聖女(仮)な私、魔王討伐→攻略へシフトチェンジします!
玄関に蜘蛛が出た。
天井から半透明の糸が垂れていて、その先に黒い蜘蛛がぶら下がっている。
指の爪より若干大きいくらいで、控えめに言って気持ちが悪い。
仕事終わりで疲れて帰宅したのに、出迎えがこれって非常に萎える。
まあキッチンとか寝室に出るよりはマシか。
このアパートの裏は林なので、干した洗濯物を取り込んだ時に付いていたのかも。
玄関のドアを全開にして、靴箱にしまっていた箒で糸を絡め取る。
床に落ちて慌てる蜘蛛を、そのまま箒で外に掃き出そうとしたその時だった。
『お待ちください!お待ちください、聖女様!』
んんー?
縋るような声が聞こえて、私は辺りを見回した。
朝、テレビつけっぱなしで出ちゃったかな。
いやでも、エアコンつけっぱなしはあるけど、テレビは消し忘れたことなかったよなぁ。まあいっか。
そんなことを考えながら、足元にいた蜘蛛をサッと箒で掃く。
『痛っ。痛いです、聖女様!』
「えぇ?」
テレビにしては変だ。
というか聖女様ってなに?
玄関から蜘蛛を排除できたので、ドアを閉めようとしたところで『ここです!ここ、ここ!ああっ、閉めないでください…!』と必死に言い募る声がした。
ここってどこ?
閉めないでって…ドアしかないか。
……………。
アパートの廊下に掃き出した蜘蛛へ、おそるおそる視線を向ける。
おたおたと左右に揺れているそれは、はっきり言ってキモい。
『よかった…!気づいてくださったんですね』
「…………なにこれ。幻聴?」
『いいえ、幻聴ではありません。僕が話しかけています』
「きみ、蜘蛛だよね」
『今は蜘蛛の姿ですが…本来は違うのです。どうか信じてください、聖女様』
信じてくれ、と言われても。
蜘蛛は蜘蛛でしかないよね?
「……私、聖女じゃないので。失礼します」
『まっ待ってください!』
さっさと部屋に引っ込もうとした、その時だった。
蜘蛛がその小さな体に見合わない、驚異的なジャンプを披露し、私の右足の爪先あたりに着地した。
「ぎゃあっ!あっち行って!」
『うわぁぁあ!』
ぶんぶんと全力で右足を振り回す。
私は虫が嫌いだ。
蜂と蜘蛛は、Gよりも嫌いなんだ!
振り回した反動で、ようやく右足から蜘蛛が離れたーーと安心したのも束の間。
奴の体は宙を舞い、あろうことか私の腹部にひっついた。
言葉が、出ない。
『お、落ち着いてください…どうか…。あなたのお力添えがなければ、僕の国は、滅んでしまうかもしれないのです…』
目が回ったらしい蜘蛛は、私が振り払う前にぽとっと床に落ちた。
こいつ…ほんとに喋ってる……。
もう一度掃き出そうかと思ったけど、力なく転がっている蜘蛛が、なんだか不憫に思えてきた。
それにドア全開でドタバタしていたら、アパートの住人に通報されるかもしれない。
「…………はあ」
とりあえず私はその場にしゃがみ込んだ。
「聖女じゃなくて良ければ、少しだけ話聞きます」
※
とはいえ、蜘蛛を素手で掴んで部屋に招く度胸はない。
透明なガラス製の一輪挿しを持ってきて、蜘蛛の前に差し出した。
「後で出してあげるから、これに入ってくれるかな」
『分かりました。ありがとうございます』
口が細めだけど、小さい蜘蛛はすんなり入っていった。
蜘蛛入り一輪挿しを居間のローテーブルに置いて、私はその前によっこいしょと腰を下ろす。
さ、話してくれ。
そうして蜘蛛が語ったのは、まあ信じ難い話だった。
蜘蛛はルーカスという名前で、はるばる異世界からやって来たそうだ。
蜘蛛にルーカスって、まさに異次元のネーミングセンスだーと内心突っ込んでいたら、魔王の呪いで蜘蛛にされただけで、本来は人間(男)らしい。
魔王とか呪いとか…なかなかファンタジーな世界線に生きてるんだな。
