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コンフィデンシャル・ラン JK  作者: おふとあさひ
1/8

平凡ではない日常のはじまり

プロローグ



 円弧からちぎられて、切れ端だけが取り残されたような、短冊状の虹が、雲の切れ間に出現した。この村の猟師は、その虹を見つけると、いつも、獣を追うのを止めて、急いで山から下りた。一番先にふもとの村に戻った者は、火の見やぐらに登って、独特のリズムで警鐘を打ち鳴らす。

 それが、先祖代々受け継がれてきた風習であり、そのおかげで、この村は存続することができていた。

 周囲の村々が、どんどん廃村と化していくのに……。


 警鐘を打ち鳴らす意味は、山中に散らばる仲間の猟師に、虹の存在を知らせるということだけではなく、村民にも警戒を促すということにあった。

 地元の猟師の間で〝はぐれ虹〟と呼ばれるこの虹の下には、魔界に繋がる穴が開くという。

 その穴から這い出てくる、巨大ななまこのような生物は、鋭い爪のある四本の足で歩き、左右バラバラに動く白い目を持っていた。


 人々は、それをあやかしと呼び、恐れおののいていた。


 妖には体の半分ぐらいが裂ける大きな口があり、中に、三重に並んだ鋭い牙と、二枚の長い舌を隠しているというのだが、真偽はわからない。


 なぜなら、それを見たものは、皆、妖に喰われてしまったから。


 鐘の音が聴こえると、どの家も、木戸をしっかりと締め、妖が去るまで、数日間、決してそれを開けることはなかった――


 香川亜衣は、ベストセラーの本を閉じた。

 商業ビルのワンフロアが、まるまる本屋だなんて、小学四年生の亜衣にとっては、天国すぎる空間だった。

 わざわざ自転車を漕いで、隣町まで来た甲斐があったと、亜衣は、ニヤけながら、本を棚に戻す。


 ひととおり、気になるライトノベルは見た。買って帰って、家でゆっくり読みたいところだけど、母子家庭である亜衣のおこづかいでは、全部は買えない。

 本当に気に入った作品に出会えるまで、我慢することにしていた。


(……と、それよりも……)


 亜衣は、肩から落ちそうになっていたトートバッグを担ぎ直して、今日来た目的のコーナーへと進む。


「あったあった、今月号」


 お気に入りの格闘技雑誌を手に取った。


「へえ、キミ、雑誌は立ち読みしないで、買って帰るんだ」


 声の方を向くと、同い年くらいの男子が、口を尖らせて、手元をのぞき込んできていた。

(な、なんや? ……コイツ?)

 亜衣は、男子を無視して、店の奥へと進む。


「ねぇ、ねぇ、ずっと見てたんだけど、キミ、本好きだよね。オレも好きなんだ。ウマが合いそうだと思ってさ」


 チラリと尻目で見ると、男子は、綺麗に並んだ白い歯を見せ、人懐っこく笑っている。髪の毛が少し茶色がかっていて、ややしもっぷくれではあるけど、中性的で、よく整った目鼻立ちをしていた。


「そ……」

 イケメンに目が無い亜衣は、一瞬、魔が差し、相槌を打ちかける。でも、見知らぬ亜衣に、軽々しく声を掛けてくるような性格は、到底受け入れがたく、やっぱり、気を許してはいけないと、すぐに思い直した。


「そんなに、気安く話しかけてこんといてや……」

「え? 何? なんか言った?」

 亜衣は、店の行き止まり、スポーツの教本が並ぶ棚の前で止まる。

「せやから、なんやねん、オマエ?」


 亜衣が振り返ると、男子は、キョトンとした表情で、固まった。視線は、亜衣が手にしている雑誌に釘付けになっている。


「な、なに、それ? プロレス雑誌? そ、そんなのが趣味なの? フフフ」

 男子は、口をすぼめ、女の子のように笑った。

「そんなん、どうでもええやろっ!?」

 亜衣は、咄嗟に、雑誌を後ろに隠した。

 乙女心をわかっていない男子の言動にも腹が立つけど、見られてしまったことが恥ずかしすぎて、顔が火照ってくる。


「そ、そっか……。で、でも、俄然、キミに興味が湧いてきたよ」

「はぁ? なんて?」

「もっと、キミのことが知りたいなぁ。こういうのも、好きなんだろ?」


 男子は、先ほど亜衣が立ち読みしていた、ベストセラーのライトノベルを手にしていた。

 そして、亜衣の肩に掛けたトートバッグに、その本を押し込んでくる。

「はい、これは、お近づきのしるしに」


「はっ!? な、な、何すんねんっ!?」


 意味がわからず、亜衣は、トートバッグから本を取り出し、男子のみぞおち辺りに押し付ける。


「え、持って帰ればよかったのに。もっと、読みたかったんだろ?」

「アホ、そんなんしたら、万引きやんか。何さそうとしてんねん!」

「まじめだなぁ。ここは、レジから死角になってるから、持って帰っても、バレなかったのに」

「はぁ? なんやねん、オマエ。ヤベえやつやな。消えろや、もう」

「言葉が汚いなぁ、方言もきついし……。でも、そんなとこも好きかも。なあ、今度、ボクとデートしようよ」


 亜衣は、体中に虫唾が走り、発作的に、真上に飛びあがった。

 そして右足を頭の上まで、思いっきり振り上げる。


 ガツッ!


