聖なる戦いとハイカット
亜衣は、昨日から一転して、晴れ渡った空を見上げた。
先ほどまで、下校する生徒や、部活動に向かう生徒でごった返していた渡り廊下だったけど、今は人気が無い。
澄み切って、気持ちがいいほどの青空とは対照的に、隣を歩く咲の表情は暗かった。
今朝、飯塚といるところを撮られた写真が、貼り出されるという嫌がらせを受けてから、ずっと、こんな調子である。
「まあ、あんまり考えすぎへんほうが、いいと思うよ。幼馴染の生徒会長、一人でなんとかしてくれるかもしれへんし」
亜衣は、今日一日ずっと浮かない顔をしていた咲のことが、心配になった。
「だいたい、写真を貼り出したのが、怪人かどうかも分かってへんやん。ホントに、趣味の悪いイタズラかもしれへんし」
「そ、そうやんな……。ただのイタズラよな? めっちゃ、悪趣味やけど」
「あ、悪趣味……。たしかに……」
「うち、魂導士なんて、イヤやし……。だいたい、妖気とか邪気とか言われても、全然感じへんし……」
「それは……」
(え?)
亜衣が、口を開きかけた時、お尻を触る、何かの感触があった。
お尻の表面を上下に這うものがあるような気がして、手を持っていくと、何かに当たる。
「きゃっ!」
亜衣は、咄嗟に、体を高速回転させた。振り向きざまに、バックハンドブローを振り抜く。
ガゴッ。
裏拳は、背後の男のアゴを砕くだけでなく、身体ごと吹っ飛ばした。
亜衣のお尻を触った男は、背中を柱にぶつけた拍子に、渡り廊下から、落ちそうになったが、運よく、ブレザーが手すりにひっかかり、その反動で戻ってきた。
「し、七宮?」
「えっ? 七宮ちゃうやろ?」
亜衣は、殴った相手が七宮だと、すぐにわかったが、咲は、それを否定する。
「だ、だって……眼鏡もかけてへんし、髪型かて……」
咲は、そこまで言いかけて、「……七宮?」と言い直した。
七宮は、片膝をついて、目をうるうるとさせていたが、放心しているのか、何も返事をしなかった。
七宮の頭髪は、昨日までの黒々としたマッシュルームヘアではなく、茶髪だった。
モデルのように、少しオイリーに光らせてセットされている。しかも、七宮のトレードマークだった大きな黒縁眼鏡はなく、そのせいで、いつもと目の印象も違う。
くっきりした二重のパッチリした目に、鼻筋が通って……。ただ、大きなマスクをしていて、顔全体は見えない。
(おしい……。見てみたい……)
亜衣は、七宮のイメチェンを朝から気付いてはいたが、咲には言えなかった。
本当は、何度も「ほら、咲、見てよ。思った通り、七宮はイケメンやったやろ?」って言いたくなっていたんだけど、咲は、ずっと落ち込んでいたようだったから。
自分の目に狂いはなかったと、心の中で自画自賛しながら、七宮を見ていると、咲に肩をつつかれる。
「どうしたん、亜衣? なんで、いきなり、七宮をぶん殴ったん?」
大きなマスクをした七宮は、アゴをおさえ、放心したように細かく震えていた。
格闘技オタクである、亜衣のバックハンドブローが、かなり効いたのだろう。マスクに血も滲んでいる。
(よ、よく見ると、い、痛そう……で、でも……だって……)
不憫には思ったけど、そもそも七宮が悪い。
「し、七宮、今、お尻触ったやろ?」
七宮が、ブンブンと首を振った。
「ボ、ボクの意思じゃ……ないんです……。か、体が……体が勝手に……」
七宮は、自分の両肩を抱き、体をガタガタ震わしながら、うずくまる。
「七宮? だ、大丈夫?」
異変を察知した亜衣は、しゃがんで七宮の背中を触ると、ガチガチに硬かった。
まるで、鉄板のように……。
「し、七宮!? ちょ、ちょっと、咲っ! 七宮の身体が!」
亜衣の隣に咲もかがんで、七宮の肩を撫で、ハッと、手を浮かした。
「……ボ、ボクは……ボクは、シカクシメン怪人に……なる……のだ……」
「は? な、何言ってんのよ! しっかりしてよ、七宮っ!」
渡り廊下にいた亜衣の絶叫が、校舎の間で反響した。
「な、なんで、こんな、キモいやつ、連れてくんだよ!? 自分らで、なんとかしてくれよ!」
生徒会長の飯塚は、片方の頬をピクピクと引きつらせて、喚き立てた。
本気で迷惑がっているみたいだけど、亜衣からしてみれば、オマエがなんとかする役割やろと言いたくなる。
亜衣は、咲と二人で七宮の肩を担いで、生徒会室に運び込んでいた。
「何、その言い方? 斗基ちゃんが、お札を持ってるんだから、なんとかしてあげてよ!」
「そうよ、生徒会長。今朝は、お札の効力を聞いて、ちょっと、やる気をだしてたやんか」
咲が、先に苦情を言ってくれたおかげで、亜衣は遠慮することなく、好きなことが言える。
「早く、七宮を助けてやって、生徒会長。苦しそうで、かわいそうやんか」
「う……うぅ……ボ、ボクは、シカクシメン怪人に……」
床にうずくまっている七宮は、ずっと、うわ言のように、何か言っている。
「イヤイヤイヤ、キモい、キモい、キモい、キモい」
飯塚は、壁際まで下がって、壁にへばりつく。
「ちょ、ちょっと、斗基ちゃん、しっかりしてよ! まずは、お札を出しなさいよ!」
「咲、ちょっと、七宮の上半身脱がせてみるね」
亜衣が、七宮のブレザーを脱がし、開襟シャツのボタンに手をかけた時、七宮も、亜衣を手伝うように、自ら脱いだ。
「な、なにやってんだよ。べ、別に脱がさなくても、いいんじゃないのっ!?」
「何言ってんの、生徒会長! あなた、それでも、魂導士? ちゃんと、症状を見てあげてよ!」
「そ、そんな……オレ、好きでなったわけじゃ……」
「今さら、何言ってんの!? ほら、見てあげてよ!」
亜衣は、上半身を脱がした七宮を立たせた。
七宮は、腕も体も、積み木を組み合わせたように角ばっていて、炙られたように表面が焦げている。そのせいか、木くずを燻したような匂いがした。
(なるほど……。たしかに、『シカクシメン怪人』っぽいわ)
七宮の背中からは、湯気が立ち昇り、マスクの中で息苦しそうにする呼吸に合わせて、湯気の量が変化する。
「ひ、ひやぁあぁぁあっ!」