そもそも何故呪われることになったのか聞くと、実はルーカスは魔法使いで、魔王討伐の任務を請け負う勇者一行のひとりだそうだ。
魔王の名はルグドラ。
驚異的な魔力と強靭的な肉体を併せ持つ、魔族達の絶対的な長だとルーカスは語った。
千年前、ルーカスが暮らす人間の国ヴィストリヤは、先代の魔王によって度々侵略されていた。
当時は異世界から突如降臨した聖女が、魔王を倒して国を救ったらしい。
しかし今回、待てど暮らせど聖女は一向に現れない。
新たな魔王の存在が確認されたのは数ヶ月ほど前で、魔王がいつ攻めてくるのか、人々は戦々恐々としていた。
ならば聖女の代わりにと、ルーカス含む勇者一行が起ち、魔王の居城へ向かったそうだ。
しかし城で相見えた魔王の呪いによって、一行は虫にされてしまったらしい。
仲間はそのまま魔王に囚われたが、不幸中の幸いで、ルーカスは蜘蛛の姿でも魔法を使えたため、捕まる前にどうにか逃げ出した。
そして仲間を救うべく、国を救うべくーー聖女がいるこの世界へ転移したらしい。
ルーカス曰く、その聖女が私だと言う。
…いやいやいや。
私は中小企業のOLで、魔王を打ち倒すパワーなんてどこにもありゃしない。
確かに日々、過重業務&パワハラ上司と戦う企業戦士だけれども。
しかも魔王さん、呪いで相手を虫にできちゃうんだよ?敵いっこない。
というかその呪い、何ゆえ虫チョイス?と疑問を口にしたところ、『魔王は無類の昆虫好きと噂されています』とルーカスは答えた。
…ふむ。そういう趣味の魔王も世の中にはいるのだろう。
人は十人十色、魔王も然り。
「ルーカス。ちなみに、うちにはどうやって入ったの?」
『屋外に干されていた、聖女様のお召し物にくっ付いて昨日侵入しました。淑女のお部屋に無断で入ってしまったこと、お詫びします』
やっぱりか。
昨日は日曜日で天気も良かったから、ベランダに洗濯物干してたんだよね。
よくある虫侵入ルートだ。
「……あとさ。はるばる来てくれたのに言いにくいんだけど、私には魔王を倒せる特別な力はないよ?聖女じゃなくて青山美和子っていう名前の、ごく普通のOLです」
『いいえ!あなたは間違いなく、僕の探していた聖女様です。アオヤマミワコ様」
「あ、青山は名字だから美和子って呼んでね」
アオヤマミワコって、抑揚なしに呼ばれると珍獣感がある。
イリオモテヤマネコ、みたいな。
『ミワコ様には、美しい後光が見えます。とても神聖な、真っ白い光が差しています』
ルーカスは興奮したように、ガラスの向こうでぱたぱたと体を揺らした。
美しい後光〜?
念のため自分の背中を振り返ってみたけど、言わずもがな何も見えない。
『僕達の世界の者でないと、あなたの光は見えないのかもしれません。歴史書に、その光は魔王の呪いを打ち消すことができると記されていました。
千年前に降臨した聖女様は、その左手からまばゆい清浄な光を放って、魔王を倒したと伝わっています。
ミワコ様の真のお力も、我々の世界に来ていただければ発現するはずです』
「いやあ〜どうだろうね…」
左の手のひらも一応眺めてみたけど…いつもと何も変わらない。
手相の薄い手のひらがそこにあるだけだ。
そういえば三年くらい前に行った手相占いで、あらまぁ二重生命線ね〜!生命力が高いわよ〜。ちょっとやそっとじゃ死なないわね〜。
と、占い師のおばちゃんが太鼓判を押してくれた。
…それとこれとは関係ないか。
「ルーカス。その魔王とやらを倒したら、私はここにまた帰ってこれるの?」
『もちろんです!時間軸が違うので、おそらく僕達の世界の一日が、こちらの世界にとっては十分程度になると思います。お戻りになった際に、大きな時差が生まれることはないですよ』
