請い願うのは
データ整理していたら見つけた、むかーしむかしに書いた短編小説。
懐かしさと恥ずかしさが入り混じってますが、日の目を見る事もないなと思って供養。
8割がた、昔のまんまです。
拙い話ですが、少しでも楽しんで頂けたら幸いです。
請い願うのは――
木々の隙間から淡く暖かい光が射し込み、地面を柔らかく照らしている。照らし出された地面の上には、小さいけれど生き生きとした草花が懸命に天に向かって伸びている姿があった。
ふと、耳を澄ませば聞こえてくるのは鳥の囀りと、木々をゆっくりと撫でていく風のざわめき。風に誘われ、進んでいくと獣道にも似た小道があるのが判る。小道を辿り、森の奥に進んで行くと一軒の小さな家があった。白い壁が陽の光で輝き、オレンジ色の三角屋根の上にある小さな煙突からは、白い煙が立ち昇っていた。
楽し気な音楽が家の中から聞こえる。不意に玄関の扉が開き、一人の女が姿を現した。白のハイネックのシャツと、足首まである白のふんわりとしたロングスカートを着た女は、玄関先までスタスタと歩みを進める。女の後ろでパタンと木製の扉が閉じる音が光の中に吸い込まれるように消えていった。
女は楽しそうに鼻歌を歌いながら、腰まである黒髪を後ろに掻き揚げ、思い切り空に向かって伸びをした。んーっという声と共に天に向かって伸ばされた両手が下ろされ、左手だけが腰へとあてがわれる。黒い瞳が、天を見つめ満足そうな笑みを浮かべた。
「今日もいい天気~」
嬉しそうに女は言い、家の方へと向き直る。その時初めて、女の背中から白い羽が生えている事が判った。
向き直ってから間を置かず、女の手が扉に伸ばされ、それをゆっくりと開いていく。乾いた音と共に、視界の景色が変わる……。
真っ白い清潔感のある壁に囲まれた空間の中に、ピンク色をした花を飾ってある四角いテーブルと二脚の椅子が置いてあった。女はテーブルを見て一瞬顔を曇らせ、首からかけてある十字架を握り締めた。
「……」
先程までの楽しそうな雰囲気とは打って変わり、静かに目を閉じ、何かを祈っている天使はどこか悲しげで儚く見える。
女が何かに祈りを捧げているその時、バキバキバキっと木々の折れる大きな音がし、その後何かが地面へとぶつかるような、ドンっという腹に響くような音が女の耳へと届いた。
女は驚き、暫くその場に立ち尽くしていたが、何か大変なことが起きたのかもしれないと、慌てて音がした方へと足を向けた。
音がしたのは家の裏側に広がっている森の方だった。庭の裏手には、毎日せっせと世話をしている小さな家庭菜園があり、それを一瞥した後、森の奥へと向かう。注意深く辺りを確認しながら進むも、知らず知らずの内にその足は歩みを速めていた。女が暫く歩いていくと、視界に一つの刀が目についた。
「血の着いた……刀?」
女は刀の傍に行こうと、茂みを掻き分けて目を見開いた。女の視界に入ってきたのは、真っ赤に染まった草の上に倒れた一人の男の姿だった。女は慌てて、男の傍へと駆け寄り、男の首に手を当てて、まず脈があるかを確認する。触れた皮膚の温もりと、指先に伝わる脈動にホッとしたように息を小さく吐き出した。
「良かった……生きてる。でもこのままじゃ危ない」
近づいて初めてその男の背中に自分とは異なる黒い翼がある事に気付いたが、女はそれに構うことなく、ピクリとも動かない男をどうするべきかと思案する。
「家に運ばなきゃ……」
このままでは何もできないと判断した女は、取り敢えず手当てをしようと思い至る。自分よりも遥かに大きい男の身体を、懸命に抱え、家へと向かって歩き出した。しかし、体格が違いすぎる為、抱え上げる事が出来ず、どうしても引きずってしまうことを申し訳なく思う反面、非力な自分では仕方ないと思いなおし家路を急ぐ。