飯塚は、魔除けのお札を七宮に投げつけ、頭を抱えて、部屋の角で向こうを向いた。
(な、なんてヤツや……)
助けてもらえないと悟ったのか、七宮は、その場にへなへなと、へたり込んだ。
「……か……香川さ…ん……ボ、ボクは……」
「だ、大丈夫よ、しっかりして、七宮」
そう言いながら、亜衣は、飯塚が投げつけたお札を拾い、咲に渡す。
「お願い、咲。七宮を助けてあげて」
「そ……そうよね……う、うちがなんとかするしかない状況よね……」
咲は、手にしたお札をしげしげと眺めていたけど、ちょっと経って、意を決したように顔を上げた。
「あ……あ、うん。わかった。ちょっと……やってみる」
咲が屈んで、七宮に寄り添う。
「どう? どこか痛いの? どこが、苦しいの? ここは?」
聴診器でも当てるように、七宮の身体にポンポンとお札を当てていく咲は、本気で七宮を治そうとしてくれているようだった。
「ちょ、ちょっと、ずつ……。ちょっとずつ、楽になっていく……気がします……」
七宮の額から、汗が引いていた。心なしか、血色も良くなっているように見える。
「咲、なんか、効いているみたいね。よかった……」
「そ、そうみたい……よく、わからへんけど……」
十五分ほど、咲の手当てがあって、ようやく、七宮は、はっきりと話せるようになった。
「すみません。ご迷惑をお掛けしました。すっかり、楽になりました」
言葉とは裏腹に、体はどこも改善したようには見えない。
咲も同じことを思っているのか、首をひねりながら、お札を七宮に渡した。
「ほんまに、大丈夫? シカクシメン怪人になるとか、ゆうてたけど」
「えっ? そんなこと、言っていましたか?」
「ゆうてたで、わたしも聴いた、それ。うなされてたみたいやったで」
「そ、そうですか……。全然、そんな自覚ないんですけど……。ボ、ボク、治りますかね?」
魔除けのお札を握り締めた七宮が、上目遣いで、咲を見た。
「さ……さあ、わからへんけど、治るんちゃう。そのお札、よく効くみたいやから」
七宮の顔が、パッと明るくなる。膝立ちで服を拾い上げ、それを着ながら、のっそりと立ち上がった。
「本当に、ありがとうございました」
「あ、ちょっと待って」
生徒会室から出て行こうとする七宮を、亜衣が呼び止めた。
リュックのポケットを開けて、中から、使い捨てマスクを取り出す。
「マスクに血がついてるで。これと、交換したら?」
「え? い、いいんですか? か、香川さんの……」
七宮は、少し目が潤んでいるように見えた。
「そんな、遠慮せんでもええって。使い捨てのヤツやし」
七宮が、マスクを外し、ハンカチで、乾いた鼻血の跡を拭く。
初めて、茶髪のイカした髪型で、黒縁眼鏡を外した七宮の顔面の全貌が露わになった。
マスクを外すとがっかりしてしまう顔立ちの人が多いけど、七宮は違った。
マスクを外して露わになった細いアゴと薄い唇によって、イケメン度が増している。
(えっ? あ、あれ?)
亜衣は、七宮にマスクを手渡しながら、過去にリープしてしまいそうな、不思議な感覚に囚われた。
実際に、リープするわけは無いのだけれど。
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく、いただきます」
七宮の顔は、どこか既視感のあるものだった。
ただ、それが、何なのかは、亜衣にはわからない。ただ、これまで生きてきた、過去のどこかで、この顔に出会っているような気がした。
七宮は新しいマスクをつけると、一瞬、亜衣の方を見た。けれど、亜衣の動揺を知る由も無く、ロボットのような、ぎこちない動きで、生徒会室を出て行った。
「斗基ちゃん! もう、しっかりしてよね。頼りにしてたのに、情けない……。次があったら、名誉挽回してよ、ホンマ」
壁際で小さくなっていた飯塚は、ポリポリと頭を掻いた。
「あ、あぁ、わかった。さっきは、心積もりが無くて、突然だったから動揺したけど、次は、大丈夫だから」
「斗基ちゃん、魔除けのお札、うちが何枚か、預っとこか?」
「いや、大丈夫、大丈夫。次は、オレがなんとかすっから。絶対」
咲は、亜衣にまで聴こえるくらい、大きなため息をついた。
その夜、亜衣は、お風呂から上がり、髪を乾かしていた。
「亜衣ちゃん……。ねえ、最近、毎日遅いけど、大丈夫? なんだか、疲れているようにも見えんねんけど」
亜衣は、母に話しかけられたことに気付き、ドライヤーのスイッチを切る。
「え? なんて? なんか言った?」
「いやな、不登校の子のケアやっけ? 夜な夜な、遅くまでたいへんやなぁと思って。亜衣ちゃんの方が、身体を壊してしまうんやないかって、心配してんねんで」
ダイニングで優雅に紅茶をすする母は、ちっとも心配そうな顔をしていなかった。
亜衣は、髪に手櫛を通し、乾き具合を確認する。ちょっと、しっとりはしているが、寝るまでには乾きそうだった。
「大丈夫やって。趣味でやってるようなもんやし、ぜんぜん、大変とか思ってへんし」
「そんな、ボランティア精神豊富に、いつからなってしもたん? 昔は、そんな子じゃなかったんに……」
「いい子に育ったってことやろ。ママの愛情の賜物ちゃう?」
ドライヤーをコンセントから抜き、コードを束ねて、引き出しに戻した。
「そうかな。パパの血を引いているってのが、大きいと思うんやけどねえ」
母は、また父のことを話題にした。タブーだって母が決めたのに、自ら約束を破っている。しかも、最近増えているような気もする。
「……そうやな……」
亜衣は、何度注意しても直らない母に、指摘する気も失せていた。
「あぁ、そや、亜衣ちゃん、小玉スイカ買ってあるけど、食べる? 切ったろか?」
母がフルーツを買ってくるとは、珍しい。見ると、母はニコニコしていて、いつになく明るい表情をしている。何か、いいことでもあったのかもしれない。
「ええわ。いらん」
こういう時は、関わらない方がいい。亜衣は、母と二人きりで過ごすうち、学んでいた。
(前は、いつやったっけ?)