なんと。
それなら試しに行ってみて、申し訳ないけど聖女パワー不発なら帰してもらえれば、私は何も困らない。
それならまあ、行ってみてもいいか。
ルーカスも蜘蛛のままじゃ可哀想だし、呪いを解いてもらえないか、魔王に頼むことくらいはできるかもしれない。
承諾すると、感極まったようにお礼を言われた。
早速行きましょうとルーカスが魔法を使おうとしたので、慌てて止める。
「ちょっと待って、先に行きたいところがあって。駅前の本屋、まだ空いてるよね…」
腕時計が示す時刻は夜八時。
駅前の本屋は九時半まで営業しているはずだ。
『ミワコ様は着の身着のままで構いませんよ。必要なものは僕が魔法で用意しますので』
「あ、たぶんこの世界でしか手に入らないと思う。少し待ってて、すぐ戻るから」
私はルーカスに手を振って、足早に家を出た。
※
そんなこんなで、やって来ました異世界。
そして眼前には魔王城。
ルーカスの転移魔法とやらで、異世界に来たわけだけど……なんか酔った。
深い森の奥にそびえる魔王城は、外観からしておどろおどろしい。
なんか大量にコウモリ飛んでるし。
ルーカス曰く、魔王の配下の多くはコウモリらしい。魔王っぽいな。
あれが魔王城の入り口の扉です、と一輪挿しの中のルーカスに案内してもらいながら、そちらへ歩いていく。
『そういえばミワコ様。その鞄の中には何を?』
ルーカスは、私が左肩から下げているエコバッグの中身が気になっていたらしい。
「あーこれ?魔王と話す時に…」
言いかけた、その時だった。
ブフォォッと突然突風が吹き荒れて、驚いた私は右手に持っていた一輪挿しを手放してしまった。
「あっ!ルーカス!」
『ミワコ様ーー!』
一輪挿しはひゅーんとはるか後方に吹っ飛ばされた。
しまった!
どうすれば左手から聖女パワーが出るのか、魔王はどんな人相なのかとか、まだ何も聞いてない。
早々にまずい状況だ。
兎にも角にも、ルーカスを回収しないと…。
魔王城に背を向けて、走り出そうとした次の瞬間。
「易々と敵に背を向けるとは。間抜けな聖女がいたものだ」
低音の美声がその場に響いて、私はぴたりと足を止めた。
心なしか、禍々しい気配を背後から感じるような…。
振り返るとすぐそこに、魔王城を背景に佇む長身の男がいた。
そして男の姿が視界に映った瞬間、私はぱかーんと開いた口が塞がらなくなった。
うわー。
めちゃくちゃ好みのイケメンなんですけど…。
風になびく漆黒の長髪に、甘さのない精悍な顔立ち。
鍛えられた逞しい上半身には、長めの布が緩く巻きつけられているけど、その隙間からチラ見えする胸筋と腹筋が最高だ。
それになんと言っても、あの太い腕。
ギュッと抱きしめてもらえたら昇天しそう…。
なんていうのかな。
しっかり筋肉がついてるんだけど、ムキムキ過ぎない絶妙なバランス。とにかく顔も身体も超絶タイプ。
ちょっと威圧感が強すぎるけど、それでもお釣りが来るくらいのイケメンだ。
彼にぼーっと見惚れていると、頭上高くを旋回していた一匹のコウモリが、ばさばさと羽ばたきながら何やら叫んだ。
『魔王様!そこの聖女が魔王様を変な目で見ています!』
あら、やっぱり彼が魔王なんだ。
というかあのコウモリめ、余計な告げ口を…。
私の目に若干宿っていた下心を一瞬で見抜くとは、侮れない。
個人的に、魔王よりもあいつを討伐したい。
ジロリとコウモリを睨んでいると、魔王は僅かに顔を歪ませた。
「俺を殺すために、わざわざこの世界へ降臨するとはご苦労なことだな」
いやいや、殺すだなんて。
聖女パワーを使えない私が、こんな美丈夫をどうこうできるわけがない。
というか同じどうこうするなら、討伐ではなく個人的に彼を攻略したい…が。
まずはルーカスの頼みの方が先だ。
