表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

シュレーディンガーのあなた(投稿版)

作者: halsan

 主人公の男:頼むよ、ね、もう5万だけ。

 夜の街の女:もう、仕方がないわねえ。


 夜の街で女が派手な札入れから紙幣を何枚か取りだすのを、待ちきれないように男はむしり取ると、それを慣れた手つきで丸め、ポケットに押し込む。


 主人公の男:それじゃまた来るよ、愛してる。

 夜の街の女:来るのはいいけれどさ、いつになったら……。


 何か言いたそうな女の言葉を男は笑顔で(さえぎ)った。

 主人公の男:もう少し、もう少しだからさ!


 そう笑いながら言い捨てると、男は笑顔のまま女から隠れるように、すぐの路地を曲がり、別の店へと急いだ。


 男は一件の風俗店に入店すると、受付を覗き込んだ。

 主人公の男:よう店長、今月分の手数料を回収しに来たぜ。オーナーを呼んでくれるかい?

 すると受付に立っていた店長も、特に驚いた様子もなく男にあいさつをする。

 風俗店の店長:うっす、いつものところでお待ちください。


 店長を経由して店の裏に呼び出された風俗店のオーナーは、愛想笑いを浮かべながら男に封筒を渡した。

 店のオーナー:それじゃ今月分です。

 男はオーナーから手渡された封筒の中身を確認すると、少しだけ怒気を込めて不満を口にした。

 主人公の男:あれ、こんなもんかい? ちょっと少ないんじゃないのか?

 すると風俗店のオーナーは、軽く睨みつけてくる男の視線に少しビビりながらも、虚勢を張るように、にやりと笑いながら続けた。

 風俗店のオーナー:そりゃあ女の鮮度が落ちれば、太客でもつかない限り、稼ぎも落ち着きますからね、割り戻しが少なくなるのも仕方がないですよ。また新しい子をうちに沈めてくれたら、すぐに増えますって。


 店長からの指摘に、男はそれもそうかと納得したような表情となった。

 そういえば、ここ1か月ほど女を沈めていない。

 いかんな、少し怠けてしまったか。


 主人公の男:言われてみればそうだな。それじゃすぐにでも用意してくるさ。

 すると風俗店のオーナーは調子に乗ってこう続けた。

 風俗店のオーナー:それから、女を漬け込むオクスリは、ほどほどにしておいてくださいね、口臭が出るようになったら、酔客にあてがうしか使いようがなくなってしまいますから。


 しかしその直後に風俗店のオーナーは男から睨みつけられたのに気づくと、慌ててこう続けた。

 風俗店のオーナー:いや、ほどほどであればなーんの問題もありませんから! ねっ?


 オーナーのとっさのフォローに男は目元を緩め、にやりと笑い返した。

 主人公の男:いちいちうるせえよ。まあ、なるべく新鮮なのをお届けするから待ってな。

 そう言いながら男は店長の肩を右手でポンと叩くと、店を後にした、


 大人の風呂屋を後にした男は、次に顔なじみのホストクラブへと向かった。

 男は裏口に回ると、無造作にドアを開け、中を覗き込んだ。


 主人公の男:お、いたいた。オーナー、景気はどうだい?

 するとホストクラブのオーナーも、いつもの様子とばかりに挨拶を返してくる。

 ホストクラブのオーナー:ぼちぼちだな。

 主人公の男:ところでそろそろ回収が厳しくなった客がいるんじゃないかと思ってな。

 男からの確認に、ホストクラブのオーナーはニヤリと笑いかけた。


 ホストクラブのオーナー:グッドタイミング。

 オーナーは男を裏口から店内を一望できる物陰に案内すると、そこからそっと一人の客を指差した。

 客である女は、二人のホストに囲まれ、ご満悦でシャンパンの追加注文を行っている。


 ホストクラブのオーナー:あの女で今のところ三百万ちょいだ。

 主人公の男:そりゃあぼったくったねえ。


 男の陰口に店のオーナーは心外とばかりにわざとらしく顔をしかめた。

 ホストクラブのオーナー:俺たちは客の注文に答えただけさ。


 主人公の男:まあいいや、それじゃ俺はいつもの場所にいるから、あの女が店を出るときになったら合図をくれよ。

 ホストクラブのオーナー:わかっているさ、今回もしっかりと稼がせるように頼むぜ。


 男はホストクラブのオーナーから、そろそろ飛びそうな女の情報を得た。

 ホスト狂いの女は、どうにかしてでもホストに貢ぐ金を工面しようとする。

 そこで男の出番。

 男はホスト狂いの女をあの手この手で大人のお風呂屋に沈め、その稼ぎから手数料を取る。

 大人のお風呂屋は新鮮な素人さんを手に入れてしっかりと稼ぐ。

 女は男と店からピンハネされた残りの稼ぎを握りしめて、ホストクラブで散財し、明日への活力とする。

 こうして女が枯れるまで、三者による持続可能なむしり取りが継続するのだ。


 男はホストクラブの裏口から一旦路地に出ると、女が夢の跡を引きずりながら店を出てくるタイミングまで、なじみの喫茶店で時間をつぶすべく足を向けようとした。

 しかし男が喫茶店に出向くことはなかった。

 なぜなら、男はふいに重い打撃を受け、そのままブラックアウトしてしまったから。


 主人公の男:ここはどこだ?