「うっ……」


 男子は、平置きの本に覆いかぶさるように頽れた。息はしているようだけど、口の端に、少し泡をふいている。


 亜衣は、トントンと左足だけで弾む。右足のかかとがジンジンしていた。

 在りし日のアンディ・フグをイメージして練習していた、かかと落としが男子の脳天に決まっていた。


(そ、爽快っ!)


 亜衣は、ケンカでは負けなしの荒くれ者で、地元の小学校では有名な存在だった。


 同学年はおろか、上級生の男子にも容赦はしない。だから、地元では近寄ってくる男子はいなかったのだけど、隣町の男子にまで、亜衣の噂は伝わっていなかったらしい。


 亜衣は、気絶している男子の腕を持って引き摺り、ひと気の無い本棚に寄せて、まっすぐに寝かせた。証拠隠滅までは出来ないけど、せめて、発見は遅らせたい。


(運がわるかったと思って、かんにんしてや……)


 亜衣は、何事も無かったかのように、スポーツの教本が並ぶ棚を眺め、格闘技系の入門書を探した。


「ありゃあ、こりゃひどい。気絶しているじゃないか」

 すぐ近距離から聴こえてきた声に、はっと息を飲んだ。

 周囲に人はいないと、勝手に思い込んでいて、油断していた。


 見ると、隠したはずの男子の横に、赤いエプロンを着た白髪交じりのおじさんが屈んでいる。

 店員と思しきおじさんが、男子を仰向けに転がす。

 亜衣は、そのおじさんと目が合ったけど、何も言葉が、出てこなかった。


「気にしなくていいよ。キミが悪いんじゃない。ずっと、やり取りを見ていたからさ。いきさつは、わかっているよ」


 おじさんは、気を失っている男子の顔を、二度、三度と、軽くはたく。

 起こそうとしているみたいだった。


「この子、この辺りじゃ、悪ガキで有名だから、おじさんは、本棚に隠れて監視していたんだよ。万引きとかしやしないかってね」


 男子の頬がピクリと動き、「う……うぅ……」とうめき声を上げる。それを確認して、もう大丈夫だと言わんばかりに、おじさんはすくっと立ちあがった。


「それより、キミ、運動神経というか、瞬発力っていうか、すごいね。細いのに、パワーもあるし。これどう? 興味ないかな?」


 おじさんは、驚いたように眉を上げて、柱に貼ってある張り紙を指さす。

 つられるようにして、亜衣は、その張り紙を見上げた。


『少年少女ベースボール倶楽部 小学生メンバー募集中!』


「おじさんがコーチをやっているんだ。興味があるなら、週末、河川敷のグランドにおいでよ。キミみたいな子、探していたんだよ。女子も何人かいるし。歓迎するから、考えておいて」


 おじさんは、再度、亜衣の身体能力を褒めたあと、亜衣の前を通って、レジに向かう。去り際に見た、エプロンのバッジには、店長と書かれていた。

 亜衣は、もう一度、張り紙を眺める。


 格闘家を募集する張り紙の方がもっと興奮しただろうけど、それでも、持て余してしまうほど、亜衣の中で血沸き肉躍る活力のはけ口としては、十分に興味が引かれた。

 亜衣は、本棚から野球の教本を探して、手に取った。




「き、金属バット、買ってやて!?」


 キッチンで料理をしていた亜衣の母は、いつもより甲高い声を出した。

「そう、金属バット」

「ちょ、ちょっと、亜衣ちゃん、何? そんなん買って、なにしようとしてはるの? や、やめてや、家庭内暴力とか……」

「そんなん、するわけないやん」


 亜衣はため息をつく。これまでも、母の偏った妄想癖に飽きれることは、しばしばあったけど……。


「せやかて、こないだの体力測定でも、小四女子が、中一男子並みの記録を叩き出してたやんか……握力とか、背筋力とか……」

「せやから、それを活かそうと思って」

「え? ひょっとして、殴り込みか、なんかか? 他の小学校に出向いて、いけすかん輩をしばきたおしにでも、行くつもりなんか?」


「アホなこと言わんとって。そんなわけ、あるわけないやん。もっと、純粋に考えられへんのかなぁ? 一人娘が、何をしたいかって」


「あっ! と、と、ということは、ま、まさか、あんた! どっか、強盗でも入ろうとしてるんか!? おこづかい少ないからか? や、やめてや、そんな……おこづかいは、ふ、増やされへんけど……」


「発想が、ぶっとびすぎ。そんなん、小四女子がするわけないやん。できるわけも無いし。ホントに、純粋に、野球がしたいねん。ベースボール倶楽部の募集があったから、それに入りたいねん」


