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コンフィデンシャル・ラン JK  作者: おふとあさひ
2/8

キタノの苦悩

 サテン生地の小さな座布団に、ガイコツの置物が鎮座している。

 そのガイコツの左目から入って、右目から顔を出している蛇が、ろうそくの火でゆらめく。蛇も作り物のはずなのに、動いているような錯覚に陥る。


 北野敦は、痺れてきた足を崩し、胡坐をかいた。

 薄暗い部屋には、ろうそくの灯りしかない。等間隔に並ぶろうそくの火が、観音像や菩薩像などを下から照らし、不気味な雰囲気を醸している。

 北野は、こんな部屋に、長居したくはなかった。ただ、救いなのは、部屋には北野以外に、二人の同級生がいたことだった。


「ねえ、キタアツ、聞いてた?」


 ろうそくの火を背にした、谷本ミクルの表情は暗い。

 肩までかかる黒髪が、顔に影を作っているせいでもあったが、それだけが理由ではなさそうだった。


「え? ……あ、ああ。ちゃんと、聞いてるで。今朝、不吉やと思ったんやろ? その、なんちゃら虹が出てたから、恐ろしいっちゅうことやろ?」


 北野は、ミクルの顔をじっと見つめながら答えた。

 以前よりは、だいぶ落ち着いている。


「なんちゃら虹じゃないよ。はぐれ虹やって、ゆうてるやん」


 ミクルは、元気モリモリとまではいかないまでも、何かが吹っ切れているように、北野には見えた。


 仏像が並ぶ先に、鬼のような形相の仁王像があり、そいつが北野を睨みつけていた。

(こ、こ、こ……こわっ)

 北野が思わず目を背けると、薄ら笑いを浮かべる妖怪のようなものと目が合う。


「うわっ! な、な、なんなん!?」


 河童のようでもあり、なにかの妖怪のようにも見える、血色の失せた顔の男子は、ケケケと笑った。


「な、な、なに、笑うてるん、吉水?」


 吉水は、スマートフォンを見ているのか、青白い光で下から照らされていた。

 声を殺して、笑い続けている。


「こ、こ、こんなとこで、不気味な表情、浮かべんとってや。あ、あ、あ、焦るやんけ」


 吉水は、両ひざを抱え込み、丸まっている。

 そのせいなのか、ただでさえ小柄なのに、小学生のように小さく見える。

 隣に座っているミクルが、スポーツ向きの恵まれた体格をしているせいもあるだろう。


「なぁ、キタアツ?」

 ミクルが髪をかき上げた。不満げな表情を浮かべている。

「あぁ、ミクルちゃん。わかったよ。はぐれ虹が出たから、怖いんやろ? 理解したって」

 北野は、少しイラっとした。

(オレから、始めた雑談やったのに……)


 こんな不気味な部屋で待つのが耐えきれなくたって、北野から始めた雑談だったが、すぐにミクルにイニシアチブを取られ、ずっと話を聴くハメになってしまっている。


――ミクルは、ソフトボールの選手だったけど、試合中にチームメイトの打球が直撃して、腰椎を痛めた。一時期、車いす生活を送っていたらしいが、リハビリの甲斐もあって、普通の生活が出来るようになったという。ただ、つい最近になって、「ソフトボールは、二度と出来ない」と医者から言われたらしい。そんな宣告を受けて、急にやる気が無くなって、学校にも行かなくなったとのこと。

 そんな話を聴いていた時は……その時はまだ、ミクルに同情できた。


「咲のピッチングはすごいねん。緩急自在で、普通の女子高生やったら、誰も打てへん、絶対。四番の亜衣も、あんな華奢な体形やのに、めっちゃ、かっとばすねん」


 ミクルは、語るうちに、語気に熱が帯びていく。


「そ、そうなんや……ぜんぜん知らんかったわ。すごいねんな、うちのソフトボール部は」

「せやねん。ワタシ含めて、半分は一年生がレギュラーやったのに、去年は地区大会で準決勝までいったんやから」

「そ、そりゃ、ほんまにスゲーな」

「せやで。せやから、今年は、もっと上を目指せるはずやったんよ。ワタシも一緒に……」


 いつの間にか、ミクルの頬に、涙の筋ができていた。

 本当に悔しかったんだろう。小学生の時から、毎日、ソフトボールに打ち込んでいたというのだから。その気持ちは、よくわかった。ただ――


 一通りミクルの話を聴いたので、次は、北野の方が、聴いてもらいたかった。

 北野も、心に傷を負っている。


 北野は、高校に入るまで、人に嫌われたことが無かった。

 というか、むしろ、ずっと人気者だった。

 いつも、クラスの中心にいて、それが、当たり前の自分のポジションだと思っていた。それなのに……。


 去年、京四条高校に入学して、二学期の途中までは、順調に友達が増えたし、クラスの中心的な存在になれたとも思えた。だから、北野は自ら発案して、放課後や休日にも交流ができる、チャットルームを開設したのである。