家までに行く道のりで、真っ白だった女の服や手は、真っ赤に染まってしまっていたが、女はそれを気にすることなく、やっとの思いで、男を家の中へと運び込み、いったん床へと寝かせた。
止むを得ずではあったが、これだけ手荒に扱っても目を覚まさない悪魔を心配そうに見た後、棚の上に置いてあった救急箱を取り出し、眠る悪魔をじぃっと見つめる。
傷を見るために男が着ているボロボロになった黒い服を脱がせる。下着だけはそのままにし、薄汚れてはいるが緑の髪をしている悪魔は、身体中の至る所に刺し傷と切り傷があった。特に酷かったのは、左羽の切り傷とおなかの刺し傷だ。傷の手当ても必要だが、悪魔の身体は血と泥がこびりついていて、綺麗とは言い難い状態だった。
女はテキパキと必要な道具を揃え、まずは身体の汚れを落とすために、温めのお湯につけた清潔な布を固く絞り、丁寧に拭き清めていく。何度か手桶の水を取り替え、一通り綺麗になった所で、救急箱を開いた。女は傷にあまり強く触れないように気をつけながら、ゆっくりと男の傷口に痛みを緩和する軟膏を塗り、傷が酷い箇所には傷の治りを早くする為の薬草を張りつけ、丁寧に包帯を巻いていった。
男の手当てが一通り終わると、女は再び男を引きずり、キッチン兼リビングに隣接している自分の寝室へと必死に運び、何とかベッドへとその身体を転がした。
千切れかけている羽に負担がかかりにくい体制にした後、ふぅっと息を一つ吐き出した。
「酷い傷……一体何があったのかしら」
緑髪の悪魔にそっとシーツを掛け、血色の悪い顔を眺めた。
「まっ、そんな事は、起きてから聴けば良いよね」
女は微笑を浮かべてそう呟き、男を眠らせている部屋から静かに出た。血まみれになった床を見て苦笑し、少し何かを考えた後、再び外へと移動した。
黒髪の女は、先ほど男が倒れていた所に行き、落ちてあった白い柄の刀を広い、更にその刀の近くに落ちてあった白い鞘を拾って、刀を納めた。ズシリと重いそれを両腕で抱えるようにして持ち、金色の鍔を指でなぞる。細かい傷があるそれはデコボコとしていて、使い込まれていることが判る。木々の隙間からもれた光が鍔に当たり、キラリと煌めいた。
一瞬、眩暈を覚えてしまいそうなほどの眩しさに目を細め、女は独りごちる。
「この刀はやっぱり、あの人のなのかしら?」
女は暫く白い刀を見つめていたが、やがてそれを家の中へと運び、男を寝かせている部屋の隅へと置いた。女は十字架を握り締め、眠っている男を見て嬉しそうに微笑んだ。
男が目を覚ましたのは、女が男を家に運んでから二日後の事だった。
女は男の包帯を変えようと、男の眠っている部屋へと足を運んだ。音を立てないようにゆっくりと扉を開き、男に視線を移すと男の瞳が開かれているのが見えた。男は起きたばかりなのか、ぼんやりとしたまま天井を見つめている。
「目、覚めた?」
女が問うと、翡翠色の瞳が動きその眼の中に黒髪の女を捉えた。
「だ…れ、だ?」
低くかすれた声が女の耳へと届く。女はにこやかに笑みを浮かべた。
「私? 私はルカ。貴方は?」
男はルカの台詞を聞いて、驚きに目を見開き、ゴホゴホと咳き込む。口の中が乾き、上手く言葉を話せないのを察したルカは、近くに置いてあった水の入った瓶を手に取り、その横に一緒に置いてあったグラスへと注いで、男へと差し出した。男はそれを受け取るとゴクゴクと喉を鳴らしてそれを飲み干す。人心地ついたのか、ふーっと長く息を吐き出し、ルカには聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「この世界に、俺の名前を知らない奴がまだいたなんてな……俺もまだまだって事か」
水のお替りいる? と問い掛け、近付いてきたルカを改めて視界に映した男は、飛び上がるようにしてその身体を起こした。
「お前、天使!?」
