8月18日
なんだか何日分を書いているのかわからなくなってきた。
あと昨日の記憶がほぼない。今日何曜日だっけ?
これが…夏休み…
今日は明日の帰省に備えて部屋の掃除をした。
水周りの掃除は多少のストレスが伴うが、それだけに終わったときの達成感はひとしおだ。
やはり健全な生活には多少の毒素も必要なのである。
私は常に健やかな精神と肉体を維持できるように意識している。
食事は腹八分目を常に心がけているし、朝はバナナ、昼か夜にはできるだけ野菜を摂る。
睡眠の前には全てが些事であるし、自己満足の有酸素運動、筋肉トレーニングも行う。
だが、外出を億劫に感じるため長期休みは人との触れ合いが減少する。
自然と会話が減るわけだ。
これは果たして健全な生活と言えるのだろうか?
答えはイエスだ。
無論見る人が見ればノーというのかもしれないが、
私はこれが人が営む最も健全な生活に近いものだと思っている。
そも、価値観は人によって違う。
池袋の書店に行くたびに、「君を嫌いなやつはクズだよ」というタイトルの本を目にする。(見すぎてタイトルを覚えてしまった)
中身は読んでいないが、タイトルはごもっともである。
人間は一人称視点でしか物事を正確に測れない生き物だ。
故に自分の尺度が絶対的尺度であり、他人の意見など二の次三の次だ。
自分が認められない環境ならそこを脱したほうがいいかもしれない。
また、他人に無干渉であるのは強力な保身だ。
人に煽られたときにムキにならない。
人の自己顕示欲の発露を受け流せる。
人の行いを全て良しとできる。
これを徹底できる人間ほど強いものはいない。
何故なら好きの対義語は無関心であるからだ。
自分が関心を示さなければ相手は視界から消える。
私はそうやって自分の周りを浄化しているし、これからもそうやって生きていくのだろう。
最初に健全な生活には多少の毒素も必要なのであると書いたが、私にとって健全な生活に要する毒素とは
主体的なものだ。
理由は自分の行動次第で容易に解決できるからだ。
逆に、有毒な毒素とは他人から与えられるストレスだ。
これは実に厄介で、一朝一夕で解決しない場合が多い。被害を受けたあとは対象を放置することも難しく、連日炎の中にいることになる。
置かれた場所で咲け、とはよく言ったものだが、
置かれた場所が足元は毒素で周囲を火に囲まれたヒドラのウロコの上だったら人は咲けるのだろうか…?
もし私が一輪の花であれば、できるだけ多くの唐辛子をウロコの隙間に塗りたくり、未開の地に向けて飛び降りるだろう。
ところでこれ何の日記だ?
あ、あとお昼寝した!
起きたら7時半で外真っ暗で絶望しました!