 チャットルームは、教科担任の不満をぶちまけたり、宿題を教え合ったり、学園祭のネタを話し合ったりする場として、みんなに利用された。

 そうして盛り上がっていた頃、頻繁にコメントを投稿していた北野に対し、なぜかネガティブな反応が出始めた。


『キタアツ、現れすぎ』

『いっちょかみ、ウザいな』

『なにそれ? マウントしてきてる?』


 嫌われる理由がわからず、返信すればするほど深みにハマり、やがて炎上する。


『お前はコメントしてくんな』

『顔も見たないわ』

『学校にくんじゃねえよ』

『もういい、死ね』


 北野は、そんなイジメを受けて、学校に行けなくなった自分の心の傷を、ミクルに聴いてもらいたかった。できれば、癒してもほしかった。

 ところが、ミクルは、話をやめない。

 家で飼っているペットの話や、最近の体調不良の話……。そして、今朝見た、虹のことまで話し始めた時、北野の集中力は切れた。


 北野は、ミクルにバレないように、小さくため息をつく。

(オレは、カウンセラーじゃねえし……)


「ねえ、キタアツ、聞いて。ねえ、キタアツ?」


 北野は、しばらく俯いていたが、ミクルの執拗な問いかけに、渋々顔を上げる。

「ねぇ、今の話、ちゃんと聞いてた? キタアツ?」


 ミクルの瞳が、輝いているように見えた。

 パッチリとした二重の向こうの黒目がちな瞳は、良く澄んでいて、一点の曇りもない。北野の苛々は、そんな瞳の中に吸い込まれてしまったようで、自然と消えてしまった。


 北野は、ミクルに見つめられて、気持ちが上擦る。

 ミクルには、恋心があるのだと、予感した。なんとなくだけど、間違いないように思えた。

 そう感じ取ると、聞かないわけにはいかなくなる。


「な、何? 聞いてるよ、ミクルちゃん」

 ミクルの表情が緩む。北野の胸は、ドキドキと高鳴った。


「今朝、虹を見つけちゃった時はさぁ。そりゃ、暗くなったんだけど……」.