そういって見開かれた緑色の瞳には、明らかに警戒の色があった。ルカは男に近づき、困ったように微笑んだ。
「天使……といえば天使かな? でも私は堕天使なの」
「堕天使だろうが、天使である事に変わりはねぇ! 俺は天使が大っ嫌いでね」
男はそう言って、鋭くルカを睨み付けた。その緑色の瞳は、ルカに対する嫌悪感に満ちていた。
「もしかしてその傷……天使に?」
そう聞いたルカに、男は言葉を吐き捨てた。
「天使はこんな事はやらないとでも思っていたのか? そう思っていたなら、大間違いだ。あいつらは相手が悪魔なら、容赦なんて全くしねぇ。天使は平気な顔で悪魔を殺すんだ」
明らかに無理をしている男の傷口からは、血が滲み出し、包帯をがみるみる赤く染まっていく。女は血に染まっていく包帯を見ながら、酷く悲しげな表情を浮かべていた。
「どうして……」
思わずルカの口から言葉が漏れた。男はクッと喉で笑い、ルカを冷ややかな瞳で見る。
「どうしてだと? あいつらが言うには、悪魔がいなくなってしまえば世界は平和なんだとさ。まぁ、天使と悪魔は元々、殺し合う運命だがな」
ルカは俯き、十字架をギュッと握り締めた。
「私は……そんな運命なんて信じない。私は同じ世界で生きている者同士が争うなんて可笑しいと思ってる。皆同じように生きているのに……」
「くだらねぇ、そんなのはただの理想だ。俺は、そういったのが大嫌いなんだ。聞くだけで虫唾が走る!」
ボタッと包帯に滲み出ていた血が、白いシーツの上へと落ちた。それはまるで、悪魔の涙の様だった。赤の駁模様がシーツに描き出されていく。それに気が付いたルカは、顔を上げ口を開いた。
「ごめんなさい、無理をさせてしまったみたい……包帯だけかえさせて」
女は手早く、ベッドの横にある棚から包帯を取り出した。そして男の身体に巻いてある包帯を外そうと、ルカの手が男の身体に少し触れた。
「―――うっ」
小さな呻き声が男の口から漏れる。声が出ないほどの激痛が身体中を走り、男は一瞬だけ意識を飛ばした。
「ごめんなさい、傷には触れないようにしてるんだけど……難しくて……」
ビクッと手を引き、ルカは申し訳なさそうな表情を浮かべる。男はルカの手を掴み、キッと睨んだ。
「包帯は替えなくていい。俺に……触るな。大体、俺の事なんか放っておけば良かったんだ。俺は天使に助けられるくらいなら、死んだ方がマシだ」
「放るなんて出来るわけない! 悪魔だろうと天使だろうと、皆生きているのよ? 私は生きるべき人達には生きていて欲しい! それに、死んだ方がマシだなんて言わないで……生きてさえいれば何とでもなる筈だから」
一瞬声を荒げ顔を曇らせたルカに、男は若干驚いたような表情を見せ、ため息を一つ吐き出した。
「俺はお前の言っている事が、理解出来そうにねぇ」
ルカは柔らかく微笑んだ。
「理解なんてする必要はないと思う。私は貴方が元気になってくれたら、それで良いから」
そこでハッと男の顔色が悪いことに気づいたルカは慌てたように、言葉を続けた。
「あっ、ごめんなさい。話すのもキツイよね。私は隣の部屋にいるから、何かあったら呼んで。それじゃぁ、お休みなさい」
結局、包帯を替えることなくまくしたてるようにして、ルカは部屋から出ていった。男は深い溜息を吐き出し、疲れたのかベットへと身を沈め、あっという間に深い眠りに落ちた。
ルカはしばらくの間家事をこなし、それが一段落した所で眠っている悪魔の様子を見に行った。音を立てないにそっと扉を開くと、眠っている悪魔の姿が、黒い瞳に映る。
緑髪の男は苦しそうに喘ぎ、胸を掻き毟っていた。ルカは足早に男の傍に寄り、苦しそうに上下している肩に手をかけ、その身体を揺さぶった。男は眉間にしわを寄せ、険しい表情のまま傷に手を当てる。男の胸に指の線が浮き出し、それに沿って血が流れ落ちる。ルカは掴んでいる肩に力を込め大きく男の身体を揺さぶった。