彼の国が滅ぼされては困るし、蜘蛛の呪いも解いてもらわないと。
とりあえず穏便に、説得を試みるほかないだろう。
「あの、話を聞いてくれませんか?」
私の言葉に、魔王はぐっと目を吊り上げた。
「聞くまでもない。お前は勇者一行と同じように、魔王である俺を討伐しに来た。
ここに来る人間はいつも、そのことしか頭にない」
「いや、私は討伐したいわけじゃなくて…」
「うるさい…!」
再びブフォォッと突風が吹きつけてきて、私の髪が巻き上げられた。
あーっ。目の前に好みのイケメンがいるのに、強風オールバック…。
慌てて前髪を整えていると、魔王は両手に拳を作り、苦しげに言った。
「俺は先代魔王のように、人間どもを無闇に殺すつもりはない。
……それなのに、これまで城を訪れた勇者一行は…俺のことを殺戮者としか見ていなかった」
…なるほど。
たしかに本当に人間を殺すつもりなら、わざわざ勇者一行に虫になる呪いなんてかけず、バッサリいきそうだもんね。
何もしてないのに、人間達は先代魔王と彼を同一視して恐れて、あまつさえ殺しにやって来る。
そんな状況に怒るのは無理もない。
それに…怒りの感情と同じくらい、この魔王からは悲しみようなものが垣間見える。
彼を刺激しないように、私はおそるおそる口を開いた。
「……あの。魔王さんも知っての通り、人間は弱いです。弱い生き物が、強い生き物を恐れるのは本能だと思います。
だから千年前の魔王とあなたは別人だとしても、実際に面と向かって、話して…。そこまでしないと、私達人間は相手を理解できない」
私の世界にも、似たような問題は山積してる。
あの国は自国と過去に戦争した歴史があるから、考え方が違う危険な国だとか…。たとえ自分が当時の戦争を経験していなくても、そういう先入観が、生きていく中でいつのまにか染み付いてしまう、みたいな。
私は自分の手のひらを見下ろした。
「一応異世界から来たんですけど…私、聖女っぽい力の使い方が分からなくて。
でもそれで良かったのかもしれません。まかり間違ってあなたを倒したら、後悔してただろうから」
魔王の真紅の瞳が、はっと見開かれる。
「…聖女であるお前の言葉を、信じろと?」
「私はただの人間ですよ。何の力も持ってないし」
力を発揮するには、呪文とかが必要だったのかなぁ。
手をグーパーしていると、魔王は訝るような眼差しを私に向けた。
「おまえは間違いなく聖女だろう。俺とは真逆の、白く澄んだオーラを纏っている」
「ルーカスにもそんな感じのこと言われましたけど、正直全然……あ」
そうだ。
ルーカスのことすっかり忘れてた。今ごろ森を右往左往してるかもしれない。
吹っ飛んだ一輪挿しが割れて、怪我とかしてないといいけど…。
ルーカスを案じて森の方を振り返ると同時に、魔王のしぼり出すような呟きが届いた。
「………俺は、どうしたらいいんだ」
唇を引き結び、悩ましげな表情を浮かべる魔王。
すると、上空にいたコウモリがひゅんっと唐突に降下してきた。
『魔王様、やはり人間どもを始末しましょう!』
「いたたたっ!何すんの、あっち行ってよ」
叫びながら、ばっさばっさと翼で私の頭を叩く。
やめろーっ、コウモリは不衛生だから素手で触るなって聞いたことあるぞ!
『お前が魔王様を貶めようとするからだっ。これ以上、魔王様を傷つけたら許さないぞ!この、このっ』
「だから違うってば。私は、魔王と人間が和解するのを手伝いたくて……ぁ痛っ。今髪の毛引っこ抜いたでしょ!」
『聖女が我らの味方をするわけがない!お前なんかハゲてしまえっ』
ぎゃあぎゃあといがみ合っていると、魔王が小さくため息をつくのが聞こえた。
彼はこちらに歩み寄って「ギディオン、やめろ」とコウモリを制した。
ギディオン?
