第五話
式は順調に終わり、展望台の下のレストランで、披露宴というか内々の友人や親戚だけを呼んだこぢんまりとした食事会が催された。
彼女は
“もう年も年だし、盛大な披露宴をやる必要もないし。”
と笑った。
ワインレッドのカクテルドレスに着替えた彼女を、ひな壇から少し離れた席から眺めながら、僕は同じテーブルに着いた敦ちゃんと瞬次君、それから新婦の学生時代の友人と4人で話をしていた。
「あのブーケも素敵だったわ。」
彼女の学生時代の友人の啓子さんが瞬次君に向かってそう言った。イングリッシュローズをふんだんに使った白い小ぶりのブーケは小さくて可愛らしい感じのする今日の新婦にぴったりだった。
「そうね。瞬次君のお仕事って夢があって素敵だわね。」
隣に座った敦ちゃんが、かいがいしく皿を取ったり、グラスに飲み物をついでやったりして、それを大人しくされるままに世話をやかれている彼からは、この間のような暗さや異様な雰囲気は微塵も感じられない。
ひょっとしてやはりあれは人違いだったんだろうか。そう思い始めてしまうくらいだ。
「確かにこうやって人の幸せをお手伝いさせてもらえる仕事で、こちらまで幸せな気分になってしまいます。ただ、終わるとこれで良かったかな、もっとああしたら良かったんじゃないかとか、いろいろ考えてしまうんです。」
「瞬時君は完ぺき主義者なのよ。」
敦ちゃんが口を挟む。
「何だかはがゆいっていうか、あせっちゃうっていうか。自分の仕事に対してそんなことを感じることってないですか?」
彼が僕に話を振ってきたので、
“自分の仕事って文章を書くことで、もっとこう書いたらとか、違う表現があったんじゃやないかとか確かに思うけど、僕はある程度あきらめている。”
そう言うと、
“あきらめているって?”
と、彼が不思議そうな顔をした。
「あきらめているって言うと言い方が悪いかもしれないけど、その時、上手い表現を、その適切な言葉を拾えなかったら、拾えなければ拾えないでしょうがないって思うよ。無理して言葉って作るものじゃないし、ふっとどこからか沸いてくるものを自分は拾っているだけだと思っている。」
「悔しくないですか?」
「もし、その時、その言葉を拾えなかったら?そう、悔しい思いをするだろうね。むずがゆいっていうか、はがゆいっていうか。だけど僕はあきらめるよ。自分のモノにならなかったモノって、どうやってもたぶん自分のモノにはならないだろうってね。だからその時繋ぎとめられなかったら、自分の手に拾えなければ、自分とは縁がなかったんだって。また、違う機会に違う形でそれは現れてくるだろう。その時拾えたらそれは僕の“言葉”だ。僕が拾うはずだった。僕のモノになる“言葉”だ。拾えたモノは僕にとって“本物”で、拾えなかったモノは多分結局“フェイク(偽物)”なんだよ。だから“本物”を拾えるチャンスとか、そのタイミングを待つよ。」
そう言うと、彼は少しの間ちょっと考えて、こう言った。
「もし時間がなかったら?」
「待つ時間がかい?」
「ええ。」
「そう、あ、考えた事もなかった。」
敦ちゃんが急に笑い出した。
「この人お気楽なのよ。あればあったで、なければなかったでいい人だし、とても長生きするんじゃない?残りの時間なんて考えた事ないんじゃないの?」
「おいおい、人を極楽トンボみたいな言い方しないでくれよ。」
“極楽トンボっていうか、お気楽トンボよね。”
そう言ってまた大きな声で笑った。
「ってゆうか、もう俺たちも40過ぎているし、人生の折り返し地点は過ぎているよな。やっぱりそろそろ老後の事とか考えた方がいいのかな。」
敦ちゃんは、あら、私は主人の保険もがっちりかけているし、老後の人生設計はばっちりよ、なんてしっかりした事を言っている。
隣の啓子さんは、結婚式でもう老後の話ですかあ。身につまされるなあなんて笑っている。啓子さんは最近結婚したばかりだそうだ。まだまだ老後の事なんて。
「瞬次君こそ、老後の話なんてまだまだよね。」
“彼女とは上手くいっているの?次はあなたね。”