「ねぇ! 起きて!」
男はウッと小さな声を漏らし、ゆっくりと目を開いた。ルカはそれに気づきほうと息を吐きだし、手の力を緩めた。
「気がついた? 大丈夫? だいぶ魘されていたみたいだけど……傷が痛むの?」
ルカに気がついた男はビクッと身体を強張らせ身体を少しだけ起こした。ギシッとベットの軋む音が部屋に響き、二人の間に僅かな沈黙が流れる。男は苦々し気な顔をし、絞り出すような声でルカに言った。
「俺から離れろ……」
ルカは掴んでいた手を離し、男から少しだけ離れた。男はそれを確認すると浅く息を吐き出し、ルカを緑色の瞳の中に収めた。ルカは男の視線に気づき、微笑みかけた。
「これでいい? 夢の内容を話してなんて言わないけど、せめて貴方の名前を教えてくれない? 貴方じゃやっぱり呼び難くて……」
ルカの台詞に男は顔を背け、鼻で笑った。
「俺の名前が知りたきゃ、手配書でも見るんだな。そこら辺に一杯貼ってあるだろ?」
それは何かを吐き捨てている様な口調だった。ルカはじっと男を見つめ
「私は貴方の口から、名前が聞きたい」
と言った。男はジロリとルカを睨み、口を開いた。
「そんなに名前で呼びたきゃ、勝手に呼べば良いだろ。俺はお前にわざわざ名前を教える気はねぇ」
ルカはその台詞を聞いた瞬間、男にグッと近づき声を荒げた。
「勝手に名前を呼ぶなんて出来るわけないじゃない! せっかく、貴方の為に家族が付けてくれた名前を、私なんかが変えていい権利なんて何処にもない!」
男はベットに身を沈め、ルカのいる方向とは逆の方向に身体の向きを変え、ため息を一つ吐き出した。
「家族なんていねぇ」
「えっ?」
ルカは言葉を失い、じっと緑色の頭を見つめた。重い沈黙が、部屋の中を支配していく……
ルカは何か話題はないかと、男に呼びかけた。
「ねぇ……」
男はピクリとも動かず、規則的に呼吸をしている。ルカはくすりと笑い
「眠っちゃったみたい。ねぇ、貴方は嫌がるかもしれないけど、私は貴方に会えて嬉しいの。貴方が来てくれて本当に……」
黒髪の天使は男の耳元でそう囁き、嬉しそうに笑った。ルカの息が男の耳に掛かって擽ったかったのか、男はシーツの中に頭を引っ込めた。ルカは微笑みを浮かべたまま、男が眠っている部屋から出て、外へと移動した。
外に出ると、ひんやりとした空気が肌に触れ、見上げた空には細い三日月が浮かび優しく森を照らしていた。ルカは十字架を握り締め、目を閉じる。目を閉じたその顔は穏やかで、口元は微笑みを浮かべていた。柔らかな月光が黒い髪や白い翼にふりそそぐ。
月の下で祈りを捧げるその姿は、とても神秘的で、美しかった。
ルカは暫く祈り続け、それを終えると家の中へと戻り、彼女もまた眠りに着いたのだった。
***********
それから数日。相変わらず男はルカに身体を触らせることはしなかったが、用意された食事を摂り、自分で替えれる部分の包帯は自分で替えることで、渋々折り合いをつけていた。
ルカはいつものように、様子を見に男のいる部屋へと足を運んだ。今日こそは包帯を替える!と意気込む。どうしても男が自分で替えれる範囲となると、傷が酷い翼の治療が上手く出来ていなかった。せめて翼の包帯だけでも替えれないか、と思いながらルカが部屋に入った時、男は眠っていた。一瞬、眠ってる今、包帯を替えてしまおうかとも考えたが、それは何となくやめた方がいいと考え直し、部屋の掃除をすることにした。
黙々と床の拭き掃除をしていると、突然
「忘れてた!」
という声がし、男がガバッと勢いよく起き上がった。そのあと、傷が痛んだのか、再びベッドへと倒れ込む。ルカは掃除している手を止め、その一連の行動を見届けた後、疑問を口にした。
「忘れてたって何を?」