この暴力コウモリ、そんな大層な名前をつけてもらってるのか。
思わずふふっと笑うと、『お前、今笑ったな!言っておくが俺の本体は人型で、これは仮の姿なんだぞ!』とキレられた。
人型にもコウモリにもなれるとは、便利なことだ。
「聖女」
「はい。あ、名前は美和子っていいます」
呼ばれて魔王に向き直ると、彼の切れ長の瞳が私を見据えていた。
「人間達は、俺の言葉に耳を貸さない。その中で…どのように和解の道を模索しろと?」
「えーっと、そうですね。まずは話のわかる人間に、あなたに敵意がないことを伝える所から始めませんか」
最初に狙うはルーカスだ。
ちょっとうっかり屋だけど、彼は素直だし、信頼してもいい人間だと思う。
ルーカスは私の意思に関係なく、無理矢理にでもこの世界へ連れて来れたと思う。
でも、そうしなかった。相手の気持ちを汲み取れる人だと思う。
「私をここに連れて来た、ルーカスという魔法使いがいます。彼、たぶん話の分かる人間なので…和解のことを伝えてみて、反応を窺いましょう。
少しずつでもそういう人を探していけば、あなたを理解しようとする人が増えていくはずですよ。
ちなみにその一人目は私です」
そう伝えると、魔王は形のいい眉を顰めて信じられない、という驚愕の表情を作った。
「聖女が俺の、理解者になると?」
「そうなりたいなと思ってますよ。……そうだ、あとこれ」
私は肩に下げているエコバッグから、分厚い大きな本を取り出した。
実はこの世界に来る前に、駅前の本屋で急いで買ってきたんだよね。
魔王にハイっとそれを差し出せば、彼は真紅の瞳を瞬いた。
「……なんだ、これは。魔術書か?」
「違いますよ。虫図鑑です」
その名も“世界の昆虫大図鑑〜第三弾〜”。
「これ、どうぞ。私の世界に生息してる虫が色々載ってる図鑑です。魔王さんは虫が好きだって聞いたので」
「………俺に、これを?」
「はい」
「…………………」
魔王はおずおずと図鑑を受け取った。
けれどそれを見つめたまま、凍りついたように動かない。
写真が大きくて見やすそうな、小◯館のやつを選んだんだけど…子供っぽかったかな?
他のは日本語の説明文が長めに載ってたから、選ばなかったんだよね。
しばらくリアクションを待ってみたけどーーー魔王は黙ったままだ。
もしかして、選ぶ本ミスったかな。
呪いが虫チョイスだったから、けっこういい線いくと思ったんだけど……。
なんだか居た堪れなくなった私が声をかけようとしたところで、ふっと真紅の瞳が私に向けられた。
「人間から、贈り物をもらったのは初めてだ。………ありがとう」
「!」
そう言って間をおかずに、魔王の視線は図鑑に戻った。
ーーー今こちらを見て、ありがとうって言ってくれたよね?
聞き逃しそうなくらい小さな声だったけど…。
あの美声で囁くように、ありがとう、って。
そしてちょっと照れくさそうに図鑑をめくる姿が、もはや愛おしい。
だらしなくにやけそうになる顔を抑えながら、私はしばらく魔王の顔を眺めた。
はー、喜んでもらえてよかった。
その後魔王に命じられたコウモリが、ルーカス入りの一輪挿しを探し出し、口に咥えてやって来た。
…顎の筋肉、めちゃめちゃ発達してるな。
一輪挿しは小さいヒビが入ってたけど、奇跡的に割れてはいない。
中の蜘蛛ルーカスは気絶していた。
「ルーカス、起きて」
コンコンとガラスの表面を叩いていると、蜘蛛がぴくりと動いた。
『………ミワコ様?魔王は…………あっ!』
すぐそこにいる魔王に気づいたらしく、ガラスの向こう側のルーカスが右往左往した。
『ミワコ様、離れてください!彼が魔王で…』
「うん、分かってるよ」
慌てるルーカスを宥めて、私は魔王とさっき話した内容を説明した。
半信半疑のようだったが、ルーカスは終始真剣に私の話を聞いていた。
『では、魔王に人間を殺戮する意図はない、ということですか?』
「そう。こっちから手出ししない限り、彼が人間を呪ったりすることもないよ」
『そうだったのですね…。僕達は、てっきり…』
すると、話を聞いていた魔王がこちらに歩み寄ってきて、私の持つ一輪挿しに手をかざした。
その場にパーッと暗い赤の光が溢れたかと思えば、次に瞬いた時、そこには金髪碧眼の美少年がきょとんとして立っていた。
おぉ?誰だこの子は。
一瞬ギディオンかと思ったけど、奴は上空で旋回している。
不意に美少年は自分の手のひらを見下ろして、「戻った…」と呟いた。
聞き覚えのある声にひらめいて、私は手元の一輪挿しに視線を落とす。
蜘蛛が、いなくなっていた。
「もしかして、あなたがルーカス?」
「えっと…はい。ミワコ様」
戸惑いながらも、美少年はぺこっと頭を下げた。
ほー、こんな綺麗な顔をしてたんだね。
いいなー、全然毛穴が見当たらない。滑らかな白磁の肌が切実に羨ましい。
