全てが消えたとしても
薫はベッドで眠る湊人を見つめている。明度の落とされた照明のせいか、湊人の顔色は普段より良いように思えた。
まだ消灯時刻ではなかったが個室はその辺り融通が利く。ベッドサイドで椅子に座っている薫は今、唇をきつく引き結んでいた。
静かに寝息を立てる湊人――痩せこけ、薫と出会った頃の面影はない。眠るときにも被っているニット帽が痛々しい。殆ど抜けてしまったよ。そう悲しそうに言っていたのを薫は思い出す。
湊人の手に自分のそれをそっと重ねる薫。
びくりとして湊人が目を開ける。
「……やあ」
「ごめん、起こしちゃったね」
いいよいいよ、と言って湊人は半身を起こし、手元のスイッチを操作して部屋を明るくする。
「元気?」――我ながらなんて間抜けな質問だと薫は思う。
うん、昨日よりは良いよ、と湊人は応じ、
「それよりどうしたの? こんな時間に」
「うん。ちょっとね」
薫は肩に掛けてあった鞄からペットボトルを取り出す。
既に例の薬を溶かしてある。加えて、明日検査があることも確認済みだ。つまり、今晩薬が効けば明日の検査で湊人が完治したことが分かるはずだった。
「湊人、喉、乾かない?」
湊人が頷くのを見て、薫はペットボトルの中身を紙コップに移して差し出す。それを手に取り飲み干す湊人。
――ああ、これで……。
薫は一瞬後悔する。
神様から言われた薬の効果、それは、
『病の発症直前まで肉体を巻き戻し、発病しない未来に分岐させる』
ただし、
『病の発症以降の記憶は、巻き戻されることで消える』
つまり、薫と知り合う前から発病していた湊人は、薫と出会う前に戻る。
――それでも。
「――薫? どうしたの」
心配そうな湊人に首を振る薫。ちょっと身を乗り出して湊人の頬に触れた。
「じゃあ、また明日ね」
そう言って、立ち上がる。
「うん。何だか急に、眠く……」
横になる湊人。程なく、眠りに落ちた。
「起きたら、良くなってるからね」
照明を落とし、病室を出る薫。
明日、目覚める湊人はもう薫の恋人ではない。出会う前の記憶しか持たない、別の彼。
――さようなら、私の湊人。
廊下を歩いていく。
――生きていて、欲しかったから。
たとえ私を知らない湊人だとしても。
たとえ、湊人が私にとって別人になったとしても。
薫の瞳からすう、と涙が流れる。
――それでも、私を忘れないで。
だがその願いは叶わない。
それは、神様と契約した薫がいちばんよく分かっていた。