 男は6畳ほどの部屋で目を覚ました。

 同時に後頭部からの鈍痛によって、何が起きたのかを咄嗟(とっさ)に理解した。


 主人公の男:こりゃあ拉致られたかな。

 男は半ばあきらめながらポケットをまさぐるも、当然のことながら財布もスマホも回収したシノギもなくなっている。


 部屋には明かりがともっているが、窓の類いは一切ない。

 ドアはふたつあり、ひとつはトイレとシャワールームにつながっているが、もう一つはドアノブが取り外され、隙間も外から目張りされている。


 エアコンは快適な空気を送り込んでくるし、冷蔵庫にはビールと冷凍食品が詰まっている。

 冷蔵庫の横には簡単なキッチンがあるが、コンロは付いておらず、電気湯沸かし器とカップラーメンの山が置かれているだけ。

 シャワールームの天井にある小さな換気扇が、室内の空気を入れ替えているようだ。


 男が横になっていた布団をめくっても、そこには何もない。

 念のためコンセント周りや物陰をチェックしてみるが、隠しカメラや盗聴器の類も見当たらない。


 部屋の隅には古ぼけた電話器が置かれている。

 試しに受話器を取っててみると、回線は通じているようだが、ボタンを押しても外線がつながる気配は全くない。


 男はもう一度トイレ、シャワー、換気扇、エアコンの室外機接続チューブをチェックしたが、人一人が通れるような隙間はどこにもなかった。

 ものは試しと、恐らく出入口であろうノブのないドアに力をこめてみるが、予想した通りびくともしない。


 主人公の男:こりゃあ相手の要求待ちかな。

 男は覚悟を決めたかのように床であぐらをかくと、手を伸ばして小さな冷蔵庫からビールを取り出し、それを飲み始めた。


 男とて、この世界でこれまで生きてきたという自負がある。

 例えば拉致にしても、したこともされたこともある。

 こうして拉致られたら、うまいこと逃げだす算段がない限り、一人であがいても無駄なのだ。


 それに男は、彼自身にそれほどの価値がないこともよく理解している。

 彼を拉致することによって、何らかの利権が動くことなどありえない。

 天涯孤独な彼を使っても、刑務所の看守を脅かすことすらできない。


 もし男が借金まみれであったら、人身売買のタネにでもされるかもしれないが、所属の組にはそれなりに上納ができる程度のシノギを彼は持っている。

 なので同業者がらみによる拉致ならば、たいていは多少の暴力とそれなりの金によって、組の間で解決されるのがいつものこと。


 素人さんが怨恨がらみで突っ走った可能性も無きにしも(あら)ずだが、そのときは逆に彼のシノギが増えるだけだ。

 中途半端な拉致には組を上げて、拉致を行った本人はもちろん、その親類縁者それぞれにも因縁をつけ、素人の団体さん全てをしゃぶりつくすという新たなシノギが。


 主人公の男:さて、俺を拉致った相手は誰だろうな。


 冷蔵庫に詰め込まれた冷凍食品の一つを、冷蔵庫の上に置かれた電子レンジで温めなおすと、男はそれをつまみ代りにして、二本目のビールを飲み始めた。


 恐らくは丸一日が経ったであろう。

 しかし男を拉致したであろう相手からは何の連絡もない。

 男が丸一日組事務所に連絡をしなければ、カシラたちも男の身に何かが起きたことくらいは気づくだろう。

 しかし動きがないということは、男を拉致した側が、何の発信もしていないということだ。


 主人公の男:こりゃあ相手に何かトラブルでもあったかな。

 男は現状を楽天的に捉えると、積み重ねられたカップラーメンの一つををすするべく、お湯を沸かし始めた。


 すると。


 じりりりりん。 

 突然古ぼけた電話が鳴った。


 主人公の男:来たな。

 男は一旦深呼吸をし、心を落ち着かせてから、受話器を取り、演技を開始した。


 主人公の男:もしもし、これってなんすか! 何でもしますから助けてくださいよ! もしもし、もしもし!

 わざと気が動転した反応を見せ、相手がこちらよりも優位に立ったと思わせれば演技は成功。

 どうだ?


 続けて男は注意深く聞き耳を立てた。

 相手の声、反応する声色、話の内容、周辺から漏れる音。

 そこから情報を収集していけば、何らかの打開策はあるはずだ。


 しかし、聞こえたのは、男が全く予測していない声だった。


 謎の女:愛してる。


 受話器の向こうから、女性の声でそう一言耳に届くと、そのまま電話は切れてしまった。

 通話が切れた後、この電話によって、男は初めて気づいた。

 今自分は、無音の世界に閉じ込められているのだと。


 電話の相手は誰だ?

 どんな意味がある?

 俺をからかっているのか?

