第三話
そのしっとりとした花びらを持つ小さな花は、僕の部屋で数日目を楽しませてくれた。日が経つにつれ、一枚、又一枚と花びらが落ちていった。
“美しいってはかない。”
彼が言った言葉を思い出した。
確かに、一瞬、一瞬にして消え去る時の流れ、それを意識して毎日を過ごしているやつなんて、どのくらいいるのだろう。こんなことでもなければ僕も意識などしない。明るい外見とは裏腹な彼のナイーブさを垣間見たような気がした。
次に僕が彼に会ったのは例の“旬”の展示会の会場でだった。彼から案内をもらっていた。会場に足を踏み入れると、むっとする熱気を感じた。いやそれとも花や植物、樹木などの生物が発する気なんだろうか。入り口付近のブースに何種類かの樹木と花を組み合わせた大掛かりな展示がしてあるのが目に飛び込んでくる。花のことはよくわからない。使われている花が何て名前なのかも知らない。だけど、その花たちが語りかけてくるものがわかるような気がした。
(生きている。)
その展示からは“命”を感じた。感心して僕はその展示を眺め、その大きさに圧倒されていると、
「あら?」
前方から薄い鶯色の上品な訪問着を着た敦ちゃんが歩いてきた。鶯色の裾に小花を散らした上品な着物にこげ茶色の帯が長身の彼女をすっきり見せている。僕のすぐ側まで来ると、綺麗に結い上げられたうなじから、ほんのりと桜のような香の香りがした。
「いらしてたの?」
「ああ、敦ちゃんも?」
「瞬次君の作品が見たくてね。」
僕は彼女の事を敦ちゃんと呼んだ。年も近く、大学を卒業してこのライターの仕事を始める前に出版社に勤めていた頃からの知り合いで、付き合いも長く気心もしれていた。でも、何故か僕らは男女の仲にはならず今でもよい友人だ。彼女は以前から趣味で習っていたお茶の免状を結婚してから取得し、自宅で教室を開いた。彼女には同い年の夫君がおり、僕も時折彼女の連れ合いに会うことがある。僕はというと、20年近く連れ添った妻と別れて数年が経つ。今は気楽な独り暮らしだ。
僕らはふたりで展示会場を見て歩いた。彼のワークショップのメンバーの個々の作品をひとつひとつ丁寧に見ていった。日本庭園をモチーフにして、苔やつくばいをあしらったものや、海辺をイメージして流木にしつらえたアレンジや、どれもが斬新でデザイン性が高く、目を引いた。
「あ、これね。」
敦ちゃんは遠目からでも、瞬次君の作品がすぐにわかったみたいだ。作品の下のプレートを見ると、確かに“水沼瞬次”とある。
「すごいね。何故わかる?」
彼の作品にじっと目を凝らしながら、彼女は言った。
「憂いよ。」
(憂い?)
僕は彼の作品に視線を戻した。2メートル四方のブースのスペースに、クリアスチールの支柱を何本か使って透明感のあるオブジェを作り、そこにいろんな種類の枝やグリーンを配し、色とりどりのアネモネがメインにあしらわれている大胆でカラフルなアレンジで、春の陽光をいっぱいに浴びた命の躍動感がこちらまで伝わってくるような、明るさと若さに満ちた素晴らしい作品だ。
「憂いって?」
そんな言葉とは全く縁がないような明るく自信に満ちた若々しい彼の表情を思い浮かべる。敦ちゃんはこう言った。
「真夏に外にいると影ができるでしょう。」
「ああ。」
「日差しが強ければ強いほど、影は色濃く、はっきりと際立って見えるわ。」
「そうだね。」
「それと一緒よ。明るければ明るいほど、そこに陽が当たれば当たるほど、いっぱいに輝きその存在を強調するけれどそれらが作る影も最大限に黒く濃くなるわ。」
「光あるところに影か・・・」
“で、そこに憂いとやらを連想させるのかい?”