男は驚いたように一瞬目を見開き、声がした方を見た。床にしゃがんだ格好の天使をバツが悪そうに見たあと、ゆっくりと口が開かれた。
「お前いたのか……」
「包帯、替えたくて来たの」
手に持っていた雑巾をバケツの中へと放って立ち上がり、男の顔を覗き込む。男は顔を見られるのを煩わしそうにしつつも、会話を続ける。
「そんな事はどうでもいい。俺の刀はどこにある?」
「刀? 刀って白い?」
ルカの脳裏に浮かんだのは男を見つけたあの日、その傍らに落ちていた刀だった。
「あぁ、俺の大事な刀だ」
そう言って男は翠の瞳でルカを捕らえた。ルカはそれに動じる事なく応える。
「それなら、貴方の横に落ちてたから持ってきたけど……」
「返せ」
強い口調で言われたそれを気にするでもなく、ルカは暫く何かを考え、にっこりと微笑んだ。男はその笑みに何かを感じたのか、妙な表情を浮かべた。
「何だ?」
ルカは笑顔のまま
「刀を返す代わりに、貴方の名前、私に教えて! 名前を教えてくれなきゃ、刀は返さない」
と、いきなり男に交換条件を突きつけた。男は少しの間、思考回路が停止し、言われた事を理解するのに時間がかかった。
「何なんだ……そのわけの判らん条件は」
頭を抱え、げんなりとしたように言う男にルカは苦笑いを浮かべ
「いいじゃない。名前くらい。誰も仲良くして何て言わないから……私はただ、貴方の名前が知りたいの」
と告げた。男は何か思う所でもあるのか、たっぷり1分は沈黙し、目を閉じて小さく息を吐き出した。
「一度しか言わねぇからな」
ルカはその台詞を聞くと、パッと顔を輝かせ男の傍に寄った。
「教えてくれるの!? 有り難う」
男は身体を仰け反らせ、ルカから顔を離して深い溜息を吐き出した。男の瞳には嬉しそうに笑っているルカの姿が映っている。
「レイスだ」
緑髪の男はそれだけ言って、ルカから視線を外した。
「レイス……レイス、ね。よし! 覚えた」
ルカは満面の笑みでそう言って、レイスのそばから離れ、部屋の隅においてある刀を手に取った。拾ってきた時と同様にズシッとした刀の重みがルカの手に伝わる。それを両手で抱え、レイスに差し出した。レイスは刀を受け取り、安堵したような表情を一瞬だけ浮かべ、大事そうにそれに触れた。
その時ベット脇にある窓から光が差し込み、レイスを照らし出した。陽の光に輝く金色の鍔と、白いシーツの中にいる緑色の髪をした悪魔の姿はどこか幻想的で、ルカは暫しその光景に見惚れていた。
「レイスの髪って……」
ルカがそこまで呟くとレイスは刀から視線を外し、言葉を吐き捨てた。
「変わってるって言いたいんだろ? 俺はこの髪と目の色のせいで、親に捨てられたんだからな」
この世界で悪魔の髪は黒か赤、瞳は黒や赤、もしくは金が一般的で、確かに新緑のようなレイスの髪と瞳は珍しいものだった。
ルカは憎々しく言うレイスに近づき、首を横に振って優しく微笑む。
「ううん、綺麗って言いたかったの。日の光に透けて輝く若葉みたいで、綺麗だって私は思う。それに、人と違う何かを持ってるって凄いことだと思う。それは自分を持ってるって証になると思うから、私はレイスの髪と眼の色は好きよ」
ルカがそう言った瞬間、小さな金属音がし鋭い刃物の切っ先が、ルカの喉元に当てられた。
「俺の髪と目が綺麗だと? 何を馬鹿なことを……つーか、俺に刀を渡したらこうするって思わなかったのか? 俺は天使が嫌いなんだ! 殺したいほどにな!」
血に飢えた獣のように獰猛な瞳でレイスはルカを見た。ルカは仰け反る事もせず、黒い真剣な瞳で息を荒げる悪魔を見つめ返した。
「別にレイスがどう思ったっていい。それはレイスの自由だから……だけど今殺されるのは困る。私はレイスの傷が完治するのを見るまでは、死ぬに死ねない」
少しだけ考えるような仕草をし、思いついたままに言葉を更に紡ぐ。