「ほ、ほんまか、それ? 亜衣ちゃん、改心したんか?」

「か、改心って、なんやねん、それ」

「だって、いっつも、ケンカばっかしてたやんか。女の子なのに、男の子イジメて」


「そんな、人聞きの悪いこと言わんとって。イジメてへんし。むしろ、イジメてるやつらに制裁をくわえてやっただけやん。わたしは、いつでも、弱い者の味方やったんよ」


「弱い者の味方って、そんな、パパみたいなこと言って……」

「パパは、関係あらへんやん。てか、パパの話はしないって約束やなかったっけ?」

「あ。あ、ああ、そうやったわね。ゴメンね。つい、思い出しちゃって……」

「ママが言い出した約束やのに……」

「ほんま、ごめん。亡くなったパパのことは、話さない約束やもんね」


 母は、落ち着きを取り戻すと同時に、塞ぐように、伏し目がちになって、料理を再会した。反省しきりになっているのは、人参を切る音が、異常に遅いことからも分かる。


 亜衣は、ダイニングテーブルの上の野球教本を手に取り、頁をめくった。

 母は、色々と冗談めかしてはいたけど、その根底にあるのは、無駄な出費を抑えたいという本心だろう。

 亜衣は、そんな母の様子から、きっと、金属バットは、買ってもらえないと察知した。

 それでも、熱湯を噴き出す間欠泉のように、突然頭をもたげた、野球をやってみたいという激しい欲求は、あきらめきれそうになかった。



 次の週末、亜衣は母と共に、河川敷にあるグランドにいた。

 金属バットは買ってもらえなかったけど、少年少女ベースボール倶楽部への入団申請だけは、どうしてもしたいと、母を説得したのである。


 亜衣たちが対面していたのは、ユニホーム姿の本屋の店長。

 倶楽部活動は基本的に無料だという説明を受けて、ほっと胸を撫でおろしたんだけど、続けて言われたことに言葉を失う。


「バットは共用で使えるけど、グローブだけは、自分のを持ってきてくださいね」


 知らなかった。


 バットじゃなくて、グローブの方が必要だったなんて。


 亜衣がチラリと母を見ると、母は、首を少し傾げて、アゴを触った。

 この仕草は、亜衣にだけわかる、NGを表す母からのブロックサイン。要するに、母は、亜衣にグローブを買ってあげられないことを伝えてきたのだった。


「な、何か貸してもらえるものって、ないんですか?」


 諦め切れない亜衣。打開策を探る言葉が、思わず口をついて出た。


「え? グローブ無いの? 倶楽部で所有してるのは、キャッチャーミットくらいしか無いんだけど」


 亜衣は、キャッチャーをすることにした。即決だった。

 本当は、四番でピッチャーをしたかったのだけど、しょうがない。


 そして、亜衣は、入団したこの日のフリーバッティング練習で、ホームラン性の当たりを連発した。


「あ、亜衣ちゃん……。キミがすごいのはわかったから、バッティング練習は、もうやめようか?」


 コーチをしている本屋の店長が、川の方を眺めながらピッチャーマウンドに上がる。


 川岸には、スパイクと靴下が散乱していた。

 その向こうに目を凝らすと、ズボンを膝までまくり上げた男子が、何人も、川の中に入っている。亜衣がかっ飛ばして、川に入ったボールを探しているらしかった。


「このままじゃ、ボールが全部、川に流されちゃって、練習ができなくなるよ」


 本屋の店長が、そう言って、ボールを受け取ろうと、ピッチャーをしている小柄な男子に手を差し出した。

 男子は、店長に振り向きもせず、亜衣を睨みつけたまま振りかぶった。


「おい、もうやめだって。ボール返せって」

 男子は、この倶楽部のエースだったんだろう。そこそこ、球も速い。だが、亜衣にコテンパンにやられて、気が動転しているらしい。


「あかん。投げたらあかん」

 男子は、店長の制止も聞かず、目尻を吊り上げて、魂の籠った一球を投げ込んできた。

 亜衣は、条件反射で、フルスイングする。


 キンッ!

 ガコッ!


 ジャストミートした球は、本屋の店長の後頭部に直撃して、店長はその場で卒倒した。

 救急車が呼ばれ、本屋の店長は、意識を失ったまま、病院へ運ばれた。


   ♰


 小学生の軟式野球の練習で、打球が当たってコーチが気絶し、救急車まで呼ばれるのは珍しいことだが、珍事だと笑い種にした日々は長くは続かない。


 なぜなら、亜衣のパワーは桁違いで、笑いごとで済まなくなったのである。

 亜衣の放つ打球は、矢の如く速く、受ける選手は、瞬間移動したのかと錯覚するほど。

 キャッチできずに、体にぶつけて、ケガをする選手が続出した。


 それから亜衣は、中学、高校、大学へと順調に進学する。


 モデル並みの体形を維持したまま、パワーは増し、美しさも増しながら、亜衣は成長した。

 中学と高校では、野球部に女子が参加できなかったので、ソフトボール部に所属する。


 大学入学と共に、再び野球選手に転向すると、大学リーグで唯一の女子選手だったが、一年の時から、四番を任される。大学三年の時、日本代表に選ばれ、卒業前には、プロ野球界史上初、女子大生がドラフト指名されるという金字塔を打ち立てた。


 その美貌から、学祭のミスコンで優勝し、芸能事務所にも所属して、女優業もしていたので、ドラフト会議で名前が出た時は、芸能界が騒然となった。


 プロ野球の選手時代に、ハリウッド映画にも出演して、メジャーリーグからも声がかかった亜衣だったので、フォーブスの『世界を変える女性百人』のトップとして紹介されても、大して世間は驚かなかった。