 ギギギと、すべりの悪い木戸が揺れた。

 北野とミクルと吉水は、一斉に木戸の方を向く。


 鈍い音をたてながら、ゆっくりと木戸が開いた。開いた木戸の向こうに、スキンヘッドの和服姿の男が立っていた。


 五十歳くらいの中年で、日本人にしては珍しいくらいに、ホリが深い。

 太い眉がキリリと上がり、こちらを威圧するかのように睨んできた。


「そろってるかね?」


 手にしているランタンを掲げ、ゆっくりと左右に振る。北野らの顔ぶれを確かめているようだった。

 スキンヘッドの和服男は、あいつの代わりに来た、と言って部屋に入ってきた。

 大きな体を揺らしながら、壁際に立ててあったホワイトボードを、ランタンで照らす。


「な、なんですか?」


 ミクルが不安そうな声を出して、前に乗り出したので、北野も立ち上がって、目を凝らす。

 薄明りに照らされたホワイトボードの文字が、浮かび上がってきた。


『あと、一つ、ピースが足りない。役を増やす』


 殴り書きされたような文字。スキンヘッドは、その字は、あいつが書いたと言った。

 そして、持っているランタンを少し下げる。揺らめく灯りは、その下に書かれた文字を照らした。


『ターゲットは、七面鳥』


   ♰


 京四条高校ソフトボール部は、校内にあるメインの運動場グランドで練習していた。

 民家やビルが隣接するグランドは、防球ネットで囲まれているけど、レフト方向の一部だけは、取ってつけたように上に飛び出していて、異様に高い。

 聳え立つそのレフト側ネットの上に、二羽のカラスがとまっていた。


 亜衣は、捕球した。

 キャッチャーミットをはめていても、ビリリと手が痺れている。咲の肩は絶好調のようだ。


「ナイスー」


 大会までこの調子が続いてほしいと望みつつ、咲に返球する。

 夏至が近いせいで、夜の七時だというのに、まだまだ空は、明るかった。

 咲は、キャップを取って、アンダーシャツの袖で、汗を拭っていた。


「じゃあ、次、チェンジアップ、いくね」

「はいよー」


 咲の投球フォームは、ストレートの時と変わらない。ゆっくりと上体を沈ませて、前から円を描くように、掴んだボールを高く挙げた。

 そして、そこから急加速して、グルンと右腕が振り抜かれる。


「おおぉぉ」


 亜衣の背後から、うなるような男の太い声がした。


 咲が放った三号球は、ゆっくりと山なりの放物線を描いて、亜衣の元に届く。対戦校をして、魔球だと言わしめる完璧なチェンジアップだった。けれど、咲の表情は浮かない。


「あ、亜衣、ちょっといい? ちょっと、来て」

 咲に呼ばれた亜衣は、キャッチャーマスクを外して、何事かと、ピッチャーマウンドに歩み寄る。


「ちょっと、あそこ、あそこ見てよ……」

 咲は、グローブで口元を隠し、視線をバックネット裏に向けた。


「……今日もいるわ、あの男。気持ち悪いんやけど」

 亜衣は、咲の目線を追って振り返る。


 バックネット裏で、和服を着たスキンヘッドの男が笑っていた。ここ最近、ソフトボール部が練習する時に、ちょくちょく現れる。

 咲に不安そうな目を向けられた亜衣は、気丈に返す。


「あぁ、あの人? 心配せんでも、ええんとちゃう。ただの、ソフトボールオタクやと思うけど」

「そ、そうかな……。なんか、目つきも悪いし、ハゲやし、和服やし、怪しすぎるねんけど」

「考えすぎやって、咲」

「いやいや、ほらほら、見てみ! こっち見て、笑ったで! あ、なんや、こっちくるで」


 亜衣が見ると、スキンヘッドがバックネット裏から出てきた。

 そして、体の正面をこちらに向け、腰に手をあてて仁王立ちする。大きな口を開けて、思いっきり口角を上げたけど、目はギロリとしていて、笑っていない。


「た、た、確かに……」

「キ、キモ過ぎなんやけど……」

「ちょ、ちょっと、声を掛けて、どいてもらおっか? そうするわ」

「イヤイヤ、ええって、亜衣、そんなことせんでも」

「だって、練習に集中できへんやん、咲。せっかく、調子ええのに。どっかに、行ってもらおうや」


 亜衣が踵を返すと、スキンヘッドは、両手を広げて天を仰いだ。何のジェスチャーなのか、全く意味がわからない。

 亜衣は、そんな意味不明なことをするスキンヘッドに、だんだん腹が立ってきた。


「ちょ、ちょ、ちょっと! 亜衣、待ってって!」

 咲に腕を掴まれたけど、亜衣は、それを振り払って進む。


「カアァ、カアァー」

「な、な、な……」


 突然、防球ネットにとまっていた二羽のカラスが飛んできて、スキンヘッドの両腕にとまった。


 亜衣は、本気で、スキンヘッドを追い払うつもりだったのに、声を失ってしまう。

 呪術でも使ったのか、はたまた、マジックか。

 いずれにしても、予想だにしなかった展開は、亜衣の身体を硬直させ、完全に動きを封じられた。


 両腕にカラスをのせて固まっているスキンヘッドは、悪魔を模した奇怪な彫刻のようだった。

 そして、時間が止まっていないことを知らせるように、ゆっくりとアゴを引いて、反社会的な勢力を彷彿とさせる、鋭い目をこちらに向ける。


「ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバいって、亜衣!」


 咲に再び腕を掴まれ、後ろ向きに引っ張られている間も、亜衣は、スキンヘッドから目が離せなくなっていた。


 スキンヘッドは、頬が引きつり、痙攣したかのように、ヒクヒクと震える唇を開けるや、奇声を発して、両腕をぶんぶん振り回し、カラスを空に放つ。


「きゃっ!」


 羽根をバタつかせたカラスが、亜衣らの頭上スレスレで、飛んでいった。


「な、な、なんなんっ!?」


 亜衣の中で、怒りが爆発する。

 ただでさえ、練習の邪魔だったのに、カラスを使って攻撃までしてくるなんて、許せない。

 咲に腕をがっちりと掴まれてはいたけど、その咲を引きずって、スキンヘッドの方へと向かう。


「ホンマにええって。危険やって。絶対、ヤバいやつやって。関わらん方がええって」

「あかんっ。許せへん。なんで、練習の邪魔をしてくるんか、ひとこと言ってやらんと、気がすまへん」

「ホンマ、やめて! 亜衣!」


 後ろから抱きつかれるように、咲に止められて、亜衣は、回された腕を解こうと、もがく。


「亜衣っ! やめよ。今日は、終わろ。ピッチング練習は、また明日にしよ? な?」

 亜衣としては、スキンヘッドと話をつけるしかない状況だと考えているけど、咲がそうはさせない。咲の心配性の性格が、そうさせているのだろう。

 見ると、咲の唇は、少し震えていた。


「おーい、何を揉めてんだ? なんか、あったんか?」


 顧問の目黒が、つっかけを履いて現れた。こちらに向かって、歩いてくる。

「あ、目黒先生!」

 咲が、助けを求めるように、目黒に駆け寄っていった。


「め、目黒先生、き、聞いてください。知らないおじさんがいて、気持ち悪いんです」

「知らないおじさん?」

「そう、ハゲの反社みたいな、和服の、濃い顔をした、あの人……」

 咲が、バックネットの方を向いて、ポカンと口を開けた。


「なんだよ、それ? どこにいるんだ?」

 咲の向いた方向に、怪しげなスキンヘッドの和服男の姿は無かった。


「あ、あれ? ついさっきまで、そこにおったのに……」

 咲は、そんなはずは無い、と、辺りを見回す。


「本当か? どこにもいなさそうだけどな」

「なあ、亜衣。そこにおったよな? 気色悪かったよな?」

「ま、まあ、確かにね……。どこいったんやろね」


 目黒は、訝しげに、二人を見ていたが、何かを思い出したように、表情を明るくした。


「そうだ。香川、昨日のクラス委員会には、ちゃんと出席したか?」

「は、はい……まぁ……」


 亜衣は、会議に遅刻したことを思い出し、少し後ろめたい。

「……ちゃんとかって言われると、ちゃんとやないけど……」

「ちゃんとじゃないって、どういうことだ? プリントはもらったか? 不登校の生徒を支援してほしいっていう」

「あ、ああ。そ、それなら、もらいました」

「そうか、良かった。あれは、オレから、生徒会長の飯塚にお願いしたんだ。ちゃんと読んだか? フォロー、頼むぞ」

「あ、ああ。はい。北野君のことですよね? うちのクラスの」

 目黒の表情が、少し曇った。


「自分の組の子だけじゃなくて、元チームメイトも、フォローしてやってくれよ」

 目黒は眉尻を下げ、苦笑する。

「え? それって、ミクルのこと? ミクルは、A組のクラス委員の子がフォローするんじゃ……」

「寂しいこと言うなよ。一緒に半年以上も、プレーしてきたのに」


 亜衣は、咲と顔を見合わせる。

「頼んだぞ、香川。それと、新町も、香川を手伝ってやってくれ」


「えっ!? う、うちもっ!?」

「助け合うのは、当たり前だろ? バッテリーなんだから」

 目黒は、そう言うと、バットスタンドから、金属バットを引き抜いた。

 声を上げて、野手を呼び集めている。


 咲が、目黒を見つめたまま、呆然と立ち尽くしていた。

「な、なんで、目黒先生、不登校の子のフォローを、うちらにまでさせようとするんやろ?」

「そ、それな……。そういえば、目黒先生、昔、生徒を殺してしまったってゆうてたわ」

 咲は初耳だったようで、亜衣の方を向いて、目をパチクリした。


「なに、それ? 殺したって……どういうこと?」

 亜衣は、コホンと一つ咳払いしてから、口を開く。


「何年か前、目黒先生が担任をしていたクラスの生徒が、マンションから飛び降り自殺したんやって」


「え? う、嘘?」


「ほんまらしいよ。その子、クラスでいじめられて、自殺する何日か前から、学校を休んでたんやって。でも、当時の目黒先生は、まだ新米で、忙しくて、家庭訪問もできへんかったらしい。今でも、すごく後悔してるってゆうてた」


 咲は、目を泳がせながら、再び、目黒の方を向いた。


「せやから、もう二度と、同じ過ちを繰り返したくないんとちゃうかな。目黒先生も、学校に来てない生徒の家庭訪問を頻繁にしてるって噂やし、わたしらに頼んでるのも、やれることは、全てやり尽くそうとしてるんやないかな」


