第四話
それから数ヶ月経って、ある日僕は珍しく電車に乗っていた。いつもは車で移動するのだが、故障してしまい修理に出していた。台車も全部出払い、借りられずに、急ぎの原稿を届けるため電車に乗った。ふた駅ほど過ぎたところでふと前方を見ると、見覚えのある黒い短髪が目に入った。
“あれは瞬次君?”
ふたりがけの席が一方方向に向かって並んでいる車内で、彼は窓際に席を取りじっと車窓から外の景色を眺めていた。話しかけて彼の隣の空席に腰を下ろそうと近くまで寄った。
彼の表情を見てはっとした。
一瞬、人違いかと思った。
窓の外を凝視している若い男の顔は、瞬次君ではない。全くの別人だった。だけど、彼に間違いはない。いつものようなくったくのない明るい陽の光のような表情はどこにも見えなかった。彼の周りには“陰”の気が漂っているような気がした。それほど普段の彼とは似ても似つかぬ見知らぬ男がそこに座っていたのだ。
眉間に皺を寄せて口を固く閉じて。
何だろう、機嫌が悪いんだろうか。
その暗い表情はその程度のことでは作り出されないような、心の奥深くから作り出されるような表情だった。仕事の時の鬼神のような厳しさとは違う。何と形容してよいのか。僕は声をかけるのをためらい、彼に気づかぬ振りをして次の車両に移った。何だか見てはいけないものを見てしまったような気がした。かといっても何か気になるものを感じて、彼の様子を隣の車両から伺っていた。彼は次の駅で急に思いついたように電車を降りた。僕も慌てて彼の後を追う。何だか様子がおかしい。彼は電車を降りたかと思うと、ホームの中をあてもなくうろうろと歩き回った。どこかへ行こうとしている様子でもないような気がした。思いついたように向こう側の反対のホームへ彼は移動し、僕も後を追った。反対側のホームに降り立った彼は、来た電車を見送った。電車に乗ろうとしているわけではないようだが。また、次来た電車を見送った。そうして通過する何本かの電車を見送った。声をかけてみようかと迷いながらそれを見ていると、右方向からまた電車が滑り込んでくるのが見えた。
ふいにホーム前方の線路ぎりぎりの所に立っている彼の姿が、人に押されたように揺らめいたのが見えた。
(えっ。)
僕はホームに彼が落ちたと思った。心臓が凍りついた。電車が通過した。誰の悲鳴も聞こえない。鈍い音をたてて電車がブレーキをかけるでもない。ただ普通にいつもどおりに電車が通過した。
(見間違い?)
電車が通り過ぎた後のホームをよく目を凝らしてみると、彼が先ほどと同じ場所に立っていた。
(見間違いか?)
見間違いだって。ほっと胸をなでおろしたが、僕の頭には恐ろしい想像が。
あれは確かに。
彼はホームに落ちようとした?
いや、まさか。破裂するかと思うほど心臓が音を立てて波打つのをひとりじっと堪えた。次に滑り込んだ電車に、彼は吸い込まれるように乗った。僕はそれを追いかける気力がその時にはもうなくなっていた。
家に帰って仕事を始めたが、彼のことが気になって手につかない。夜になるのを待って彼の携帯へ電話する。ツーコールで彼が出た。
「もしもし。」
いつもと同じ元気な声が受話器から聞こえて、ほっとした。
「この間はどうも。」
僕はこの間の打ち上げの時に家にお邪魔したお礼を言うふりを装って、彼の様子を伺うために電話をかけた。彼はいつもと同じように明るく丁寧な言葉遣いで話をし、僕の様子を気遣った。
「うん。僕は相変わらずぼちぼちやっているよ。」
試しに今日は何をしていたのと聞くと、休みで出かけていたと言った。じゃああれはやっぱり?だけどまあいい。元気なら。彼の元気な声を聞いてほっとした。
それから数ヶ月経って、そんなことがあったことすら忘れかけていた頃に、敦ちゃんと僕の共通の若い友人の結婚式があった。
「若いって言ってももう30も半ばよ。」
昔と違って今は男も女も30代を半ば過ぎても独身のままの状態を楽しんでいる人が多い。僕らの時なんか、女の子は25歳すぎると“クリスマスケーキ”なんていって、“売れ残り”を意味する言葉で比喩されたものだけど。時代は変わったね。
僕は自分が前の妻と結婚式を挙げたころのことを思い出していた。同い年の僕らは25歳で結婚した。こんなふうに教会のバージンロードを歩いたっけ。彼女との生活が嫌だったわけではない。理由はと聞かれると上手く言えない。それは僕が常に抱えている「虚無感」がそうさせたのかもしれない。彼女といてもどこかその生活に熱を入れることが出来ず、いつも醒めていた。彼女を愛していなかったわけじゃない。だけどどこかで先を見ていた。今ここにある幸せを、のんびりとした暖かい時間をゆっくりと楽しめばよかったのかもしれないが、いつもそれを先延ばしにしていた。何故かいつも追われるように急き立てられるように、仕事や日々の諸事に没頭した。妻はそんな僕に愛想をつかして出て行った。
(苦い思い出ねえ。)
僕は終わった結婚生活を語るとき、敦ちゃんはいつもそう言っておどけて見せた。彼女なりの気配りだとわかっていた。
今日の会場は、市内にある50階建ての駅前のビルの中にある展望台だ。最近はいろんな所で人前式の挙式が挙げられる。50階から眺める展望の良いこと。人生の門出を祝うには素晴らしいロケーションだ。
景色がよく見渡せる展望台のドーム型になったガラス窓をバックに、白い花で彩られたアーチがあり、そこで彼らは永遠の愛を誓うのだ。赤いカーペットで作られたバージンロードを挟んで、客席が設けられている。客席にも白い花が飾られ、バルーンで装飾されたドアの出入り口を背に、僕はシックなグレーのスーツに身を包んだ敦ちゃんと腰掛けて、今日の主役のふたりの登場を待つ。
敦ちゃんの隣の空席に誰かが腰掛けた。
(もう終わったの?)
敦ちゃんが隣の人物に話しかける。僕が首を回して敦ちゃんの隣の人物を確かめると、それは瞬次君だった。濃い色のダークスーツに薄いモーブ色のシャツを合わせている。こないだのことを思い出し、ちょっとびっくりしてうつむくと、
“こんにちは。”
と、少し離れた場所から彼が頭を出し僕に笑いかける。
“やあ。”
敦ちゃんが僕に、
(今日の装飾ね、彼女のたっての希望で瞬次君に頼んだのよ。)
耳打ちをした。
あ、そうか。このセンスの良さ。
会場の装飾を済ませ、彼女の式に出席した後、片付けもすべて彼が行う。
(結構大変な仕事だね。)
そう言うと、彼はにっこりして頭を下げる。
かすかにアヴェマリアのメロディが聞こえる。そろそろ始まるかな。