「そうね。レイスの傷が完治してしまったその時は、私の事殺していいよ。レイスの傷さえ完治してしまえば私に悔いはないから」
レイスは手に限界が来ているのか、刀を持つ手が痙攣している。肩に巻いている包帯から血が滲み出し、シーツへと落ちた。
「その言葉、本当だろうな?」
ルカはそのレイスの言葉に、笑顔で答えた。
「うん、いいよ。殺しても」
そうルカが言ったのを確認して、レイスは刀を下ろし、刺すような瞳でルカを見る。
「俺の傷が完治したその時は、お前の事を殺す! 例えお前が、その時死にたくないと言ってもだ!」
「判ってる」
黒髪の天使は綺麗な笑みを浮かべ、緑眼の悪魔を見た。レイスはそんなルカに微かに疑問を覚えたが、それは気のせいだと自分に言い聞かせ、二人は死の契約を交わしたのだった。
***********
二人が死の契約を交わして、およそ一ヶ月の時が経過した。レイスの傷は、ルカの甲斐甲斐しい治療も手伝って、腹部と翼の傷以外全て完治していた。家の中を歩き回れるようになったレイスに、ルカはまず家にある布を使って作った白い服を与えた。嫌そうな顔をしつつも、それを着てくれた悪魔に嬉しそうに話しかける。最初は面倒臭そうに応えていたレイスも、最近ではルカの問い掛けに普通に答えるようになっていた。
どうやら、一ヶ月という時間はレイスの傷だけではなく、心にも変化を与えたようだ。
そんなある日、レイスは外に出てぼんやりと空を眺めていた。透き通るような蒼い空に、無数の白い雲が浮かんでいる。暖かな風が、空の下に佇む悪魔の横をすり抜けていった。
「レイス、どうしたの?」
家から顔を出したルカが、空を眺めているレイスに問い掛けた。レイスは空からルカへと視線を移し、静かに答えた。
「どうもしないが……ここは本当に穏やかな場所だな」
ルカは柔らかく微笑み、レイスの傍へと歩み寄る。
「何にもないだけ、なんだけどね。でも、私は穏やかなのは好き。レイスはこういうのには慣れてないんだっけ」
レイスは再び空を見つめ、陽の光が眩しいのか少しだけ顔を顰めた。
「まぁな、俺が住んでた冥界は平穏だとか、平和だとか言う類のものには無縁だからな。それに陽の光は届かねぇ」
レイスはそう言って再びルカの方を見る。ルカはそんなレイスに
「レイス、私ね。平和が好きなの」
と言って満面の笑みを浮かべた。その笑顔を見たレイスは一瞬止まり、ルカから目を逸らした。
「どうしたの?」
「何でもねぇ。そういや前々から気になってたんだが、お前はどうして翼が残ってるんだ? 普通、堕天使って言うのは片方の翼が切られるんじゃなかったか?」
ルカは少しだけ、顔を曇らせて空を見つめ
「私の罪は軽かったから、翼は残して貰えたの。私はただ、怪我した魔獣の子どもを治療してあげただけだから……」
魔獣は本来、冥界にしかいない生き物だ。天使であるルカが魔獣を知らず、ただの動物の子どもだと思って手当てをしても仕方がないことだった。
「でも、魔獣だってわかって、その子、処分されちゃったの。それに抗議したら、堕天使の証として腕に十字の傷を入れられて、天界からは追放されちゃった」
と言ってレイスの方を向き、右腕の袖を捲り上げ十字の深い傷が刻まれているのを見せた。レイスはちらりと傷を見て、それから目を背けた。
「お前は……そういう事をされても、誰も恨まないんだな」
「恨むのは簡単。でも、それって楽しくないじゃない? だから私はそれはしないようにしてる」
レイスは「そうか」と一言だけ呟き、虚空を見つめた。ルカはその横で小さく微笑み、吹き抜けていく風を身体で感じていた。
二人は暫く外でのんびりと過ごし、陽が沈み夜の帳が降りる頃に家の中へと入った。
レイスは、傷を早く治す為、食事を摂るとすぐに眠りに着いた。ルカの方は食べた食器類を片付け、一息つくために紅茶を作っていた。