今年で二十七歳になった私は、お肌の曲がり角を爆速で曲がり途中。
…って、いかんいかん。
気にするべきはそこではない。
その後私が取りなす前に、ルーカスは自ら魔王に歩み寄った。
「あの…あなたの言葉を聞かないまま、討伐しようとしたことを、謝罪させてください。申し訳ありませんでした。
それと、僕の口から仲間へ…あなたの意思を伝える機会をいただけませんか?」
「……お前は、聖女の言葉を…俺に敵意はないということを、信じるのか」
「はい。ミワコ様は、僕がお連れした聖女様です。たとえ他の誰が信じなかったとしても…ミワコ様の言葉を、僕は信じます」
ルーカス…私を信じてくれてたのか。ちょっと感動してしまった。
魔王は険しい表情を浮かべながらも、ルーカスの言葉を受け入れ、虫になった勇者一行のもとへ案内してくれることになった。
魔王城は重厚感のある古めかしい外観に比べて、その内装は意外にも近代的だった。
精巧なシャンデリア、緻密な細工の装飾。
ヨーロッパの大貴族達が過ごしたという荘厳な城と、どことなく似通っている気がする。
城内に入ったところで、微笑みをたたえた執事服の好々爺が出迎えてくれた。
「ジェラルド。聖女と魔法使いを客間に」
「かしこまりました」
魔王の命を受けた好々爺は、にこやかな表情で「執事を任されております、ジェラルドと申します」と言って、洗練されたお辞儀をみせた。
私達のことはジェラルドさんに任せて、魔王はこの場を離れるらしい。
「何かあればジェラルドに伝えろ。言うまでもなく、おかしな動きを見せればお前達も捕らえるからな」
そう釘を刺して、魔王はどこかに行ってしまった。
ジェラルドさんに誘導されて辿り着いたのは、一階にある客間だった。
質の良い調度品が並んでいてーーー
「うわっ!」
なんと、客間の窓際には色とりどりの虫が入ったガラスケースが並んでいた。ざっと数えても十種類くらいはいる。
ううぅ。これも魔王のコレクションか。
入るのを躊躇うが仕方ない…と足を踏み入れた所で、『ルーカス、無事だったのね!』『あの黒髪の女性が聖女様か…』などなど、老若男女の声が一斉に響いた。
けれどこの部屋にいるのは、私とルーカス、それにジェラルドさんの三人だけ。
つまりこの声は、ガラスケース内にいる虫…もとい呪われた勇者一行の声らしい。
ルーカスは表情を和らげて、ガラスケースに駆け寄った。
私の後ろにいたジェラルドさん曰く、ここにはルーカスと一緒に来たメンバーだけでなく、他の国々の勇者一行もいるそうだ。あの魔王、よっぽど強いんだなぁ。
………よく見ると、ガラスケースの中にはフカフカのマット的なものが敷いてあり、さらにエサ台やのぼり木も設置されている。
文句なしに整備された飼育環境に、私は何も言えなくなった。
仲間と再会を果たしたルーカスは、魔王が人間に敵対する気はないこと、そして魔王本人に呪いを解いてもらったことも伝えていた。
「そして魔王と僕の間を取り持ってくださったのは、こちらの聖女ミワコ様です。魔王も、彼女の言葉には耳を傾けていました」
『おお、この方が…異世界から我々のために降臨された、聖女様か』
『すごい…光り輝いているわ』
えーと、聖女ではないんだけど……もう否定するのも面倒になってきた。
何の力も使えないけど、とりあえず今はそういうことにしておこう。
ざわつく室内で、穏やかな女性の声が私とルーカスを呼んだ。
『聖女様、ルーカス。私達は呪いを受けてこの姿になりましたが、その間ずっと、そちらの執事の男性が世話をしてくださっていたのです。
酷い扱いをされたことは、一度もありませんでした』
壁際に控えているジェラルドさんを振り返ると、彼は微笑みを深めて「ルグドラ様よりご指示がありましたので」と言った。
『その通りじゃ。虫にはなったが、不自由は何もなかったのう』
『魔王が俺達を殺すつもりなら、こんなところで面倒見たりしないよな。魔王の意思は、ここにいる間に俺らも理解したよ』
おお…。
少し安心した。
勇者一行に話を理解してもらえるか不安だったけど、彼らは想像よりもずっと、冷静にこの状況を捉えていたらしい。
それならもう一押しだろう。
私はその場を一歩踏み出して、聖女っぽく…というのはよく分からないので、なるべく柔らか〜く微笑んでみた。
「皆さんもお分かりだと思いますが……私達が出会った魔王は、人間への思いやりをその心に持っている方です。
本来、進んで人間を呪うような方ではありません。
それを知った今、彼と敵対する理由はないと思います。
種族は違っても、互いを理解し合おうという姿勢を持って、それを表に見せること。
それが何よりも、皆さんの国の安寧を守ることに繋がるのでは?」
うはー、言った。緊張した。
ちょっと芝居掛かった台詞になっちゃったけど、どうだろう。伝わったかな?