「そ、そうやったんや……」

「うん、もう、後悔したくは、無いんやろね」


「でも、北野と、ミクル、二人もフォローしなきゃいけなくなって亜衣もたいへんやね……」

 咲は、亜衣に同情しているようだった。

「……でも、うちも手伝うことになったから、やるしかないね」

「うん、ありがとう。ごめんね、咲。咲まで、巻き込んでしもて……」


 亜衣は、何からしたらいいのか、頭の中を整理できていない。咲に何をしてもらうべきか、何も思いつかなかった。


「でも、まずは、わたし一人でやってみるよ。助けてほしいときには、言うから」

「あ、あら、そうなん? 大丈夫? ほんまに、一人でいける?」


 言葉とは裏腹に、咲は、少しほっとしているように見えた。



 部活が終って、咲と別れた亜衣は、校舎裏の自転車置き場にいた。

 腕時計を見る。もうすぐ、八時になろうとしていた。


「あ、あれ? 香川さん?」


 大きなリュックを背負った七宮は、目玉が飛び出そうなくらい、ギョロ目になっていた。亜衣は噴き出しそうになりながらも、耐える。


「よう、委員長。待ってたよ……クク」

「こ、こんな遅くに、こんなところで何しているのですか? ひょ、ひょっとして……」


 七宮は、大げさに首を振って、辺りを見回す。


「香川さん、自転車を盗もうとしてるのですか!? だ、だめですよ! 捕まりますよ!」

「ちょ、ちょっと、何ゆうてるん!? そんなわけないやろっ!」


 ここが新喜劇の舞台なら、ずっこけているところである。天然なのか、ふざけているのか、七宮は、たまに思考回路がヘンだ。


「だって、こんな時間に、こんな暗がりの自転車置き場に、バス通学の香川さんが……」

「待てって! だ・か・らっ! オマエを待ってたって、ゆうたやん、最初に! ちゃんと、きいとけ、ホンマ」

「えっ? ボ、ボクのことを?」

「そう」

「な、なんで!?」


 亜衣は、栗色のママチャリの鍵を開ける。

「ま、それは、帰り道で言うわ。さ、帰ろ」


 スタンドを蹴り上げ、亜衣は自転車を引き出した。空は、すっかり、暗くなっていた。

 七宮に続いて、亜衣も自転車を漕いで、校門を出た。



 亜衣は、七宮と並んで、府道三八号線を北上した。

「そもそも、香川さんはバス通学でしたよね?」

 意外にも、七宮の自転車は、レース仕様のようで、かっこいい

 炎のようなデザインの入ったヘルメットも、結構似合っている。

「七宮と話したいから、今日だけ、自転車で来たのよ。昼間は、オマエが、他人を寄せ付けないような態度とるから……」


「え? そ、そんなことで?」

「話したくても、できひんやんか。しかたなく、こうしたんやで。大変なんよ、わたしも。わたしの気遣い、わかる?」

「そ、そんなんですね。すみません。で、話ってなんですか?」

「あ。そ、そうね、それなんだけどね……」


 信号が赤に変わり、ブレーキをかける。

 亜衣の自転車だけ、キキーと甲高い音が鳴った。


「昨日のクラス委員長会議で配られたプリント、読んだ? うちのクラスにも、北野君、おるやろ? キタアツ。キタアツのケアをせな、あかんやん? その話」


「ああ、その話だったんですね。そっかそっか。香川さんも、何か動こうとしてくれていたんですね」


「そりゃ、そうよ。副クラス委員長だからね。これでも一応。七宮も、何か、考えてくれてたん?」


「そ、そうですね。北野氏、高一の時にいじめられてたみたいですから……」


 亜衣は、(オマエも、いじめられているようなもんやん)と思いながらも、口には出さなかった。

 信号が青になり、再び漕ぎ出す


「七宮は、一人で、どうするつもりやったん?」

「昨日、メンタルケアの本を買って、今、読んでいるところです。読み終わったら、北野氏に連絡を取ろうかと思っていました」

「ま、マジ!? そ、壮大な計画やない、それ。スゲーな」

 クラスメートの心のケアをするために、まずは、自分がそのための知識を得ようとするとは。

「ま、まあ……。そうですかね?」

「さすが、真面目な七宮だけはある」


 七宮の真面目さには、尊敬の念すら湧く。部活動こそしていないものの、放課後は、図書室が閉まるまで、そこで毎日、勉強していることを、亜衣は最近知った。


「で、どこまで読んだん?」


 亜衣は、期待で胸が膨らんでいた。メンタルケアに興味が湧いていたなら、話が早いかもしれない。


「まだ、最初の三ページくらいです」

「え? 何ページくらいあるん、その本」

「これくらいです」

 七宮は、人差し指と親指でコの字を作った。

 ちょっとした辞書くらいはある。


「いつ読み終わんねん、それ!? 読み終わるころには、わたしらの学年、みんな、高校卒業しとるやろっ!」


 左前方の空が明るい。

 二条城をライトアップしている光が、空に反射している。


「じ、じゃあ、香川さんは、どう考えているんですか? 北野氏の心の病を、どうやって救おうと考えているんですか?」


「そ、そりゃあ、正面突破よ。学校に出てきたら楽しいよって言うの」

「そ、そんなの無理ですよ。楽しく無いから、学校に来てないわけですから」

「なら、楽しいことを、作ってあげればええやん」

「そ、そんな……。行き当たりばったりというか、短絡的というか……」


 堀川通と呼ばれる府道三八号線は、二条城の辺りから、鞍馬街道という名前に変わる。


「香川さん。香川さんは、徳川家康が好きですか?」

「な、なによ、いきなり!?」

「ボクは好きです。知略を巡らせて、天下人になった人ですから。ボクも、ああなりたい」

 見ると、七宮は真剣な眼差しで、前を見ていた。マッシュルームヘアが、ヘルメットに隠れているせいか、顔は凛々しくて、いつもと雰囲気が違う。かっこいいと言えなくもない。

「ほら、左。見てください。家康公が築城した二条城ですよ」


 七宮が親指で指した方には、お堀が広がり、その向こうに、ライトアップされた二条城の石垣があった。


「そんなん、知ってるし」

「何か気付きませんか? この道、走ってて」


 亜衣は、七宮と並んで、石垣と平行に整備された道を進んでいる……。


(平行?)


「気付きましたか? この道、鞍馬街道と二条城は、平行じゃないんです。三度傾いています」

 確かに、北に進むにつれ、歩道だけ、道幅が狭くなっている。


「なぜか、わかりますか?」

「えぇ? わ、わかんないけど……」

「京都の町は、平安時代に、碁盤の目状に整備されたんですけど、きっちりと縦横の通りを作るために、北極星を使ったんです」

「ふーん……。あ、そう……」


「でも、北極星は、実際の北から三度ずれていた。西洋から方位磁針を手に入れた徳川家康は、本当の北を基準に、二条城を建てたんです。だから、通りと二条城は三度ずれた」


「そ、そうなんだ……。で、でも、それがどうしたん? 何が言いたいん?」


 七宮がスピードを落とし、やがて止まった。亜衣も、七宮に合わせて、ブレーキをかける。


「家康公は、三度傾いていることが許せなかったんです。知略に優れて天下人になった家康公は、正しい基準を重んじていたんです」


(は?)

 亜衣は、呆気にとられた。

(こ、こいつ、何をゆうてんの?)


「な、何? どうゆう意味?」


「正しい基準に従うべきだという、ボクの考え方です」

「七宮が、規則とか、ルールをよく守る……まじめな男子だっていうのは、そんなん、知ってるけど……」


(四角四面で、しちめんどくさい男やから、七面鳥なんてあだ名がついて、みんなから煙たがられてるんやない。オマエ、わかってんのか?)