階段を上りながら考える。
(二ヶ月前……。そうや、パチスロで勝ったとか、ゆうてた日だ……)
あの日も、母は、ご機嫌だった。
元々、パチンコとかパチスロとか、やっていなかったと、母、本人から聞いたことがある。むしろ、その類のギャンブルを毛嫌いしていたと。
けど、亜衣の知る限り、母は、亜衣が幼い頃から、ずっとギャンブルに興じている。
母曰く、本来は、旅行好きで、父ともいろんなところに出かけていたけど、父が、週末もボランティアをして家を空けるようになって、寂しくなって、パチンコ屋に通い出したとのこと。寂しかったのだと、伏し目がちに言っていた母のことは、今でも鮮明に覚えている。
亜衣は、母が、パチスロに勝とうが負けようが、あまり興味がなかった。
むしろ、負け続けて、パチンコをやめてくれるなら、その方が、よっぽど嬉しい。
亜衣は、自分の部屋に入ると、自作ダンベルを持ち上げた。
ベッドの上に、定期購読している格闘技雑誌を広げ、それを眺めながら、ダンベルを上下させて、左腕を鍛える。
(そういえば、今月号、そろそろ届くかな……)
左腕の動きをそのままに、右手でスマートフォンを操作し、確認する。
(まだか……)
まだ、格闘技雑誌の今月号は、発送されていなかった。
夜のトレーニングは、特にルーティン化していない。帰ってくる時間が毎日違うから、気がむいた時だけ、やっている。
雑誌をめくり、ダンベルを右手に持ち変えて、上下させていると、スマートフォンに着信があった。
『亜衣、さっきはありがとう。明日は、学校に行くから』
ミクルからのメッセージだった。
ミクルと、ついさっきまで会っていた。会った印象は、元気いっぱいで、心も体も健康そのもの。本当に不登校になった子なのかと、疑いたくなるほどだった。
そんなこと、口が裂けても本人には言えないけど。
亜衣は、ダンベルを床に置き、ミクルに返信する。
『いよいよ、明日ね。でも、あんまり気負わずにね』
亜衣の返信は、すぐに既読がついた。
『そうだね。不安はあるよ、一カ月ぶりの学校やし』
(そりゃ、そうだよね……)
亜衣は、ミクルのことを考えながら、再び返す。
『無理やと思ったら、やめてもいいからね。ミクルの心の健康が、第一やからね』
『ありがと。なんだか、緊張するわー。じゃあね、おやすみ』
『おやすみ』
亜衣は、思い立って、アプリを閉じずに、トーク履歴をスワイプした。エンドレスで続くのかと思うくらいある名前の中から、北野の名前を見つけ、北野にもメッセージを送る。
『キタアツ、調子はどう? 明日は大丈夫そう?』
もう寝てしまったのか、北野から返事が返ってこないどころか、既読すらつかなかった。
翌朝は、どんよりとした天気だった。
西の空に、はぐれ虹が出ていたのは、四日前の朝。ベストセラー本の内容ほどではないけど、京四条高校で、不吉なことが起こり始めている。
校門をくぐる懐かしい友達を見つけた亜衣は、ハイカットのコンバースで駆け出した。
「ミクル! おはようっ!」
「あ、亜衣! おはよー」
谷本ミクルが、咲と並んで登校してきた。
「昨日は、ゴメンね。ワタシのために、いろいろしてくれて」
「昨日?」
咲が、首を捻った。
「あぁ、咲には言ってなかったね。例の、ほら、目黒先生の指示でさ……」
「あぁ、亜衣が、昨日、ミクルのフォローをしてくれたんだ」
「そゆこと。でも、ミクル、登校してくれて、ホント、よかったぁ。うれしいわ」
「今まで、迷惑かけてゴメンね。これからは、ちゃんと、毎日学校に、来るから」
「そうそう、亜衣、今、ミクルにソフトボール部のマネージャーはどうかなって、勧めてたんやけど」
「あぁ! それいい! ええやん、グッドアイデア。ミクル、どうなん?」
「ありがと……。咲にも、亜衣にも、気を使わせちゃって、なんか、ゴメンね」
「そんなんええって。また、一緒に、甲子園めざそ!」
「亜衣、甲子園やないけどな」
「あれ、どこやっけ?」
「知らん」
教室に入ると、一番前の席の七宮が、机の上に突っ伏していた。いつもと変わらない光景ではあるけど、亜衣は気になって、飯塚の隣に座り、「大丈夫?」と、背中をさする。昨日のように固くはなく、自然な肌の感触だった。
「あ、あぁ……か、香川さん……」
気だるそうに顔を上げた七宮は、体を前後に揺らしながら、苦しそうに息をしている。
「なんか、息苦しそうやな。まだ、治ってへんの?」
「体中にあったハリといいますか、こわばりといいますか、そういうのはだいぶマシになったんですけど……」
亜衣は、七宮の二の腕を掴んで、やさしく揉んだ。
「確かに、昨日みたいに硬くは無くなったみたいやね」
「そ、そんなんです。ですが、まだ、息苦しさが残るといいますか、時々、動悸もするんです」
「そうなんや……」
亜衣が、教室の後ろの方を振り返る。すると、咲と目が合った。ひょいひょいと、手招きしてみたけど、咲は、首を横に振った。
「ボ、ボクは、治るんですかね……。このまま、治らなかったら、ボク、いつか、シカクシメン怪人になっちゃうんでしょうか……」
「そ、そんな、弱気にならんといてや」
亜衣は立ち上がり、咲に向かって、歩き出した。
それに気付いた咲が、廊下に逃げようとするので、亜衣は追いかけ、教室を出たところで咲を捕まえる。
「咲、なんで逃げるん。七宮、苦しそうやで」
「亜衣、前にもゆうたけど、あいつに関わらん方がええって。あいつ、クソ真面目やから、みんなから嫌われて……」