 この物語は、そんな香川亜衣の高校時代の話である。


 亜衣は、ベッドに腰かけ、自作ダンベルをリズムよく上下させた。

 左腕を鍛える間、右手だけで器用に頁をめくりながら、文庫本を読む。

 自作ダンベルは、鉄パイプの両端をコンクリートブロックの穴に通し、ガムテープでグルグル巻きにして固定しただけのもので、決して見栄えは良くない。けれど、市販されているものよりも、大きな負荷になっているので、亜衣は十分、満足していた。


 回数では無く、読み進んだページ数で、右腕のトレーニングに切り替えるルーティンはすっかり身についていた。


 その予定ページに到達して、亜衣は、本を左手に持ち変える。

 本を読みながら鍛えるのには、理由があった。そうでもしないと、トレーニング中でも、これ以上力をつけるのが、果たしていいことなのかという疑問がわいてくるのである。


 亜衣のために、選手生命を絶たれた人は多い。試合相手であれば、真剣勝負の結果だし、そんなに気にしなかったのだけど、チームメイトにまで被害が及ぶに至って、自問自答するようになった。

 それでも、鍛え続けるのは、ケガをしたチームメイトも含め、周りのみんなが、応援してくれたり、期待してくれたりするから。


「よし、終わった」


 自作ダンベルを床に置き、サイドボードの上のペン立てから、サインペンを引き抜いた。

 ペンのキャップを外し、壁にかかったカレンダーに向かい、トレーニングが終ったことを示す、チェックマークをつける。


「あ、あれ?」


 その時、今日の日付の下に、メモ書きされていることに気付いた。

 『ク』の文字を〇で囲んだしるし。その横に、『早朝』と書かれている。


「やばっ! 忘れてた」


 京四条高校の二年C組、香川亜衣、一生の不覚……かと思うくらい焦った。



「やばいやばいやばいやばい」


 上がり框を飛び降りるなり、亜衣はハイカットのコンバースに、足をつっ込んだ。

「んじゃ、行ってくるねー」 サムターンを回し、勢いよくドアを押す。


 ガッヅッツゥーン!


 破壊しようとする意志を持たないと発生しないような、激しい金属音が耳をつんざく。木造二階建ての家が揺れた。


「いったあぁぁーいぃぃぃ」


 U字ロックを外し忘れたせいで、押し開けたドアが、中途半端に開いた状態で止まっていた。そこに、メトロームのような一定のリズムで、ひらり、ひらりと、何かが舞い落ちてくる。

 それを手に取った。


(こ、これは……)


 ドアに跳ね返された衝撃で、右手がじーんとしびれている。その手で、呪文のような文字が書かれたお札を捕まえていた。

『悪霊退散』

 達筆だけど、辛うじて読める。このお札――魔除けのお札が、玄関の天井付近の壁に貼られた時のことは、なぜか、亜衣は鮮明に覚えていた。



――亜衣がまだ幼い頃。

「ここに魔除けのお札を貼っておけば、悪霊は入ってこられへんようになるんだ」

 玄関に立てた脚立の上の父が、笑っていた。

「福の神しか入ってこられへんようになる。せやから、これから我が家は、どんどん幸せになるはずなんやで。楽しみやな、亜衣ちゃん」

 今はなき、父の、ふくよかな笑顔が、目に焼き付いた――


 亜衣の父は、あんなことを言っていたけど、それから、三年も経たないうちに、言った本人が、この世からいなくなっちゃった。だから、亜衣は、こんなお札が効くとは思っていなかった。


(なんか、古びて、汚いし)

 亜衣は、どこかに捨ててしまおうと、魔除けのお札を二つに折って、ブレザーのポケットに押し込んだ。


「亜衣ちゃん、何してるん、慌てすぎやって。家、壊さんといてや」

 振り返ると、心配そうな顔をした母が、リビングから出てきた。

「ご、ごめん、ごめん。ちょ、ちょっと、遅刻しそうやから……」


 亜衣は、ドアを引いて、U字ロックを外す。

「遅刻? 大丈夫やろ? いつもと一緒の時間やないの?」

「今日は、早朝会議があるの!」

「会議? 高校生やのに、朝から会議なんてあるん?」

「あるの! クラス委員長会議が!」


 亜衣は、京四条高校の二年C組で、副クラス委員長をしていた。自ら手を挙げて立候補したのは、元々活発な性格だったこともあるけど。それよりも、気になる男子が、先にクラス委員長に決まっていたからっていう方が大きい。


 そう、今日もその彼と、朝から会議に出席する予定だった。

 亜衣は、玄関を飛び出し、行ってくるね、と手を振った。


「そんな慌ててたら、あぶないで。ケガしんとってや」


 そんな母の声を背中で聴きつつ、トンットトと、つま先を地面に叩きつける。靴の履き心地は整った。


「イヤや、もう。雨やんか……」

 前髪が分れて、露出したおでこに、雨粒が当たる。ただ、バス停までは近い。

 亜衣は、背中のリュックに入れた折り畳み傘を出すこと無く、下町情緒の残る住宅街の路地を急いだ。

 空は雲に薄く覆われているけど、辛うじて日がさしていて、天気雨のよう。


「あ、あれ? に、虹?」


 雲の切れ間に、筆をさっと走らせたような、一筋の虹が浮かんでいた。今にも消えそうではあるが、確かにそれは、七色をしている。

(こ、これって、はぐれ虹?)