「……そ、それとキタアツの件と、何か、関係あるん?」

「何事にも、基準というものが、あるんじゃないかと、思っていまして」


「き、基準?」

「はい。基準というか、正しい方法……作法なのかもしれないですけど。今回の場合、メンタルケアにも、正攻法があるんじゃないかと、思っていまして」


 七宮は、大きく息を吸い込んだ。そして、続ける。


「北野氏の件も、行き当たりばったりで対処するんじゃなくて、ちゃんと、専門家が生み出した対処法を学んで、それに従うべきだと、ボクは思います」


 七宮は、どや顔になり、一息ついて、再び口を開く。


「そう……、それを香川さんに、伝えたかったんです」

 亜衣は、七宮の顔立ち自体は嫌いじゃないけど、どや顔を見ると頭に血が上った。


「でも、時間かかるで」


「た、多少遠回りしても、結果的に……。急がば回れってことわざもありますし……」

「時間ばっか過ぎるで。そのうちにも、キタアツ苦しんでるんやで」


「な、なんとか早く……。読書のペース、上げようとは思ってるのですが……」

「間に合わへんよ」

「ま、間にあいませんかね? じゃ、じゃあ、もう少し薄い本を買い直した方がいいですかね?」

「そんな問題やない。キタアツのこと、本当に、心配してる? 考えてあげてる?」

「か、か、か、考えてますよ。ですからボクは……」


「いや、考えてへんやんっ!」


 亜衣は、思わず声を荒らげた。


 亜衣の声は、ライトアップされた二条城の光と共に、夜空に吸い込まれていった。

 亜衣は、鼻息を荒げつつ、自転車から降りて、スタンドを立てる。


「わ、わたしはね……」

 亜衣の視線は、七宮を捉えて離さない。


「……わたしは、キタアツに連絡したよ、昨日……」


 七宮は、競技用を兼ねた自転車にまたがったまま、見返してきた。


「わたしは、なんも、躊躇せえへんかった。キタアツに、学校に来て欲しいから、電話した」


 亜衣は伏し目がちになり、やがて、視線は、歩道の上を彷徨った。


「二時間近く、キタアツの話を聞いたよ。なんで、いじめられることになったのか、わかれへんって……。最後は、泣いとったよ」


「えっ?」


「どうしたら、いいと思う?」

「え、え、え? ど、どうしたらって……どうしたらいいんでしょう……。まだ、ハウツー本、読了してませんし……」


 亜衣は七宮に歩み寄り、レース仕様のハンドルを掴む。そして、七宮の鼻先に、ぐいっと顔を近づけた。


「わたしに考えがあんねんけど。ねえ、七宮、協力してくれへん?」


「え? な、なんでしょうか?」

「生徒会長の……。飯塚にやってほしいことが、あんねんけど」



 その日は、帰宅時間が遅くなったこともあって、ベッドの中に入った時には、深夜二時を過ぎていた。


 枕元の読書灯を消す。


 寝付けなくて、ずっと本を読んでいたけど、ちっとも頭に入ってこない。

 不登校になった北野やミクルが、学校に来たくなるような環境を整えるシナリオのことで、頭がいっぱいだった。


(どうしたもんかな……。北野とミクルだけじゃなくて、もう一人いるしな……)


 亜衣は、高校二年に上がる少し前、三月にあった終業式の日のことを思い出す。



――亜衣は、草むらの上にブレザーを脱ぎ捨てた。


 鴨川のほとりに並んだ桜は満開で、風に乗った花びらが、河川敷の香川亜衣の元まで届いた。髪についた花びらをつまみ、地面に捨てる。


「ねえ、吉水? もう、撮り始めてるん?」


 吉水が、テレビ中継で使っているような大きなカメラを担いでいた。吉水は、同い年なのに、とても小柄で、顔も小さい。制服姿の亜衣に対して、上下スウェットでいるので、周りからは、亜衣の弟のように見えているのかもしれない。