「そんなこと、ゆうてる場合やないやん? 七宮、苦しんでるんやで? 一人で、頑張ってるんやで、可哀そうやんか。昨日は、協力してくれたやんか」
「あ、あれは、成り行き上……。もう、お札も渡してあるし、これ以上は、どうしようも出来へんし……」
「そんなこと言わんとって。七宮が頼れるんは、魂導士の咲と生徒会長しかおらんのやから。ちょっと来て、七宮の話を聞いてあげてや」
亜衣は、咲の手を引っ張った。咲は、嫌そうに抵抗していたけど、力で勝る亜衣は、強引に、七宮の席まで咲を連れて行く。
「あ、新町さん、昨日は、どうもありがとうございました。おかげ様で、だいぶ楽になりました」
七宮は、嬉しそうに、眉尻を垂らした。
「そ、そう? それなら、よかったやん」
咲が話を切り上げて去ろうとするが、亜衣はしっかりと腕を掴んで逃がさない。
「でも、まだ、息苦しいんです。このままじゃ、ボク、また悪化して、そのうち、シカクシメン怪人になってしまいそうな気がするんです。なんとか、治していただけませんか?」
「そ、そんなことゆうても、うち、やり方とか、わからへんし……。お札を当てるくらいしか……」
「咲、お札は? お札は持ってるん?」
「無いよ、一枚も。斗基ちゃんが、全部、がめちゃってるから」
「そんな……」
「はぁ……。まあ、持ってたとしても……」
咲は、困ったように、アヒルのように、口を尖らせる。
「でも、七宮、なんで、こんなことになったん? 原因はわかってるん?」
亜衣の問いかけに、七宮は何かを思い出そうとしたのか、視線を遠くにやった。
「ボ、ボクは、ずっとずっと、苦しかったんです……」
七宮は、徐々に視線を咲の方に向ける。
「こんな、真面目な性格ですので、不正とか手抜きとか、冗談とか、耐えられないのです。そんなのに触れる度に、正論を述べるんですが、大概の場合、逆ギレされて……。この先、どうやって生きていったらいいのか、悩んでいたんです」
「そ、そう……」
咲は、亜衣の方をチラチラと見てくる。関わりたくないという意思表示だろうけど、亜衣としても、咲になんとかしてもらいたい。お願い、助けてあげて、というメッセージを視線に込めて、咲を見つめた。
「それで、悩みながら街を歩いていたら、道で声を掛けられたんです。和泉老師に……」
「イズミローシ?」
咲が聞き返す。
どうやら、話を聞く気になったようだった。
「はい。ご本人が、そう名乗りましたので、そういう名前なのだと思います。その和泉老師に、ボクの抱えている悩みを言い当てられて、そして、思っていることを全部、吐き出すように諭されたんです」
「不気味やけど、ええ人そうやな、その人。ここまで聞くかぎりでは……」
「はい……。和泉老師に連れられて、路地裏に入り、そこにあったテーブルセットに、向かい合って座りました。そして、ボクは、胸に詰まった不平不満とか、愚痴とか、ありとあらゆる悪い感情を吐き出したんです」
咲は、時折、相槌を打ちながら、真剣に七宮の話を聞いてあげているようだった。
「その時は、すっきりしました。なにか、この世が、これまでと違った色に変わったような。いや、生まれ変わったという表現の方が、あっているかもしれません。真っ白のような、透明のような、心の中が、そんなふうになった気がしたんです。そして、最後に、和泉老師が、ボクのおでこに手をかざして、お経のような、呪文のようなことを唱え出したんです。それからだと、思います。ボクの身体に異変が起こり始めたのは」
「そ、そんなことが、あったんや……」
「はい。ボ、ボク、死にたくないです……。まだまだ、やり残したことが、たくさんあるんです」
「死ぬって……。怪人になったとしても、死ぬと決まったわけやないし」
「なんてこと言うん? ちょっと、冷たいんやない、咲?」
亜衣は、口を挟まないつもりだったけど、思わず口を出してしまった。咲は、気まずそうに、ほっぺたを掻く。
「ボク、不登校の生徒が学校に来たくなるような、そんな環境を作りたいんです」
「え? なにそれ?」
「そんな活動をしていたのに、まだ、道半ばで……。今はまだ、死にたくないんです……」
「七宮が、死にたくないのって、そ、そんな理由?」
咲の質問に、七宮はコクリと頷く。
「う、嘘? な、なんて崇高な……。聖人君子か、キミは」
「そ、そんな、恐れ多いです。ボクは、ただ、クラス委員長として、生徒会や先生たちの指示に従ってるだけ。みんなのためになりたいだけなんです。このままでは、死んでも、死に切れません」
「せやから、死にはせんと、思うけどな……」
「こころざし、道半ばなんです……シカクシメン怪人なんかに、なりたくないんです……」
七宮は、机に突っ伏し、肩を揺らした。シクシクと、泣き声が聴こえてくる。
「さ、咲、やっぱり、どうしようもないん?」
「せ、せやねぇ……」
咲は、思案してくれたようだけど、何も思い浮かばなかったのか、その後、何もしゃべらなかった。
その日の放課後、ソフトボール部の練習は、いつも以上に活気づいていた。大会が近づいていて、皆、気合が入っている。
ベンチには、今日からマネージャーをしてくれているミクルが座り、その後ろに吉水が、テレビ中継で使われるような、大きなカメラを担いで立っていた。
今日の練習が、紅白戦であることを聞きつけて、撮影しに来たらしい。
公式戦や練習試合に毎回来る吉水は、ソフトボール部員の中では有名人だったので、そこにいても、誰も気にも留めていない。
ただ、今日は、校内での撮影なので、吉水は、いつものスウェットの上下ではなく、高校の制服を着ていた。
キンッ!