 はぐれ虹……。

 その下に魔界に繋がる穴があくという、不吉な虹……。昔読んだ本の中の話だけど、亜衣はなぜか、胸騒ぎがして、憑りつかれたように、虹から目が離せなくなった。


「きゃっ!」

 虹に気をとられて、ちゃんと前を見ていなかった。

 角を曲がって、すぐ。思いがけず、誰かぶつかりそうになって、亜衣は、足をグネりそうになりながらも、ギリギリのところでなんとか止まれた。


「す、す、すみませんっ!」


 ほぼ脊髄反射で、そんな言葉が出て、バサッと頭を下げる。

(……あれ? 相手の反応が無い)

 頭を下げたまま、薄目で見えてきた道は暗かった。一面、大きな影になっている。

(あ、あれ?)

 不思議に思いながら、亜衣は、そっと顔を上げた。


 逆光でよく見えないけど、道の真ん中なのに、真っ黒な壁がそそり立っている。

 間違って、袋小路に入ったのかともと、一瞬考えたけど、そうじゃない。


「な、な……な、なに!? 何、何、なに!?」


 真っ黒で四角い影は、よく見ると、見覚えのある形をしていた。

(か、壁じゃない……。スマホ?)


 ピカピカと黒光りする長方形のガラス面の横から、手が生え、足もついている。亜衣よりも一回り大きいスマートフォンの形をしたそいつも驚いているのか、両手がブルブルと震えていた。


(き、着ぐるみ!? 通信キャリアのイベント? こんな朝から?)


 スマートフォンの形をした上半身が、僅かに傾き、両手を前に挙げ、爪を立てる。流木のようにこげ茶色をして、筋張っている手首の先に、鋭い爪が伸びた爬虫類のような手。


(イヤイヤ、近くに携帯ショップなんてないし)


 亜衣は、激しく高鳴る胸に手を当てて、気持ちを落ち着かせる。


「ガ……ガルルルルッル……」


 ケダモノのようなだみ声が、着ぐるみの中からした。

「げっ!」

 亜衣は、少し腰を落として、身構える。

(や、やばい……コ、コイツ、本物の変質者かもしれない)


「ガオゥッ!」

「きゃっ」


 腕を掴まれかけた亜衣は、咄嗟にそれを振り払い、スマートフォンのわきの下をすり抜ける。


「ガッガアァルルッ!」


 亜衣は、捕まるまいと、地面を蹴り上げて、超絶にダッシュ――と見せかけて、真上に飛んだ。


「オゥッ!?」

 ドーン!


 初代タイガーマスクばりの、綺麗なローリングソバットがクリーンヒットして、スマートフォンを被ったヘンタイは、数メートル先に吹っ飛んだ。


「な、なんなのよっ! もう」


 亜衣の格闘技オタクが役に立った。

 資料映像でしか見たことが無かったけど、初代タイガーのソバットは実戦で使える気がしていた。


「ガルル……グルルルルルリゥイ……」


 うめき声が、どんどん遠のく。どうやら追いかけてきてはいないらしい。

「ふざけないでよね!」

 走りながら後ろを見ると、変態スマートフォン人間は、右手をこちらに突き出し、待ってと言わんばかりの形で固まっている。


「キ、キモすぎるんだって、この、どヘンタイ!」


「キ、キタノ……」


 苦しそうなスマートフォンから、そんなだみ声が聴こえてきたけど、亜衣は走るのを止めることなく、ただただ、憤慨した。


「は? わたし、キタノって名前じゃないしっ!」



 ようやく、公園通りに抜け、歩道の先にバス停を見つけた。ほっとした矢先に、見覚えのあるツートンカラーが視界に入ってくる。

「ま、マジで!? 勘弁してよね、もう」


 派手なツートンカラーの市営バスが、後ろから、ぬっと前に出てきた。

 息をつく間もないまま、亜衣は、バスと並んで、競争する。

(このバスに乗りたい……)


「ぬおぉぉぉ」


 ショートボブのサラサラした髪のことなんて、気にしていられない。


「ぬおおぉぉぉぉぉおおおぉぉぁぁぁあああ!」


 亜衣は、膝丈のスカートをはためかせて、必死で駆けた。そして、なんとかバスを追い抜いて、バス停に到着する。


「香川さん、激しいランでしたね。もうちょっとで、パンツが見えそうでしたよ。きわどい走法ですね。年頃の乙女なんだから、やめたほうがいいですよ」


 バス停の屋根の下、長い列の最後尾にいたブレザーが、ずっとこちらを見ていたらしい。


「はぁ、はぁ、はぁ……し、七宮?」


 七宮樹生は、黒縁眼鏡の眉間を持ち上げて、ニヤリと笑った。

 セクハラコメントを発しているのに、日頃の超・堅物な印象が、その発言を説法のような音色に変える。

 きっと、他の男子に言われたなら嫌悪するのだけど、この七宮は、それを超越した無機質な講釈をしてくるので、いつも納得させられてしまうのだった。


「おはようございます。香川さん」

「お、おはよう……。って、し、七宮さぁ……、オマエも、ちょっと遅いんやないの?」

「はい? なんのことでしょうか?」

「えっ? 七宮、ひょっとして、忘れてる? 今日のこと……」


 マッシュルームのような髪型の七宮は、C組のクラス委員長だった。亜衣と共に、今日の早朝会議に出席しなければいけないはずの……。


 そう、この男こそ、亜衣が気になって仕方ない男子であった。


「忘れてないですよ。ちょっと、遅くなってしまいました。いつも自転車通学でしたので、バスで通う時間……計算を誤ってしまいましたね」


「なに、それ? 開き直ってんの?」

「開き直ってないですよ。反省しきりです。チョンボです。でも、やってしまったことはしょうがないです。議長の生徒会長さんや、他のクラス委員さんたちには、申し訳ないですけどね」