 とにかく情報が少なすぎる。

 待つしかない。

 男は冷蔵庫からビールを取り出すと、やけ気味にそれをあおりだした。


 冷蔵庫のモーター音とエアコンのかすかな風切り音以外は何も聞こえない。

 男は無限の時間を過ごしているような錯覚にとらわれた。

  

 じりりりりん。

 突然鳴りだした電話の音に男はびくりとしながらも、改めて深呼吸をした。


 主人公の男:もしもし。

 しかし返事はない。

 主人公の男:もしもし?


 謎の女:愛してる。


 受話器がそう伝えると、再び電話は沈黙(だま)り、男は無音の世界へと置いてきぼりにされた。


 気を紛らわすためにと飲み続けたビールは底をつき、冷凍食品も食べつくしてしまった男には、大量のカップラーメンしか残っていない。


 明かりを消しても眠れない。

 瞼を開けても閉じても景色は変わらない。


 どうなっちまったんだ俺は?


 じりりりりん。

 主人公の男:おい、そっちの目的は一体何なんだ!

 しかし男の絶叫には受話器は返事をよこさない。

 ただ繰り返すだけ。


 謎の女:愛してる。


 そのまま受話器は沈黙した。

 男は思わず受話器を床にたたきつけようとするも、何とか理性をつなぎとめた。


 この電話器だけが外界とつながっているのだ。

 これだけは壊してはいけない。

 男はかつて食べ残したカップラーメンの冷たい汁をすすりながら、次の電話を待つことにした。


 いつしか男は電話の前にしゃがみこむようになっていた。

 何も考えられない。

 何も見えない。

 何も聞こえない。


 じりりりりん。

 男は待ちかねたように受話器を取った。

 主人公の男:あ、うう……。

 男のうめき声にもかまわず、受話器は同じ言葉を同じタイミングで繰り返した。


 謎の女:愛してる。


 水だけで過ごすようになってから何日が経ったのだろうか。

 男は電話機を見つめながら、力なく床に横わたっている。


 じりりりりん。

 待ちかねた呼び鈴が鳴り響いた。

 男は歓喜に震えながら、やせ細り、なかなか言うことをきかなくなった腕を何とか伸ばした。

 既に声を出すのもおっくうな男は、無言で何とか受話器を耳にあてる。


 謎の女:愛してる。


 そして再び静寂が訪れる。



 あの人は私のすべてを奪った。

 財産も、名誉も、社会的地位も、家族も、そして私の心も。


 でも、今更彼のことを恨んではいない。

 今私が知りたいのは、彼の本心だけ。

 でも彼は私に向き合うと、いつもの屈託のない笑顔で、愛してると囁きながら、暴力と愛で私から再びすべてを奪っていってしまう。


 私が知りたいのは、彼の本心だけ。

 だから私は彼の拉致を頼んだ。

 彼の本心を知るために、一方通行の電話で、毎日一度だけ、私から一方的に、愛していると囁いた。


 彼は私を愛してくれているかしら。

 それとも私のことなどどうでもいいのかしら。

 だから私は毎日囁く。


 謎の女:愛してる。


 彼は私を愛してくれているかしら。

 それとも私のことなど、どうでもいいのかしら。

 確かめるまでは私にはわからない。

 でも私は徐々に喜びの感情に満たされていく。


 謎の女:愛してる。

 

 あの部屋には、私を愛している彼がいるかもしれない。

 もしかしたら私を愛していない彼がいるかもしれない。

 でも、それを確かめる(すべ)はない。


 なぜなら、私があの部屋に出向いたら、彼は私に間違いなく、愛してると(ささや)くに決まっているから。

 私が彼の前に立った瞬間に、彼はその顔に笑顔を張り付けるから。


 あの部屋には私を愛してくれている彼がいるかもしれない。

 同時に私を愛していない彼がいるかもしれない。

 けれど既にそれは私にとって問題ではない。


 私を愛してくれているかもしれない彼がそこにいれば、それでいい。


 でも、そろそろ時間切れ。

 拉致をお願いする代わりに様々な臓器を提供した身体は、もう既に私の言うことをきかなくなってしまっている。

 彼と過ごすために、限られた時間を生きるのに最低限体内に残してもらった器官も、私が息絶えたら、すべて提供することになっている。

 ここまでなんとか点滴で生きながらえてきた私の命も、恐らくは間もなく消えるのだろう。


 私はほとんど身動きが出来なくなった身体を何とかベッドの上で首だけを横に向け、目の前に置いてもらった時計を見続ける。

 時計のデジタルが0時を示すのを、24時間の間、今か今かと心待ちにしながら。


 デジタルが0時になると、口元に固定されたピンマイクに電源が入る。

 そこで私は心の中でゆっくりと一から十まで数えると、心を込めて、彼がいるであろうピンマイクの先に(ささや)く。


 謎の女:愛してる。


 すぐにピンマイクは自動で接続を切る。


 それを数十日繰り返したのちに、女は時計を見つめることも、ピンマイクに電源が入ったのを喜ぶこともなくなった。


 そして静寂が訪れた。


 シュレーディンガーの箱と、それを観測する者の両方に。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