不意にコンコンッとドアをノックする乾いた音がし、ルカはカップに紅茶を注いでいた手を止め、扉を開いた。
「はい」
ルカが開いた扉の前にいたのは、大きな白い翼を持つ銀髪の天使だった。明らかに階級の高い天使は、腰まである銀色の長い髪を1つにくくり、銀色に輝く鎧を身に着けていた。その腰には剣が1つ下げられている。どう見てもこの家を訪ねてくるには仰々しい姿にルカは驚きを隠さず、口を開いた。
「何か?」
天使はそれに冷ややかに答えた。
「貴方が何も悪い事をしていないか、視察に来ました。家の中を調べさせて貰います」
「え?」
突然の事に思考がついていっていないルカを押し退け、天使は家の中へと勝手に上がり込み、棚などの隙間やクローゼットなどを開けてチェックを始めた。暫く呆然としていたルカはハッとし、銀髪の天使の前を遮り、氷蒼の瞳に映りこむ。
「勝手に家のものを見るのは困ります。それに視察はついこの間、管轄の者が来たはずです」
と告げると、天使は冷たく微笑み
「やましい事がなければ見られても問題はない筈。違いますか?」
取り付く島もなく、銀髪の天使は部屋のチェックを続ける。ルカはレイスのいる部屋をチラリと見て、ギュッと自分の腕を掴んだ。
「あの、紅茶でも飲みませんか?」
ルカは取り敢えず何とかしようと、天使に紅茶を勧めてみたが、天使はルカの言葉など聴いていないらしくレイスのいる部屋の扉へと手を掛けた。ルカはそれを押しのけるようにして扉の前に立ちはだかった。
「そこを退きなさい」
「嫌です。どうして貴方に部屋を見せないといけないの? ここは私の家よ。貴方が勝手に荒らしていい理由なんて何処にもない!」
ルカは必死にレイスを守ろうと、そんな事を言って天使に歯向かった。天使は溜息を吐き出し、腰に差してあった剣を抜いた。
「貴方の今の発言は、反逆とみなします」
と淡々と言ったかと思うと、ルカの左の翼をいきなり切り落とした。
「―――ああああっ」
ルカはあまりの激痛に体勢を崩し、床へと膝を付いた。白い羽が宙を舞いルカの流した血の水溜りへと落ちる。翼から流れた血はルカの背中を紅く染めたが、天使はそれを気にする様子もなく、扉を開き中へと歩みを進めた。ルカは痛みを堪えて立ち上がり、天使の後を追うようにして部屋の中へと入った。
「どうやら貴方は完全に、気が触れてしまったようですね。貴方はここに眠っている男が、どれだけの重罪人か判っているのですか?」
ヨロヨロと入ってきたルカに、怒った様な口調で天使は言い放ち、剣の切っ先をレイスに向けた。
「やめて!」
ルカは必死にレイスの所へと駆け寄り、天使をじっと見て言葉を紡いだ。何の感情も温度もないその表情に知らず涙が溢れる。
「私は、レイスが何をやったかなんて知らない。でも、殺して何になるって言うの? レイスを殺したからって何かが変わるの? 誰かを殺さなきゃ変わらない世界なんて、結局は何も変わらない!」
キッと黒い瞳で天使を睨み、吐き出された言葉は、ルカの心からの叫びだった。ルカの言葉を受け、天使の目がすうっと細められた。
「貴方の思想は危険ですね」
流石の騒がしさに、レイスがぼんやりと目を覚ました。
「? どうしたんだ?」
状況が全く把握できていないレイスの声を聞いた瞬間
「悪魔など、全て滅んでしまえばいいのです!」
銀髪の天使は緑眼の悪魔目掛けて、刃を勢いよく振り下ろした。風の切れる音が部屋に響き渡った時、ルカはレイスを庇い、刃が背中から胸へと突き立てられた。こふりと女の口から一筋の血が滴り落ちる……。
それはボタボタとレイスの顔を濡らした。悪魔は生温かく、鉄臭いそれをどこか遠くに感じながら、驚いたように目を見開き、ベットに崩れ落ちたルカを見つめた。
「おい、お前……俺を庇ったのか? なんて馬鹿なことを」