 堂々としている。

 七宮は、クソがつくほど真面目な男子なので、会議に遅刻してしまうことの後ろめたさを感じているはずなのに。

 さっき追い抜いたツートンカラーのバスが、のっそりと二人の横に停まった。


   ♰


 亜衣は、七宮の背中に隠れるようにして、早朝のクラス委員長会議が開かれている教室に入った。

 教室は静まりかえっている。十五分も遅れたので、すでに会議は終わりかけているのかもしれない。


「す、すみません。遅くなりましたぁ」


 前を歩く七宮が何も言わないで席に着くので、息苦しくなった亜衣が、先に謝った。

「おはよう。二年C組は、二人そろって遅刻? 相変わらず、息ピッタリだねえ。さすがだなぁ」

 議長を務める、生徒会長の飯塚斗基いいづかときは、シャーペンをクルクルと回して、笑う。


「すみません。た、たまたまなんですけど、バス停で偶然、会って……。忘れてたわけじゃないんです」

「ハハハ。オレも、別にそういう意味で言ったんじゃないよ。気にしないで、座って」


 教室中、いろんなところから、クスクスと笑い声が漏れる。

 亜衣は、顔を火照らせながら、椅子を引いて座った。


「七宮君と香川さんには、申し訳ないけど、もう、説明はだいたい終わってしまったから、ポイントだけ、簡単に言いますね」


 飯塚は、プリントを持って立ち上がる。飯塚の持っているものと同じプリントが、亜衣の机の上にも配られていた。


「ようは、引きこもりがちな生徒がクラスにいれば、ケアをよろしくって、ことです」

 飯塚が、小指で前髪を分ける。


 少し茶色がかっていて、ふわりとセットされた飯塚の髪は、アイドルを意識しているようにしか思えない。

 真っ白な歯を見せ、もう一度、髪に指を当てた時、キャッキャっと女子たちのざわつく声が漏れ聞こえた。


「えっ? どういうことですか?」

 顔は、濃くてイケメンの部類に入るのだろうけど、亜衣は、飯塚の伸びた襟足が好きじゃない。

「学校側……つまり、教職員からの協力要請なんです。最近、引きこもりになって、学校に来なくなった生徒が失踪する事件が続いているみたいですよ」

(へぇ……なるほど……)


「じゃあ、会議はこれまでにしますね。皆さん、お疲れ様。ご解散くださーい」

 飯塚がそう言うや、女子たちが、議長席に駆け寄り、質問タイムが始まった。

 きっと、大した質問は無く、飯塚と話がしたいだけなんだろうけど。

 飯塚は、亜衣と同学年だけど、学年を問わず、女子生徒からの人気も高く、それで、一年の時から、生徒会長になっている。



 結局、会議中、七宮は一言もしゃべらなかった。

「ねぇ、七宮、生徒会長の飯塚のこと、嫌いなん?」

「えっ? な、なんで、そんなこと聞くんですか?」

 二年C組の教室に向かう途中、七宮が足を止める。


(動揺してる? 当たってしもた?)


 七宮は、目を細めて、廊下の窓から、外を眺めた。

 七宮はこの春、生徒会長に立候補したけど、選挙で飯塚に負けた。亜衣は、七宮に投票したし、友達にも七宮への投票を勧めたんだけど、焼け石に雀の涙。誰の目から見ても完敗……典型的な、ワンサイドゲームだった。


 きっと、七宮は落ち込んだりしたのだろうけど、周りは冷ややかな目で、七宮を見ていた。

 なぜ、一年の時から生徒会長を務める京四条のプリンスに、真正面から勝負を挑んだのだろうと、誰もが無謀な挑戦の意味を理解できないでいた。その答えは、亜衣も未だにわかっていない。


「香川さん……」


 七宮は、細めた目を窓の外に向けたまま、口だけ開けた。

「え? な、何? 聞かない方がよかった?」

「いや、そうではなくてですね……」


 眼鏡の向こうで、眉をひそめて、睨むように空を見上げる。

「香川さん、今朝、虹が出ているの見ました? 千切られたような、短いヤツだったんですけど」

 七宮は、話題を変えた。


「えっ? あ、ああ……はぐれ虹のこと?」

「なーんだ、あれが、はぐれ虹だって、知っていたんですね。さすが、副クラス委員長ですね。じゃあ、あの本を読んだことがあるんですね?」

「え……、あ、ああ。まあ、そうね……小学生の時に、本屋で立ち読みした程度だけど」

「不吉ですよね、何が起こるんでしょうね。フフフ」

 七宮は、顔をくしゃりとさせて、笑った。


「は? もしかして、妖が出現するとか、想像してる? 本の中の話やろ?」

「いや、どうですかね。本当に何か起こりそうで、ゾクゾクするんですけど」

「は?」

 何人もの生徒が、亜衣たちを追い越していった。


 亜衣は、チラリと腕時計を見た。朝のホームルームが始まる時間である。亜衣は、前を指さし、再び歩き始めた。七宮もついてくる。


「ネットで調べれば、わかりますよ。椋平虹むくひらにじとも呼ばれてるらしいんですけど、その虹が出たあと、数日後に地震が起きたりだとか、天変地異が起こってるみたいです」