擦れたような金属音だったけど、亜衣の放った打球は、レフト方向に高く張られたネットの最上部に当たって、跳ね返った。
「す、すごいな、香川。もっと、ネットを高くしなきゃ、ヤバいな、こりゃ……」
アンパイヤをしていた目黒は、マスクを取って唸る。
亜衣は塁を回りながら、ネットを見上げた。
ネットは、レフト側だけ、異常に高い。
昨年の夏、亜衣の打球が飛びすぎるために、三メートル近く上に延長された通称・香川ネット。亜衣ちゃんネットとも呼ばれるその網を越えることを目標に、亜衣は、筋トレをしてきた。
もう少しのところまできているのに、あと一延び、足りない。
「そんな不満そうな顔するなよ。十分すぎる当たりだったぞ」
本塁に戻って来た時、亜衣は、目黒に肩を組まれた。
そして、目黒が顔を近づけてくる。
「それに、大会前なんだから、エースの気持ちも考えてやれよ」
ハッとマウンドを見ると、ホームランを浴びた咲が、レフトの亜衣ちゃんネットを見上げたまま立ち尽くしていた。
「紅白戦で、お互いが本気を出した結果だから、しょうがないとは思うけどさ」
紅白戦は、亜衣のサヨナラホームランで幕を閉じた。
目黒は、腕時計で時間を確かめると、部員に、学校の周りを走るように指示する。そのすぐあと、動き出した部員の中から、亜衣と咲だけを呼び止めた。
「新町は、あと二十球投げて、調整しといてくれ。香川、受けてやってくれな」
「はい」
亜衣は、咲にボールを渡し、プロテクターを着けたあと、構える。
ズドン。
咲の投げた三号ボールをキャッチした亜衣のミットが、気持ちの良い音を鳴らした。
「ナイスボール」
咲の球は走っている。それは間違いない。ただ、亜衣がそれを上回るスイングの速さとパワーを有しているだけ。
「咲、ほんまに、球、走ってるで」
そう言って返球した球に、咲は反応しなかった。外野に向かって、コロコロとボールが転がっていく。
「咲?」
亜衣は、キャッチャーマスクを外して、咲のもとへ駆け寄る。
咲は、ベンチの方を見ていた。咲が凝視している方を見ると、ベンチの前では、マネージャーのミクルが、バットやボールを片付けている。さっきまで、そこにいた吉水の姿は無い。
「咲? どうしたん?」
咲の顔から見る見る血の気が引き、咲は、グローブで口元を覆った。
「あ、あ、亜衣……。あ、あ、あ、あれ……」
「え? どれ? なんのこと?」
亜衣が探すと、茂みの向こうから、ピカピカと黒光りする物体が姿を現した。スマートフォンの着ぐるみのように見える。
「あ、あれって、もしかして……スマホ怪人? 前に、生徒会長と咲を盗撮したとかいうやつ?」
「う、うん……。でも、あ、あれ……あれ、見て……」
「えっ?」
「は、は……刃物を……」
スマホ怪人は、両手に、刃渡りの長い包丁を握っていた。
「ちょ、ちょっと、ヤバいんちゃう。咲、た、退治せやんと……」
「そ、そ、そ、そんな……」
スマホ怪人は、のそのそと、ベンチのミクルに近づく。ミクルは、後片付けをしていて、それに気付いていない。
「ガ……ガルルルルッル……」
スマホ怪人が、ケダモノのような、だみ声を発した。それに気付いたミクルが、体を起こして、そのまま固まった。
「やばい……どうしよう……。咲、幼馴染みの生徒会長を呼んできてよ」
「わ、わかった……」
咲は、スマホ怪人を注視しながら、そろりとマウンドを下りる。
「ガッガアァル」
両手に二本の包丁を持ったスマホ怪人が、ミクルにジリジリと近づく。
「咲っ! 早く! 急いで!」
「きゃあぁあぁーっ!」
絶叫したのは、咲だった。
亜衣は、はっと、怪人の方に向きなおす。
「……あ……あ、あぁ……い、いたい……イタイイタイ痛い痛い!」
ミクルが、震えて泣きそうな声を出して、膝からくずおれた。
ミクルの脇腹に、スマホ怪人の包丁が刺さっていた。
「だ、大丈夫か、谷本っ!?」
異常事態に気付いた目黒が、ミクルに近づき、バットを振って、スマホ怪人を遠ざける。
「谷本ーっ! しっかりしろ!」
膝まづいたミクルのお腹には、包丁が刺さったままあった。それを伝って、地面にまで血が流れ出ている。
亜衣は、キャッチャーマスクを被り、グランドに転がっていたバットを拾い上げた。
「ちょっと! なにしてんのよ!」
スマホ怪人に向かって、ブンブンとバットを振り回す。
「目黒先生! 今のうちに、ミクルを!」
「わかった、任せろ!」
目黒は、ミクルを抱え上げ、保健室の方へ走り出した。
「ガルゥガ……グルルルル」
スマホ怪人は、まだ、右手に残りの包丁を持っている。
亜衣が、中段にバットを構えて対峙していると、ようやく、生徒会長が、魔除けのお札の束を抱えてやってきた。
「うわっ、ヤベっ!」
グランドに飛び出してきた時は、威勢の良かった飯塚だったが、予想外のことがあったのか、スマホ怪人に近づく前に、止まった。
「ほ、ほ、ほ、包丁持ってるじゃんか……。そんな武器を持ってくるなんて、聞いてないぞ……」
誰に対してなのか、飯塚が、ブツブツ言ったまま、前に出ようとしない。
「ちょっと! 生徒会長、早く、コイツを退治してよ!」
飯塚は、何を思ったのか、何枚かのお札を掴んで、投げつけようと構える。
「ちょっとっ! もったいない! やめなさいよ!」
「えっ?」
亜衣は、バットを握り締めたまま、じりじりと後退し、飯塚に並ぶ。
「限りあるお札なんだから、大切に使いなさいよね」
飯塚の背後に回った亜衣は、飯塚を前面に押し出した。
「じゃ、よろしくね」と言って、亜衣自身は、バットを投げ捨てて、後方に避難した。
「ガッガアァルルッ!」
「そ、そんな……。ど、どうしたら、いいんだ……いったい……」
スマホ怪人は、包丁を振り回し、飯塚に向かって、ズンズンと間合いを詰める。
「イ……イ……ヅーカァー!」
「えっ? えっ? オレ?」
飯塚は、動揺して、躓き、お札を地面にばらまいた。