「はい。撮ってますよ」

 亜衣は、それを聞いて、両手のそでのボタンを外し、腕まくりをする。置いてあった金属バットを拾い上げ、対岸に投手でもいるかのように、構えた。


 九回サヨナラの場面で、ホームランを打つのをイメージして、フルスイングする。


 吉水を見ると、カメラを構えたまま動かない。

 まだ、撮影は続いているようだった。


 吉水は、亜衣と同じ京四条高校に通っていたけど、もう、半年近く学校に来ていない。

 課題を提出して、留年は免れたみたいだけど、このままでは、とてもじゃないけど、卒業できそうにはなかった。


 亜衣は、これまでも、ずっと、登校するように、吉水を説得していた。でも、説得だけで、吉水の気持ちが変わるとは思えなくなっていた。


 亜衣が乱れた髪を、耳に掛け、もう一度フルスイングすると、ビュウっと、風を切る音がした。


「あ、亜衣さん……」

「ん? なに?」


 吉水は、カメラを覗くのをやめ、首を傾げて、こちらを見てきた。


「かなり、アッパースイングっすよ……。以前は、もっと、こう、なんというか、鋭く刀を振り抜くみたいな感じだったと思うんすけど」

「あ、やっぱり……わかる?」

「そりゃあ、わかるっすよ。俺は、ずっと、亜衣さんを追い続けてきたんだから……小学校の時から、ずっとっすよ……」


 亜衣が小学四年生の時に、入団した少年少女ベースボール倶楽部のエースが、吉水だった。


 チームで一番小柄だったけど、球は一番速かった。でも、吉水は、中学になって野球をやめた。


「亜衣さんの才能が凄すぎて、プロ野球選手になる夢を諦めちゃったけど、その分、亜衣さんに伝説を作って欲しくて、ずっと、追いかけてきたんすからね」


 吉水は、不登校になってからも、ソフトボール部の公式戦だけでなく、練習試合にまで足を運んでくれた。試合後には、いつも撮影した動画を、プレゼントしてくれる。


「意識して、アッパースイングにしてんのよね……」

「あ、やっぱり、あの秋の地区予選の事故のこと、まだ、気にしてんすか?」

「う、うん……。まあね……」


 地区予選の準決勝、一点を追っていた最終回の攻撃で、亜衣に打順が回ってきた。忘れもしない、ツーアウト三塁でフルカウントになった、次のこと。

 亜衣の二打席連続ホームランを狙った打球は、角度がなく、ライナーとなって、まっすぐに三塁線上をなぞった。

 ミサイルのような打球は、三塁に到達する直前で地面に跳ね、イレギュラーした球が、三塁走者のミクルを直撃した。

 ミクルは、避けようとして飛び上がっていたけど、打球の威力がありすぎて、体勢を崩し、腰から地面に落ちた。


 守備妨害でゲームセットになったことよりも、担架の上で、激痛に顔をしかめるミクルの姿が、未だに鮮明に瞼に焼き付いている。


「たとえホームランにならへんでも、フライなら、誰も傷つかへんから」

「その優しさは、亜衣さんらしいっすね……。でも、やっぱり、修正しないと、今後にも影響しますよ。亜衣さんは、ギフテッドの怪物なんすから」


「ギフテッド?」


「神様から与えられたっていう意味です。生まれながらの天才をそう呼ぶらしいっす。亜衣さんの身体能力は、正に、ギフテッドっす。それなら、その才能を十二分に活かさないと、神様に申し訳ないですよ。ミクルさんだって、それを望んでいるはずですし」


「そうやね……。考えとくわ」


 ミクルは、しばらくの間、車いすで学校に来ていた。

 異常な回復スピードだと、主治医に言われたことを自慢げに話し、亜衣に対しても、曇りの無い、人懐っこい笑顔を向けた。


 いつまでも気にしてはいけない、ミクルは全然、恨んでないと、むしろ亜衣の方が励まされた。ソフトボール部を全国大会に連れていってほしい、それには主砲である亜衣の活躍が絶対に必要なんだと、ミクルは、熱く語っていた。


 そう言ってもらえてはいたけど、亜衣の中では、あの事故が、トラウマになってしまっている。

 撮影を終えると、亜衣は吉水と堤防に並んで、座った。


「亜衣さん、今日撮った動画、これまで撮りためてきた亜衣さんのホームランシーンと合わせて加工して、ネットに上げてもいいっすか? バズりそうな動画ができる気がするんすよね」

「ネットに? 別にええけど……」

「あざーす。自分は、最近、動画編集にはまってるんす。ネットに上げて、反応とかあると、結構ヤバいんすよね」


「ヤバい?」


「やみつきになるんす。もっと、驚かせてやろうとか、もっと感動させてやろうとか、自分の中で、要求レベルが、どんどんエスカレートしていくんす。陶芸家が、納得いかない焼き物を叩き割ったりするでしょ? あんな感じになってますね、今」


「ええことやない? 趣味を極めようとするのは、いいことやと思うよ」

「そうっすよね? だから、もう、高校はやめてもいいかなあって……」

「それは、あかん。ぜったい。それは、許さへんで」

「そ、そう言われても、行っても、楽しないし……」


 吉水は、項垂れた。高校に行っていた頃のことを、思い出しているのかもしれない。


 吉水は高一の時、つり上がった目と、小顔には不釣り合いな、大きく裂けたような口が、妖怪のようだと、からかわれた。そんなことを言われたとしても、いなしたりして、上手く対処すればよかったのだけど、子供のようにむきになって否定してしまった。