「た、たまたまやろ? そ、それに、妖なんか、出てくるわけあれへんし」

「さあ……。どうだか……」


 七宮は、片方の頬だけ引き上げて、不気味に笑った。


「あ、来た来た。亜衣、おはよう。やっと現れたか」

 教室から出てきた新町咲は、いかにも、待ちわびていたという顔をして、亜衣に近づいてくる。

「ねぇ、ねぇ、ちょっと来てや。すごい動画、見つけたんやけどさ……」

 まるで、七宮のことが見えていないかのように、咲は二人の間に割り込んだ。

「えっ、ちょっ、ちょっと……」

 亜衣は腕を掴まれ、やや強引に、教室の中に引っ張りこまれる。咲の巻き髪が、亜衣の顔面に当たる。


「亜衣、委員長会議の時は、仕方ないけど、普段は、七宮とあんまし口をきかん方がええよ」

「えっ? なんで?」


 亜衣を掴んだまま、ズカズカと後方に向かう咲。

「知ってるでしょ? 七宮は、バカマジメで嫌われて、一年の時から孤立してるんやから。一緒にいたら、亜衣までとばっちりを受けるよ」


 咲の顔は真剣そのものだった。本当に亜衣のことを心配しているらしい。

 亜衣と咲は、ソフトボール部でバッテリーを組んでいて、一年の時から仲が良かったけど、友達認定の基準は、ちょっと違っている。どちらかというと、咲の方が、普通の標準的なJKで、亜衣の方が少し変わっていた。


「まあ、そんなことより、さっき、言ったこれ、見てみてよ、ほら」

 咲が、机の中からスマートフォンを取り出して、画面を見せてきた。

「ちょっと、咲、校内じゃ、スマホ禁止やで。はよ、電源を切らんと……」

「そんなん、ええやん、ちょっとくらい。それよりほら、見てこの動画。これ、亜衣なんちゃうん?」

 亜衣は、咲からスマートフォンを受け取り、再生マークをタップする。


――京四条高の制服を着た生徒が、ブレザーを脱ぎ捨て、腕を捲る。ショートボブの髪を耳に掛け、金属バットを拾って、構えると、眉をしかめ、鋭い目つきになった。

 左足が浮き、バッドを振り出す瞬間に、場面が切り替わった。

 ユニホーム姿の、同じ女子を映すアングルが変わり、鋭くバットが振り抜かれた。金属音と共に矢のように放たれた打球は高々と上がり、フェンスを超える。すぐに、次のスイングに切り替わり、今度は、ライナー性の当たりでフェンスを超えた。またその次には、センター方向へ、超特大のホームランの映像。

 右腕を上げて、ゆっくりとベースを回る女子。同じチームの選手たちが、手を叩いて喜んでいる。相手チームの投手が、がっくりと肩を落としている。色々な試合を繋いだ映像だろうか。でも、ホームランを打っている女子は、全部、同一人物のようだった。