彼女に聞こうとしたところへ彼がやって来た。
“あら、瞬次君。”
敦ちゃんが着物の袂を気にしながら軽く手を振ると、彼は嬉しそうな表情を見せ、小走りに走って僕らの近くまで来た。短く刈りあげられた髪と、黒いTシャツから覗く腕に付いたたくましい筋肉や、芸術的な仕事に携わる人物らしいセンスのよいおしゃれな胸元のアクセサリーに若さを感じる。
(憂いねえ。)
その時、僕は敦ちゃんの言ったことの意味がよくわからなかた。
その日は“旬”のメンバーや会場となったコンベションホールのスタッフ、彼の友人らで打ち上げがあり、僕も敦ちゃんと共に参加した。居酒屋を一軒貸しきって夜遅くまで行われた打ち上げで、僕は彼や彼らの友人の若々しいエネルギーに圧倒された。40歳をとうに過ぎた僕は、こういう場に来ると、僕にもああいう時代があったのかと懐かしく思うと同時に、もう過ぎて2度と帰らない青春へのノスタルジックな思いに胸を締めつけられる。敦ちゃんが隣で、
“何言ってるの。40代なんてまだまだこれからよ。”
と、僕に目配せをし、若い友人たちの間に入って次々と酒をお代わりした。
20代の前半に結婚した彼女は、普通に子供を産み、専業主婦として家を守る、そういうステレオタイプの生き方に憧れていたどこにでもいる普通の女の子だった。だけど、結婚して何年か経っても子供が出来ず、数々の病院を回り不妊治療に何年も費やした結果、夫君に原因があることがわかり、夫婦の間でどんないきさつがあったのかは知らないが、それでも敦ちゃんは前向きに夫君との生活を大事にする事を決め、自分の生涯の仕事としてお茶の先生を選んだ。
いつも明るい彼女に僕は励まされてばかりだ。
明るいといえば、こうやって見ていると瞬次君は誰からも好かれる好青年であることがよくわかる。人の輪の中にすぐに溶け込み、誰かれかまわず話しかけ、そしてすぐに大勢の人が彼の周りに集まり、人の波に囲まれる。僕はそれを遠目に微笑ましく見ていた。あれだけの経歴を持ち、才能に恵まれながら、それを鼻にかけることもせず、人に愛される人物。僕にはない要素だ。
2次会は彼のマンションで行われた。何度も面識があるわけではない僕は遠慮して帰ろうとすると、瞬次君は、少しでもいいから寄っていって下さいと僕の腕を取った。それで敦ちゃんと少々お邪魔することにした。部屋で数人の彼の友人らと飲んでいると、瞬次君がグラスを持って僕の隣に来た。
「先ほどはあまり話が出来なくて。」
一次会の人の多さに紛れて、僕と言葉が交わせなかったことを彼は言った。僕は展示会の成功におめでとうを言い、発表されていた作品についての話などをした。無論、敦ちゃんが言った“憂い”の話はしなかった。瞬次君はひととおり自分の仕事の話をすると、今度は僕の仕事のことについてあれこれと聞き始めた。
「ライターの仕事っておもしろいですか?僕なんか文才がなくて手紙やメールを書くことですら四苦八苦するんですよ。」
と、苦笑いをした。
もともと、文系の出で、活字中毒といわれるほど本が好きだし、日々活字に触れていないと落ち着かない。文章を書くことは自分にとってごく自然な生活の一部なので、瞬次君にこの仕事がおもしろいのかと聞かれて、なるほど、改めて自分の仕事について考えてみた。
「そうだね。思いを言葉にするというのは楽しい作業でもあり、とてもエネルギーを消費する作業でもある。でも、自分が思ったこと、感じたことを表現できる術を持つとういうのは幸せなことだと思うよ。」
“いつも出しきれています?”
自分の仕事に100%満足いっているかということだと受け止めた。
“どうかな。日々やり残したことなんていくらでもあるし、100%を目指せば目指すほど良い仕事は出来ると思うけど、そんな高い頂に自分がついていけるかどうか。”
今度はこちらが苦笑いで返す番だ。
瞬次君は、
“僕の思いをいつか代弁してもらえますか。”
そう尋ねた。
「うーん。僕があなたに会って、あなたの思いを聞く。瞬次君が伝える事、伝えたい事を100%僕が理解して、瞬次君がこう表現して欲しいと思うようには表現しきれないかもしれない。僕の主観も入っちゃうだろうしね。だけど、なるべくその人の近くまで行って、そう、心の近くまで行って、何かを聞き取れてあげられたらいいなとは思うよ。技術や才能や、そういった特殊な能力なんて、みんなが持っているわけじゃない。何でカバーするかって、そりゃ、一生懸命になることだよ。気持ちをもって事に当たることだよ。まあ、僕みたいな才能のないやつが出来る事なんてそのくらいしか思いつかないけどね。」
そう言って笑うと、瞬次君は満足そうに微笑んだ。
「君はああいう芸術的な手法で自分を表現している。まだ、表現しきれない事があるのかい?」
そう言うと、彼はふっと表情を崩した。深い池の淵を覗き込んだ人間のような顔だ。ちょっと気にはなったが、彼のグラスにビールを注ぎながら話を続けた。
彼は、
「どこまで行っても上が見えないっていうのかな。その“頂”っていうのが。かと思うと、急にすこんって、気が抜けたみたいに下の下の方まで見えてしまうような気もするんです。」
「君は若いし才能があるからさ。そう思うのはね。」
彼の葛藤がわかるような気がした。いや、若い時って誰でもそんな葛藤というか矛盾というか形容しがたい何かを抱えているものなんじゃないかな。
彼はグラスに注がれたビールを飲み干すと顔を上げた。その顔はいつもと同じ曇りひとつない青空だった。