すると、手汗が止まらない小心者な私の隣に、真剣な表情のルーカスが並んで立った。
「僕も、そう思います。先代の魔王と今の魔王を一緒くたに考えて、早まった行動をして……間違いを犯したのは人間の方でした」
そこからは彼の言葉を皮切りに、『そうだな…魔王の言葉に耳を傾けずに、剣をとったのは俺達だ』『それでも魔王は私達を殺さなかったものね…』と、勇者一行は口々に言い合った。
ルーカスは彼らの言葉に深く頷いた。
「まずは魔王に謝罪を。そしてそれぞれの国に戻って、魔王と人間の対話の道筋を、僕達で作っていきましょう。
このまま放っておいたら、また新たな勇者一行が起ってしまいます」
その後、私達を見守っていたジェラルドさんへ、魔王と会わせてもらえないかと勇者一行が頼んだ。
ジェラルドさんは鷹揚に頷いて、唐突に人差し指を天井に向ける。
それを合図にどこからかコウモリが現れて、客間をぐるりと一周したかと思えば、陽炎のように揺らいで姿を消した。
うわー、今のも魔法なのかな?
目を白黒させていると、ジェラルドさんが「ルグドラ様は間もなく見えますので、お待ちくださいね」と穏やかに言った。
彼の言葉通り、少ししてから客間に魔王が姿を現した。
魔王から放たれる見えないプレッシャーで、室内にぴりりとした緊張感が漂う。
しかしそんな空気を読んだルーカスが率先して動き、勇者一行は改めて魔王に謝罪した。
魔王はしばらく彼らを見つめていたけど、やがて視線を外して「もういい」と呟いた。
そしてガラスケースの方に、その大きな手をかざす。
次の瞬間、ルーカスの時と同じように、その場に暗い赤の光があ溢れてーーー勇者一行は、人間の姿を取り戻した。
「呪いをかけたことを、今すぐに謝ろうとは思えない。だが俺は…人間との関係性を、これから変えていきたいと思っている。
身勝手かもしれないが、和解に向けて、力を貸してほしい」
魔王の真摯な言葉を聞いた勇者一行は、帰還したそれぞれの国で、対話の道筋を作っていくことを約束した。
その道のりは平坦じゃないかもしれないけど、人間にとっても、魔王にとっても…大切な一歩になるだろう。
ほんの少し和らいだように見える魔王の表情に、私も胸を撫で下ろした。
※
『………それで、どうしてお前だけ城に残ってるんだ?聖女!』
客間に響いたのは、咎めるようなギディオンの声だ。
帰還する勇者一行×三組を見送った後、先ほどと別の客間で、私は魔王と紅茶を飲んでいた。
ジェラルドさんが淹れてくれた紅茶は、ほんのり花の香りがしていてとても美味しい。
最初は私と同席することに躊躇いを見せた魔王だったけど、ジェラルドさんのさり気ない誘導により、この場が実現した。
物腰穏やかなあの執事さんは、実はかなりのやり手とみた。
というか魔王、紅茶とか飲むんだ。
不覚にもそのギャップに胸キュンしてしまう。
…胸キュンって、もしかして死語ですかね。今時の若い子は、それに代わる言葉を使ってるのだろうか。
そしてこの客間にいるのは……正確には、二人と一匹だ。
暴力コウモリことギディオンが、部屋の隅から私を睨んでいる。
完全に敵認定されているようで、いちいち私の行動に目を光らせていた。
私は紅茶のカップを口に運びながら、ギディオンに言い返す。
「少しなら滞在してもいいって、ちゃーんと魔王さんから許しをもらってます。ね、魔王さん」
それに和解に向けて人間とやり取りするなら、聖女(仮)でも力になれることはあるだろう。
テーブルを挟んで正面に座っている魔王に同意を求めると、彼は表情を変えずに口を開いた。
「数日だけだ」
「ありがとう、魔王さん」
魔王の返事はものすごーく無愛想。
ま、これくらいじゃへこたれませんけどね。
あの後、ルーカスにお礼がしたいからぜひ我が国へと誘ってもらったけど、私は丁重に断った。
万が一でも千年前の聖女のように、救世主として祀りあげられても困るしね。