 何本ものホームランシーンを繋げた映像は、まるでプロが編集したかのように、ドラマチックに仕上げられていた――


「これ、亜衣やん、ぜったい。この動画、めっちゃ、バズってんで、今」

 亜衣は、スマートフォンをスワイプして、関連情報を見てみる。この動画の再生回数は、十万回を超えていた。また、コメント欄も、溢れかえっている。


『なに、この子? ホントにJK? スゲーな』

『スイングのスピードが半端ねぇな。女子高生の速さじゃないよ』

『え? CGじゃないよね? ソフトボールの球って、こんなに飛ぶ?』

『これ、ヤバすぎんだろ? ハンデつけてあげないと、相手チームが可愛そうだろW』


 亜衣は、比較的好意的なコメントが多いことに安心し、ほっと胸を撫でおろした。咲にスマートフォンを返しつつ、「ホンマやね、わたしやわ、コレ」と、苦笑する。


「亜衣が、アップしたん? コレ」

「いや、ちゃう。でも、アップしたヤツは、わかってんねんけど」

 亜衣の頭の中には、ある男子の妖怪みたいな顔が浮かんでいた。


「えっ? そうなん? 勝手に、亜衣の画像をアップしたん、そいつ? あかんやん」

「いやいや。アップしてもええでって言ってあったから」

「そうなんや……。懐ひろいなぁ、亜衣は、相変わらず」

 咲は、スマートフォンの電源を切り、机に掛けているリュックにしまった。


「いい方にバズったから、たまたま良かったけど、叩かれることの方が多いねんで、こういうの。せやから、画像をアップしていいとか、安易に、許可せん方がいいよ、亜衣」

「そやね。気をつけるわ。今後……」

 言いながら亜衣は、ふと、教室の前の扉にチラリと目をやる。

 七宮が、教室に入ってきた。


「うちは、ぜったいあかんわ。あのタイプ……」

 咲は、「ウゲェー」と言って、今にも吐き出しそうなしぐさをする。

 リュックを背負って歩く七宮は、仏頂面をしていた。最前列の自分の席でリュックを下ろし、椅子に座ると、机の上に突っ伏した。

 一年の時、亜衣と七宮は、別のクラスだったけど、二人ともクラス委員をしていたから、月に一回ある会議では、顔を合わせていた。


――一年の時のクラス委員長会議。

「はい、質問です。今期配布する部活動費ですが、予算を全部足しても、百三十円合わないです」

 人気の生徒会長にも、臆することなく質問する七宮は、印象的だった。


「いいじゃん、百三十円くらい。誤差だよ、誤差」

「誤差? それはダメでしょう。それに、ソフトボール部への配布が、他の運動部よりも低い理由を教えてください。同じ、部活動ですから、同じであるべきだと思うのですが」


 亜衣は、ソフトボール部というフレーズが聴こえたことに驚き、思わず、七宮を見上げた。すると、七宮とわずかに目があった。七宮の方がすぐに逸らしたけど。


(そうだ、そうだ! もっと、抗議してくれ、七宮とか言う男子!)


 亜衣は、心の中で応援する。なぜ、七宮がソフトボール部に焦点を当てたのかは、わからない。たまたま、無下な扱いをされているのが、ソフトボール部だったからという理由だけなのかもしれなかった。


「ソフトボール部? あ、ああ、これね。だって、ソフト部は、学校のグランドを使わせてあげてるんだから、活動費少なくてもいいでしょ? それに、部員がさ、一年生ばっかでしょ。三年生の所属が多い部活の方に、手厚くしないと、色々と抗議を受けるんだよね……」


(な、なんやそれ……。そんな理由!?)

「そ、それは、ダメでしょう!? あなたは、生徒会長なんですから。部活動費は、全ての保護者からお預かりした、大切な協力金ですから……」

(そうだ、頑張れ、七宮とか言う青年! 食い下がれ! 食い下がってくれ!)

「はいはい、わかった、もういいよ、七面鳥くん。次から注意するよ」

(あ、撃沈……)


 七宮は、納得していないようで座らなかった。そんな彼を無視して、生徒会長の飯塚は立ち上がり、教室にいる全員に向けて、補足する。


「あと、部活動費、カツカツなんで、新しい部活動の設立は、認められません。文化部会で、演劇部とか、設立申請が出てるみたいなんですけど、残念ですが、今年は無理です」


 七宮は、生徒会長の飯塚にあしらわれて、奥歯を噛みしめているようだった――


 会議が終った後も、しばらく、立ち尽くしていたから、きっと、相当怒っていたんだと思う。

 七面鳥というあだ名は、会話をすると『しちめんどくさい』ことが由来みたいだけど、会議中、みんなの前で、そんなあだ名を呼ばれたということもあるかもしれない。でも、それ以上に、生徒会長である飯塚のいい加減な采配が、四角四面の七宮には許せなかったんだと思う。


 一時間目が終り、二時間目が終り、三時間目が終わった……。


 七宮は、今日も、休み時間になる度に、机に顔を突っ伏していた。亜衣の知る限り、二年になってから、ずっとそうである。


 クラス委員長会議の後に、七宮に訊いたことがあった。


「なんで、いつも伏せてるん? そんなんされたら、話しかけづらいやん」

「ボクに話しかけたい人なんて、いないから、問題ないでしょ? それに、ボクが起きて周りを見てると、ボクの方が……」


 そこで言葉を詰まらせたけど、七宮の苦しそうな表情を見て、亜衣には、続く言葉が想像できた。

(〝ボクの方が辛い〟って、言おうとした? きっと、クラスのみんなの行動は、許せへんことが多いねんな。注意したくなるんやろね……)


 今もまた、顔を伏せた七宮の近くでは、机に座って談笑したり、早弁したりする生徒がいる。

(そんな、モラルの低さが、七宮には許されへんのや……)



 担任の都合で、帰りのホームルームは、無くなった。

「亜衣、部活行こうよ」

「う、うん、ちょ、ちょっと待って」

 亜衣は、教科書、ノート、プリントを乱雑にリュックに詰める。弁当箱に引っかかっているのか、上手く押し込めずに、プリントが一枚、ひらりと落ちた。

「慌て過ぎー。ほら、落ちたよ」

 咲は、床に落ちたプリントを拾い上げる。

「あれ、こんなプリント、授業で配られたっけ?」

「あ、あぁ、それね」


 咲の手にした用紙には、『ご協力のお願い――各組に不登校の生徒がいる場合、クラス委員が率先して連絡を取り、心のケアをしてもらえるようお願いします』と印刷されている。


「今朝のクラス委員長会議で、配られた資料だよ。あんまり、関係ないから捨てよっかなー」

 亜衣が咲からプリントを取ろうとしたら、咲は、サッと避けた。

「いやいや、亜衣、関係無くないでしょ」


 亜衣は、咲を見返す。

「うちのクラスにもいるやん、不登校児が一人。ひょっとして、忘れてる? 副クラス委員長さん」

「……。えっ? 誰かいたっけ?」

「ほら、そこの席の、北野よ、キタノ」


 北野敦――あだ名は、キタアツ。


 北野は、一年の時に、クラスで作ったチャットルームでいじめられて、不登校になった。

 二年生になってからは、一度も学校に来たことが無い。


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