それを拾おうともせず、「あわわわわわわわ」と四つん這いになって逃げる。
(な、なんなん、このヘタレ)
もはや、飯塚が対処するのは、無理かもしれないと、亜衣は不安になった。
「イイヅカー、ニゲンナヤ、コノヤロウ……」
「な、何、何? どういうこと、なんで、このバケモノ、オレの名前を知ってんの?」
飯塚が、亜衣の方に向く。助けてくれと、その目が訴えている。
「コロスゾ、イイヅカァ、オレヲハメヤガッテ……」
「生徒会長……こ、この怪人、もしかしたら……」
亜衣には、怪人の正体がわかった。
「……うちのクラスの、キタアツかもしれへん」
「キタアツ? ……って、北野のこと?」
「そう……。で、この怪人が、生徒会長を狙うってことは……キタアツが、会長に何か恨みを持ってるってことやないの?」
スマホ怪人は、殺気立っていた。怒りのオーラなのか、背中から湯気のようなものまで上がっている。
「生徒会長、何か心当たりがあるんやないん? この怪人、本気で、会長の命を狙ってそうよ」
飯塚は何も答えなかったが、目玉が飛び出そうなくらい目を見開いた。おそらく、心当たりがあるのだろう。
飯塚は赤ちゃんがするハイハイのように逃げていたが、それが、急加速した。手足をばたつかせて、天敵に襲われた野生の小動物のように逃げる。
『鴨川の笛吹き男』が起こした事件では、いじめられっ子が怪人にされて、いじめっ子らを次々に襲ったという。
「イイヅカ、ゼッタイ、オマエヲ、コロス」
その話は、昨日、亜衣から飯塚にも聞かせてある。
だから、飯塚は、自分が襲われているこの状況を理解しているはず。
四つん這いだった飯塚が、なんとか立ち上がり、背後を振り返る。
「うっ、うっ、うわあぁぁぁあ!」
きっと、怒れるスマホ怪人を間近に見て、急に恐ろしさが倍増したのだろう。飯塚は、腰を抜かしたのか、その場で尻もちをついて、動かなくなった。
「だ、大丈夫ですか?」
どこからか七宮が現れて、飯塚に駆け寄った。
飯塚の腕を掴んで、何度も立たせようとしている。けれど、上手くいっていない。
「イイヅカー……」
スマホ怪人が、飯塚のすぐ目の前まで迫ったところで、亜衣も、七宮を手伝い、二人で動けない飯塚を引き摺った。
「ちょっと、重いよ、生徒会長! 立って、自分で走りなさいよ!」
飯塚は、ワナワナと唇を震わし、うつろな目は、焦点が合っていない。
「ぬおぉぉぉおおおおお!」と、七宮が、雄叫びを上げた。
ズズーっと加速する。少しずつ、スマホ怪人との距離が開いてきた。
「亜衣っ! 早く、こっちへ!」
声の方を見ると、咲が、校舎から駆け出してきていた。
和服姿のスキンヘッド男の手を引っ張っている。
「さ、咲、その人って!?」
「亜衣は、覚えてるやろ? ちょくちょく、練習を見に来てたこの人」
「う、うん……」
「この人こそ、うちらのことを魂導士だと言って、魔除けのお札を授けてくれた人よ。たまたまいたから、怪人の鎮め方を教えてもらおうと思って、連れてきたの」
亜衣は、飯塚を、咲の近くにまで引き摺ってきて、ゴミ袋を収集車に投げ入れるがごとく、飯塚を投げ出した。
振り返ると、スマホ怪人は、遥か遠くでのそのそと歩いて、こっちに向かってきている。
「七宮、息苦しいのは、もう、治ったん?」
咲が、心配そうに声をかけたが、七宮は目を見開いて、怯えるように首を揺らしている。
「は、はい、それは、なんとか……。そ、それより、その方……」
七宮の視線は、スキンヘッドの和服男に、釘付けになっているようだった。
「えっ?」
七宮の反応が意外だったのか、咲は、七宮とスキンヘッドを交互に見る。
「えっ? 七宮、この人、知ってるん?」
「知ってるも何も、この人こそ、ボクの愚痴をずっと聞いてくれて、苦しみから解放してくれた和泉老師ですけど……」
「イズミローシ!? それって、今朝、話してた?」
「はい。和泉老師に話しを聞いてもらってから、楽になったんです。でも、呪文みたいなのを唱えられて、それからです。ボクの身体に異変が起きて、怪人のように変化していったのは……」
「こ、この人がっ!? ど、どうゆうこと!? あ、あなたは一体、何者っ!?」
咲が、問いただした相手は、七宮が、和泉老師と呼ぶ、スキンヘッドだった。
「フフフ」
スキンヘッドは、口角を上げて、いやらしく笑うだけ。
亜衣は、肩で息をしながら、咲と七宮のやり取りを聞いていた。会話に入りたいけど、息が上がってしまっている。
「そ、そうか、わかったぞ! オレは、すべてを理解した。謎は、解けた」
急に飯塚が、立ち上がった。
ポンポンと、お尻の砂を払う。そして、背筋を伸ばすと、ビシッとスキンヘッドを指さした。
「こ、このハゲの仕業だ、ぜんぶ。こいつが、元凶だっ!」
「斗基ちゃん、『ハゲ』って……そんな呼び方……」
「こいつ、なんか知らんけど、マッチポンプをやったんだ。怪人を生み出しといて、それを、オレらに、退治させようとしてたんだ」
「う、うそっ!?」
亜衣は、ようやく声を出せた。
「ぐわっはははははは」
スキンヘッドが、高らかに笑った。
「そう……そして、きっと、たぶん、もしかして……」
飯塚の表情が硬くなった。何かに気付いたようである。
「なんや、生徒会長さん、ゆうてみい」
スキンヘッドは、挑発的な口調で、飯塚に言い放った。両袖を捲り、腕を組む。
「こ、こいつはきっと、数年前に起こった事件の犯人……。『鴨川の笛吹き男』だ」
「え、えーっ!?」
亜衣だけでなく、咲も、七宮も声を上げた。
スキンヘッドに指をさしている飯塚の額からは、汗が噴き出している。閃きが、すぐに確認に変わって、胸が高鳴っているのだろう。
「面白い推理やな、生徒会長さん……」
スキンヘッドは、意味ありげに含み笑いをしながら、亜衣の前を通り過ぎ、スマホ怪人の方へと歩いていく。
「だとしたら、どうするつもりや? ワシごと、退治するか? どうやってやるつもりや? できるんか、キサマに?」
