが静かに言った。
「思い出しても、何も救えないかもしれないにゃ」
「それでも……見なきゃ、先に進めない」
レイは手を伸ばし、魔導書を開いた。
瞬間、廃図書区に魔力が炸裂した。
脳裏に、断片的な映像が流れ込む。
——研究室。
——泣いている少女。
——手を伸ばす自分。
——封じられる記録核。
——仮面の男の背。
——「選ばれるためには、“名前”を捨てろ」との声。
そして——全てが白に染まった。
気づいたとき、レイは床に倒れ、血の味を感じていた。
「……にゃ!? レイ、大丈夫にゃ!?」
「……大丈夫だ。“記録の再接続”が起きただけだ。たぶん、これは……ほんの一部だ」
レイは魔導書を握りしめ、ゆっくり立ち上がった。
「俺は……一度、誰かを救おうとして、記録核に干渉した。そして、“偽歴装置”を止めようとして——消された」
そして今、再びそこへと向かう。
「偽歴装置。場所がわかった。第十二環区、地下の《旧時操作拠点》」
「にゃ……聞いたことすらない場所にゃ……!」
「地図には載ってない。“本当の時間”を封じるために存在を消された施設……だろうな」
レイの目は、覚悟と静かな怒りに燃えていた。
「俺は、“誰かの作った時間”に踊らされるのはもう終わりにする」
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