敦ちゃんは彼に耳打ちをしている。そうか、これからか。彼女もいて、仕事も順調で、才能もあって、何もかも兼ね備えているからこその不安があるんだろうか。彼のこの間の暗い表情を思い出したが、打ち解けた様子で女性ふたりに囲まれ、彼女の話をつつかれ困った様子ではにかむ彼を見て、そんな不安はどこか遠いところへいってしまうように感じていた。だから、まさか、それから数ヶ月も経たないうちに、こんな事になるなんて夢にも思わなかった。
彼の心の内にある闇に、いったいどれほどの人が気づいていたのだろう。
彼の葬式が行われた日は、すっきりとした青空が広がるよく晴れた日だった。雲ひとつないどこまでも広がる青空に、彼の体を焼いた白い煙がどこまでも長く長くたなびいていった。
“あいつの最後の日がこんなぴーかん晴れなんてあいつらしい。”
そう言って、明るく誰からも好かれた人物像を評して、彼の友人らが口にした。彼の人柄を知る人はまさかこんな幕切れが用意されているとは、想像すらしなかっただろう。
葬儀の間中、僕はホールの硬い椅子に座り、祭壇に飾られた笑顔の彼の遺影を見つめながら、敦ちゃんのいった“憂い”について考えていた。あの後、敦ちゃんはこう言った。
“その存在に気がついている人と、気がついていない人がいる。気がつかなければ、その方が幸せなのかもしれない。”
あの電車の窓からじっと外を眺めていた彼の険しい、そしてどこかしら虚無感を感じさせる目の動きが、頭の中を行ったり来たりしていた。
彼は遺書すら残しておらず、仕事も恋も何もかも順調にいっていた彼に、自ら死を選ぶ理由があったんだろうか。何もはっきりしたことはわからない。真相は彼だけが知っている。そしてその真相は永遠に誰にもわからない。誰も知りえる事など出来ない。
来年には結婚の話も出ていたという彼の恋人が参列していた。やつれて、泣き腫らした目が気の毒で見ていられなかった。そして、子供に先立たれた母親の哀れな様子が参列者の涙を誘った。若い人の葬式ほど嫌なものはない。
葬儀の日の夜。
僕は窓を開け放ち、家のベランダで酒を飲んだ。日中とはうって変わったひんやりとした風が肌寒いくらいだったが、それでもベランダでひとり酒を飲み続けた。いくら飲んでも今日は酔えないような気がした。マンションの12階にある自宅からは雲ひとつない濃紺の夜空がよく見えた。その夜空に無数の星がきらめいていた。
“でも、何故僕だったんだろう。”
別れを告げる空メールの着信音が耳について離れない。親しい友人ならいくらでもいただろうに。数回しか面識のない僕に何故?
彼が残そうとした思いをあれこれ考えてみたが、かいもくそれを伝える“言葉”を、今の僕には拾うことが出来ない。
“いつか僕の思いを代弁してもらえますか。”
そう言った彼の優しげな表情を思い出し、目に涙が浮かんだ。
(バカか。あんな死に方。)
グラスにまた酒を注いだ。
はかないって美しいということ。
君は深淵を見たのか。頂からその深い池の淵を。殆どの人がその存在すら知らず、その存在を知っても気に止める事もなく、足早に通り過ぎるその池の淵を君は見たのか。
何故見た?
何故見なければならなかった?
陽があたれば当たるほどくっきりと色濃く影が出来る。君は陽の当たる、いやあの陽光のままのような人物だった。だからこそあの影から逃れる事ができなかったのか。僕は君の思いをどれほど汲むことが出来たのだろう。僕は何かしてやれたんだろうか。
あの空メールは。
ただ一言でもいい。何かメッセージを。
そう、メッセージを残して欲しかった。
人が生きて死ぬ。死は平等に誰にでも訪れる。それが優しい友達になるのか、恐怖する鬼になるのか、死んだ人にしかそれはわからない。大きくいつまでも人々の胸に残る印象的な死もあれば、ひっそりと目立たず、人知れず消えてゆく命もある。だけど、死後は皆平等にこの夜空の星のひとつひとつになる。
きっと。
絶え間なく、変わらず、いつまでも同じように光を放つ星になる。
そして、僕もいずれ。
読んでいただいてありがとうございました。
生きている意味って、誰もが一度は考えることなのではないでしょうか。
そして、それを問いかけていくこと自体が、生きていくことなのではないでしょうか。
次回作は長編を予定しています。
よろしかったら、また目を通していただければ幸いです。