スキンヘッドは、スマホ怪人に近寄って、何やら話しかけた。
「ちょっと、生徒会長、お札は? 全部バラまいちゃって、もう一枚も無いの?」
亜衣が飯塚に近寄り、耳元に口を寄せて訊く。
「あ、ああ。一枚だけなら……」
飯塚は、ズボンの後ろポケットから、魔除けのお札を取り出して、見せてくれた。擦れて、文字が消えかかっているけど、使えそうではあった。
「それで、やるしかないよ。魂導士会長」
亜衣は、飯塚の背中を叩いた。
「こ、魂導士会長って……」
飯塚の返答は、弱々しい。
「ワシは、弱い者の味方だ。いじめられっ子を救ってやっとるんだ」
スマホ怪人の後ろについて、スキンヘッドが向かってくる。
「この子らは、恨み、つらみを持っておる。復讐をさせてやってるんだ。弱々しい人間の姿のままだと、したくても、出来へんやろ? せやから、怪人に変化させてやってるのよ」
「復讐って……ハムラビ法典かよ。勝手なことを……」
飯塚は反論したけれど、お札を握った手が、ぶるぶると震えている。
「この子の、オマエへの恨みは、相当なものみたいやな。直接的には関係のない、女子生徒まで刺すくらいやから」
スキンヘッドは、スマホ怪人の背中を押した。
「そ、そういえば、ミ、ミクルが……」
思い出したのか、咲は、両手で口を塞ぎ、むせび始めた。瞳が潤み、ポロリと涙がこぼれる。
「せや。スマホ怪人は、本気やで。お前ら全員、刺し殺すかもしれへんで」
スマホ怪人が、ブンブンと包丁を振り回した。
「イイヅカァ……デテコイヤ!」
亜衣は、気合を入れるために、飯塚の両肩をバシバシと叩いた。ボクシングの試合前のセコンドをイメージして。そして、耳元に口を寄せる。
「生徒会長、お札、一枚しかないんやから、その一枚で、確実に仕留めてよ」
ゴクン。
飯塚の唾を飲み込む音が、亜衣にも聴こえた。相当、緊張しているみたいだった。
「ちなみに、魂導士になった人が、悪霊退治する時に死んじゃう確率は、五十パーセントなんやって。わたしのパパは、殺されちゃったけど、半分は、生き残れる可能性があるから、希望を持って、がんばって」
亜衣は励ましたつもりだったが、飯塚のドーンと沈んだ表情を見ていると、逆効果だったかもしれない。
飯塚の手の震えが、いっそう激しくなって、はらりと、手からお札がこぼれ落ちる。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
亜衣がお札を拾おうとしたら、七宮が先に手を伸ばした。
「生徒会長、無理なら、ボクが行きましょうか?」
「えっ? い、いいの?」と、飯塚。
「はい。ボクは、一度怪人になりかけてますので、北野氏の気持ちが、わかるような気がするんです。なんとか、ボクでも、できそうな気がしますし」
「あ、あら、そう? 代わってもらってもいい?」
飯塚は、スイーツが出てきた時に女子がするような、ひまわりような笑顔になった。緊迫した状況なのに、明らかに喜んでいる。
「ただし、交換条件があります」
「こ、交換条件?」
「はい。おととい、お願いした件です。承認していただけるなら、会長の代わりにボクが、怪人に立ち向かいます」
「ふ、不登校の生徒のために、部活動を立ち上げたいっていう……あれのこと?」
「そうです。それです」
「そ、それは、その時にも言ったけど、生徒会は、昔から、部活動に必要な三要件っていうのを定めてるんだから、無理だって。ルールはルールだから……オマエにもわかるだろ、それくらい」
「はい。じゃあ、三要件を満たせたら、認めてくれるんですね?」
「そ……それは、時と場合によるけど……」
「じゃあ、やめです。交代しません。魂導士会長、頑張ってください」
七宮が、飯塚のお腹に、お札押し付けた。けれど、飯塚は受け取ろうとしない。お札を見ようともしなかった。
「そうよ、生徒会長がやるべきよ、魂導士なんやから。七宮、わけわかんないこと言って、邪魔したらあかんやん」
亜衣は、七宮からお札を奪い、飯塚の顔の前にかざす。
「はい、会長、がんばって。大丈夫。たとえ絶命しても、ちゃんと、語り継ぎますんで。伝説の男子になれますよ。チャンスですよ」
「い、いや……その……」
「や…嫌、嫌や……。嫌やって! わわ……あぁぁぁん」
咲が、しゃがみ込んで、泣き咽んだ。ミクルだけでなく、飯塚まで、刺されてしまうことを想像したのだろう。しゃくりあげるような、泣き声が響く。
七宮が、飯塚の正面に立った。
「会長、やっぱり、会長が亡くなると、損失がデカいです。その点、ボクは、死んでも悲しむ人もいませんし、学校への影響もありません」
「そ、そ……そうか?」
「はい。ただ、さっきの条件を飲んでください。ボクも、不登校の生徒のためになれたと思えば、死んでも悔いは残りません」
飯塚は、視線を上げ、何かを考えている。
「七宮、無駄やって。会長が伝説の男子にな……」
「よしっ! わかった。約束するっ!」
亜衣の声をかき消すように、飯塚が声を被せてきた。
「何を、ごちゃごちゃやってんねや! この子らにとって、これは、聖戦なんや! 隠れずに出てこいや!」
スキンヘッドは、しびれを切らしたようだった。それを合図に、スマホ怪人が、前に出てきた。
「会長、本当ですか? 約束ですよ」
「ああ、約束する。だから、七面鳥が行け。オマエが仕留めて来い。一人で行けるだろ?」
七宮は、コクリと頷くと、亜衣からお札を奪い、踵を返す。
「スマホ怪人とやら、ボクが、相手になる」
お札を前方に掲げながら、ズンズンと、七宮が前に出た。
スマホ怪人は、包丁を振り回している。けど、七宮はあまりビビッていない。
「スマホ怪人……いや、あなた、北野氏だそうですね。どうですか、今のお気持ちは?」
「アウッ!?」
「どうか、気持ちをお鎮めください。飯塚氏を殺したら、今度は、あなたが恨まれる側になってしまうんですよ。飯塚氏にも家族は、いるし、恋人もいる」