そして何より。
私の目的は、魔王討伐から魔王攻略へシフトチェンジ。
紅茶をいただきながら、結婚はー恋人はーとそれとなく訊いてみたところ「いない」ときっぱり答えていたので、内心ガッツポーズした。
「魔王様とつり合う女が、そうそう現れるわけないだろう」と誇らしげに言ったギディオンは無視する。
私は必死に魔王に頼み込んで、どうにか城の滞在許可をもぎ取った。
魔王曰く、彼も転移魔法を使えて、私を家に帰すことができるらしい。
ということは、二つの世界を行ったり来たり出来るってことかな。
もしそうなら私にとって大変好都合。
正面にいる魔王をじーっと観察していると、彼がふっと口元を綻ばせて言った。
「それにしても、お前にもらったこの本はとても面白い」
魔王はテーブルの隅に置かれている、私が贈った図鑑に視線を移した。
本当に虫が好きなんだなー。
この人、見た目は私と同じくらいか少し年下だと思うんだけど、趣味は少年時代と変わらないってとこかな。
今度何歳なのか聞いてみよーっと。
私は立ち上がって、魔王の方に歩み寄った。
せっかくなので図鑑一緒に見ましょーと言うと、ちょっと眉間に皺が寄ったけど…断られてはいないし、良いってことだろう。
図鑑を手に取って、彼の隣でページをめくる。
「この蝶、見てください。モルフォチョウといって、私の世界で一番美しい蝶とも言われてるんですよ」
「…そうなのか。お前の住む国にも、この蝶は生息しているのか?」
「えーっと、私の国には生息してないと思います。国に持ち込むことも出来ないんじゃなかったかな」
そんな風に会話しながらページをめくっていると、しびれを切らしたようにギディオンが喚き出した。
『魔王様、聖女との距離が近すぎでは!?その女、またよからぬことを考えている可能性がありますっ。危険ですので離れてください!』
「ギディオン、いい加減しつこい。うるさい。ちょっとくらいいいじゃん」
『ちょっとくらいとは何だ!さてはお前、聖女の皮をかぶった悪女かサキュバスだな!?それに俺様の名前を呼び捨てにする許可を出した覚えは」
「お前達は本当に懲りないな…』
ギディオンのせいで魔王に呆れられた。
疫病神ならぬ疫病コウモリだ。
それにちょっとくらいいいよね、ちょっとくらい。
図鑑に目を通している魔王の方へ、私はさりげなーく顔を傾けた。
そして眼前に迫った頬に、ほんの少し触れるだけのキスをした。
『あーーーーっ!!』
すぐさま弾丸の如くギディオンが飛んできて、私の頭を翼でばしばし叩く。
「イタタタタッ!」
『遂に本性を現したな!魔王様、固まっていないで早急に復讐なさるべきです!もしくはすぐそこの崖下へ突き落として来ましょうっ』
ギディオンの言葉の通り、魔王は図鑑に視線を向けたまま固まっている。
ふふふ、つい出来心で。驚かせてごめんなさい、魔王さん。
その後、しつこく咎めてくるギディオンに私が逆ギレしてしまい、我に返った魔王が仲裁して、騒ぎを聞きつけたジェラルドさんもやって来て…優雅なカフェタイムはどこへやら。
勇者一行が去った後も、魔王城は騒々しい。
※
一週間後。
「ねえ、ルグドラ。一旦家に帰ってから、また城に遊びに来てもいい?新しい図鑑持ってくるから」
「いいと言わなければ、このまま居座るつもりだろう」
さすがは魔王、ご明察。
つれない彼を振り向かせるべく、私は絶賛奮闘中だ。
攻略まではもう少し時間がかかりそう。
「ねえ、ルグドラ。ほっぺにキスしてもいい?ちょこっとだけ」
「……駄目だ」
「あ、今少し迷ったよね?いいかもって思ってくれた?」
『聖女、お前いい加減にしろよーっ』
恋路は山あり谷あり、しかし私は諦めない。
この世で最も強いのは、勇者でも魔王でも、聖女でもない。
恋する女ですからね?
読了いただきありがとうございました。
二人の攻防の続きを、いずれお披露目できればと思います^ ^