 その様子を面白がられて、またからかわれるという、悪循環に陥った。


「なあ、吉水、話題、変えてもいい?」


 亜衣は、吉水が高校に通いたくなるような秘策を練っていた。その布石として、伝えておかないといけないことがある。


 吉水に唐突に話し出したのは、何年か前に起きた、ある事件のことだった。のちに『鴨川の笛吹き男』と呼ばれるようになった犯人が起こした、奇妙奇天烈な事件。


「鴨川流域の街って、この辺りのことっすか?」

 亜衣は、隣で足を伸ばしている吉水から、質問を受けた。


「せやねん。この辺り。今から九年前に、この辺りの小学校で起きた事件やねん」

「うん、了解っす。それで?」


「この辺りの小学校では、当時、いじめが問題になってたんやって。それで、いじめられた子らが、引きこもりになって、学校に行かへんくなってん」


 亜衣は、当時の自分を思い返す。九年前、小学二年……父が、この世からいなくなった年だった。


「でさ、そうした子らとネットで繋がって、言葉巧みに連れ出した男がいたんやって」

「その男が、さっき言ってた『鴨川の笛吹き男』ってこと? その人、笛を吹いてたんすか?」


「ううん、笛は吹いてへん。何人も子供を連れ出したハーメルンの笛吹き男っていう童話になぞらえただけみたいやわ。当時のマスコミが」


「そ、そうなんすね……」

「うん。その男は、連れ出した子らを、秘密の部屋に招き入れ、呪術を使って、子らを怪人に変えて、世に解き放ったらしいで」


「か、怪人!?」

 吉水が、ビクリと首を伸ばす。


「せやねん、怪人。牛乳臭いっていじめられた子は、牛乳瓶の形になり、サッカーが下手でいじめられた子は、サッカーボールの形の怪人になったんやって。そして、いじめっ子らに襲いかかった……」


「な、なんか……スゴイ話っすね……」


「いじめられっ子の復讐やね。『鴨川の笛吹き男』は、復讐の手助けをしたとも言われてる。弱い者の味方やったのかもしれへん」


「そ、それで、どうなったんすか? その後は?」


魂導士こんどうしが現れて、呪いを解くおふだを使って、次々と怪人を退治したらしいよ。退治と言っても、呪術で招へいした悪霊を退散させただけやから、子どもらは、元の姿に戻ったっていうこと。だから、ある意味、ハッピーエンドかな」


「コンドウシ? それって、戦隊ヒーローみたいな? それとも、陰陽師みたいな人っすか?」


「どちらかと言えば、後者ね。ただ、修行とかしてなれるわけやなく、生まれながらにして、その天性を持つ人に、受け継がれていくんやって」


 亜衣の頭に、お札を手にして笑っている父の顔が、浮かんだ。


「わ、わたしのパパが、魂導士やってん」


 吉水は、膝を折って抱え込んだ。鼻先まで膝に埋めて、川面の一点を見つめている。何かを考えているようだった。

 亜衣は小石を拾って、ひょんと、鴨川に投げる。その石が水音を鳴らした時、吉水は顔を上げた。


「それで、その犯人、『鴨川の笛吹き男』はどうなったんすか? 逮捕されたんすか?」


「いや、捕まってへん……いまだ。せやから、その男が、また現れる可能性はあるわけやね」


 吉水は、身体が震えていた。花冷えのせいもあるかもしれないけど、きっと、自ら想像を膨らませて、怖くなったのだろう。

 亜衣は、自然と頬が緩む。妙に嬉しくなった。

 日が沈みかけている。


「よし、じゃ、今日のところは、帰るわ」


 亜衣は立ち上がり、お尻をはらった。

 こうやって、外に連れ出してあげるだけでも、吉水のためにはなっているはず。そう思ってたけど、思いがけず光明が差した。鴨川の笛吹き男に恐怖を覚えたのなら、好都合かもしれない。


(これを機に、吉水が高校に通いたくなるような環境を作ってやる)


 そう心に誓いつつ見下ろすと、吉水の細くてつりあがった目と合う。


「吉水、動画を撮る趣味は、続けた方がええよ。なんか、顔色ええし。そのうち、高校にも来られるようになる……いや、わたしがこさしたるしな」


「……へへへ……。め、面倒をかけちゃって、申し訳ないっすね……」


 吉水は、首をすぼめ、卑屈そうに笑った。そんな吉水を見て、亜衣は、(浅ましい……妖怪みたい)と、思ってしまう。

 そんな見た目が原因で、クラスメートに嫌われたのだから、亜衣としては、絶対にそう思って見てはいけないと、常に自分を諫めていた。けれど、最後の最後で気を抜いてしまった。ただ、声に出さなかったことは、成長した証なのだろう。


 その帰り道、堤防沿いを歩きながら、在りし日の父のことを思い出した。

 お寺の次男坊として生まれた父。父の兄が家督を継いで、寺の住職になったけど、サラリーマンだった父も、週末の度に、寺に通っていた。


 その寺では、毎週末、社会的弱者のために、相談事を聞いたり、炊き出しをしたりする奉仕活動をしていたので、そのお手伝いのためである。

 亜衣は、拾った枝で、高く茂った草をはたきながら、なぜ父が、あんなにも他人のために心血を注いだのか考えていた。母に不評を買ってまで――



 亜衣は、父が大好きだったけど、今も謎は残っている。

 亜衣もいつの間にか、弱い者たちを助ける活動をするようになっている。そうすれば、父の思いが、理解できて、少しは近づけるんじゃないかと思っていた。

 そんな活動を始めた小学生の頃は、力ずくだったけど、今は違う。

 なるべく、心に寄り添おうと、努力している。


 亜衣は、寝返りをうった。


(どいつもこいつも、精神的に弱いヤツばっかやん……。ほっとけへんのやけど……)


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