「いや、ただの幼馴染らしいよ。咲とは、まだ」
亜衣は、七宮の背後から会話に参加した。
「そ、そうですか……」
七宮は、お札を掲げたまま、逆の手でポリポリと、頭を掻いた。
「ま、でも、確かに、飯塚氏があなたにした仕打ちは、酷いものでした。ボクが聞いても、はっきり言って、おぞましい。えげつない。卑怯。最低男。ゲス野郎、ブ男。いやいや、いくつもブが並ぶくらいの、ブブブブ男かも……」
「お、おいおい。ちょ、ちょっとしゃべりすぎじゃないか、七面鳥」
今度は、飯塚が口を挟む。七宮は、チラリと尻目で飯塚を見たけど、すぐにスマホ怪人の方に向きなおす。
「このブ男……飯塚氏は、あなたが嫌いではなかった。ただ、あなたが人気者になっていくことに嫉妬して、三年連続で狙っていた生徒会長の座が、奪われてしまいそうだと、焦ったらしいですよ。それで、裏工作をして、あなたを嵌めたんです。そんな事情ですので、真相が知れ渡れば、当時、あなたをディスったクラスメートは、皆、手のひらを返すと思いますよ。あなたは、決して嫌われるタイプの人間じゃなかったんです」
「おいっ! 七面鳥っ! しゃべりすぎだろっ!? とっとと、そいつを仕留めろよっ!」
「ちょっと、生徒会長! あなたの代わりに、七宮が命がけで前に出てるのに、何よ、その言い草? だまって、見てなさいよ。ヘタレ野郎」
亜衣は、イラつく飯塚の肩を掴んだ。
「へ? ヘタレ野郎?」
「そやで。ちょっと、黙れってクソ野郎」
亜衣は、飯塚の耳元でそう呟き、飯塚の左肩を掴んだ右手に、力を込める。
「うぎゃああああぁぁぁぁぁあああ!」
三十二センチメートルある掌を有するフリッツ・フォン・エリックは、百二十キログラムを超えるという驚異的な握力で、数々のレスラーをマットに沈めた。彼の必殺技であるアイアンクローのように、飯塚の額を鷲掴みにしてやりたいところだけど、咲にも見られているし、亜衣は、肩を砕くことだけで我慢した。
「そう、この飯塚氏はしょうも無いヤツなんですから、こんなヤツのために、あなたが殺人犯になってしまうなんて、割が合わないと思いますよ」
七宮は、一歩、二歩と前に出て、スマホ怪人に近寄る。
「北野氏、あなたは、嵌められただけなんです。嫌われたわけでも、いじめられたわけでもないんです。全部、このクソ野郎、飯塚氏の嫉妬心がいけなかっただけなんです」
「ウガアアアアァァァ、ヤッパ、ユルセヘンネン! アノコロヲ、オモイダスワ、コノヤロウ!」
スマホ怪人は、急に俊敏に動き出し、七宮を避けて、飯塚に襲いかかった。
「ひ、ひ、ひやあぁぁぁあああああっ!」
飯塚は、振り向けられた包丁を寸でのところでかわし、全速力で逃げだす。
「ちょ、ちょっと、やめなさいって、北野氏。本気で殺そうとしないでください。悪いのは、クソ野郎の飯塚氏自身では無く、飯塚氏の嫉妬心だと言ってるでしょう?」
飯塚を追いかけるスマホ怪人を、七宮が追いかけた。
「もう、やめないなら、このお札で鎮めるしかありませんね」
七宮は、思ったより、足が速い。すぐにスマホ怪人に追いつく。
「覚悟っ!」
七宮は、背後から、スマホ怪人に飛びかかった。
「ギャアァ!」
もつれるように、二人は地面に倒れ、転がる。ゴロゴロと、三回ほど転がって、ピタリと動きが止まった。
七宮は、地面にうつ伏せに倒れ、スマホ怪人は仰向けに倒れている。
「ど、どうなったん!?」
恐る恐る、亜衣が二人の元に近寄った。
スマホ怪人の画面の中心に、七宮の左手が置かれている。その手には、お札があった。七宮は、スマホ怪人に、お札を押し付けていた。
一方の、七宮は……。
亜衣は、七宮を起こそうとして、地面が赤く色づいていることに気付く。
「きゃっ! 血!?」
逃げ回っていた飯塚も、ようやく亜衣の背後にまで近寄ってきた。
亜衣が、七宮を持ち上げようとすると、脇腹に突き刺さっていた包丁がポロリと抜けた。
「う、うわああああぁぁぁぁぁあああっ!」
ドボドボと流れ出る血を見た飯塚が、その場で腰を抜かした。
「し、七宮!? 七宮! しっかりして、七宮っ!」
亜衣は、七宮の頭を膝の上にのせ、必死で頬を叩く。
「ど、ど、ど、どうしよ、どうしよ、どうしたらいい?」
飯塚は、しどろもどろだった。
「い、息をしていない……。……し、死んでるわ……」
亜衣は、そう言って、覆いかぶさるように、七宮の頭を抱えこむ。
「し、七宮……。な、なんで? なんでなん? なんで、自分の命を犠牲にしてまで……」
亜衣は、幸せそうな顔で絶命している七宮を見ていると、涙が出てきた。
「ほ、ほ、本当に、死んだの? し、死んじゃってるの、それ?」
飯塚が動揺して声をかけてきたけど、亜衣は涙が止まらなくなり、それどころではない。
「し、七宮は、不登校の生徒のために……い、命を捧げたんや……。か、かわいそうに……」
亜衣は、思うところがあり、がばっと顔を上げて、飯塚を睨みつける。
「ねぇ、会長! そうよね!?」
「えっ? な、何? 何が?」
「七宮は、不登校の生徒を救う部活を承認してもらうために、会長の身代わりになったんだよね?」
「え? そ、そんなの、今は、どうでも……」
飯塚は、パニクっているらしく、目が泳いで、焦点が定まっていない。
「どうでもよくないっ! それやと、七宮が浮かばれへんやろっ!? 会長は、約束したんやろ!? 約束を守ってあげるんやろ?」
亜衣は、髪を振り乱しながら、飯塚に訴える。
「ま……まあ……」
「は? どっちやねん!? はっきり言いなさいよ!」
「ま、守るよ。七面鳥との約束……守るから、そんなことより、七宮を早く……」
亜衣は、飯塚を見つめたまま、コクリと頷いた。
「ハイ、カアァァァァァァアットォォォオッ!」
茂みの中から、聴こえてきた絶叫は、校舎に当たってこだました。
「カット?」
飯塚が、ポカンと口を開けた。