そう言ったレイスの言葉に、鎧を着た天使が反応し口を開く。
「全くです。悪魔を庇うなど、どうかしている。この者は、温情など与えず天界で処刑すべき者だったようですね」
冷笑を浮かべ虫の息になっているルカを一瞥し、戸惑いを見せる悪魔に氷蒼の瞳を向けた。
「まぁ、手間が省けたのでよしとしましょう。今は悪魔の貴方を殺す方が優先です」
レイスは剣を構えた天使を、憎悪の篭った眼で射抜く。湧き上がってくる怒りに身体が震え、枕元においてあった刀を素早く掴んで、抜き放ち、ベットから飛び出した。
「テメェは本当に天使なのか? 天使っていうのはコイツみたいな奴のことを言うんじゃねぇのか!」
と言ったのとほぼ同時に、レイスは剣を構えた天使を容赦なく切り捨てていた。あまりの速さに天使は声を発する間もなく、頭と胴が分かれ、床に倒れた。天使から吹き出す血が辺りを汚すがそれを構うことなく、レイスは刀を振り、付着した血を落とすと、刀を鞘に納めベットに倒れているルカに声を掛けた。
「おい!」
ルカはうっすらと目を開き、弱々しくレイスに微笑んだ。
「レ……ス……無事?」
掠れた声で聞いてくるルカにレイスは
「俺は無事だ。そんな事より、何で俺を庇った? 俺はお前を殺そうとしている奴なんだぞ? 俺なんか見殺しにすれば良いだろ!」
と声を荒げて言うと、ルカは力を振り絞って手を伸ばし、レイスの頬に触り微笑んだ。ルカの脳裏に浮かぶのは、天界を追放され、1人でこの森で暮らした日々。そして、レイスが来てからの一月の出来事だった。
「……イス…事が…好き……から。…ずっと、孤独……った…私……一緒に、いて……たから……嬉……ったの」
レイスは思わずルカをギュッと抱き寄せた。細い身体が冷えていくのを肌で感じながら、レイスは意識の消えかけている、ルカの耳元で囁いた。
「……本当に馬鹿だな……お前……」
その言葉を聴いてルカは嬉しそうに微笑み、
「あ…りが……と…。約束、守……くて…ごめ……さい…」
と、途切れ途切れに言葉を言い残し、永久の眠りへとついた。
レイスは動かなくなったルカの身体を力いっぱい抱き締めた。緑眼の瞳から一筋の涙が知らず知らずの内に零れ落ちた。そっと目を閉じれば綺麗に微笑む姿が瞼に焼き付いている。目を瞑った拍子に落ちた涙は血で汚れた白銀の十字架を濡らす。
「俺なんて庇うなよ……どうしていいか判らなくなるだろ……俺は……」
レイスはそこで言葉を飲み込み、ルカの十字架に目をやった。
「お前はいつもこの十字架に、何を祈っていたんだ? ルカ――」
初めて呼んだ名前は亡骸の上に落とされた。それを掻き消すかのように窓から冷たい風が吹き込み、真っ赤に染まった部屋を通り過ぎていく。
窓から外を見渡せば、静寂に包まれた森は朱い月に不気味に照らされていた。レイスは彼女と過ごした短い日々を思い、ルカの十字架を硬く握り締め、冷たくなった胸に顔を埋め嗚咽を殺した。
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森の奥の小さな家の庭に、1つの墓標。その墓前に供えられた小さな白い花が暖かな光を浴びている。
その墓標の前には緑色の髪の悪魔が立っていた。黒い服を身に纏い腰に刀を差し、革で出来た胸当てを付けている。今から戦いにでも赴きそうなその出で立ちには似つかわしい、白銀の十字架が首から下がっていた。
翡翠色の瞳が墓標から空へと移り、澄んだ青空を映し出す。眩しそうに細められた目はやがて、切なげに歪んだ。
悪魔は首にかけてある十字架を手に取り、それにそっと口づける。
もしも赦されるのならば、お前との日々を――
そう願う彼がどうなったのか、誰も知るものはいなかった。
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