夢の卵(作:葵生りん)
学生時代、早く社会人になりたいと思ってた。
スマホだって好きなだけ使えるし、自由に遊べるし。
なんたって、社会人になったらもう勉強なんてしなくていいんだから。
「おぅい新人。この坂本さんちの経営計画書の作付予定品目、WCSってなってるけど、あそこラッピングのローラーなんて持ってたか? 持ってなくて作業受託するなら経費にあげなきゃだし、ローラーがあるなら減価償却費を計上しないといかん。飼料稲なら売上単価の修正が必要だから、そのへんの確認とっといてくれな」
「……はい?」
唐突な係長の言葉は、仕事の指示だという認識がやっとだった。
(WCS? ラッピング? ナニソレ??)
「坂本さんちの経営状況だと、融資会議に通るかどうかギリだからな。しっかり確認しとけよ」
メモを取るにも取れずペンはメモ紙に点をおいたまま動けないのに、係長は自席へと戻っていった。
(はぁ~……ナメてたわ……)
目の前のノートには「WCS」だの「免牛」だの「マルチ」だのといった、暗号にしか思えないくらい耳に馴染まない言葉がずらりと並ぶ。隣席で係長と私のやりとりを聞いては先輩が教えてくれる農業関係の用語達だ。
しかも窓口でお客さまから聞き取りをする時は、農業用語に加えて方言まで解読しなくてはいけない。いくら地元出身とはいえ、テレビで標準語を覚えてきた私たち世代が、祖父母以上の年代のお客さんのネイティブな方言を聞き取るのは正直、英検2級並のリスニング能力が必要だ。
そのノートを見るにつけ、学生時代の私はかんっぜんに社会人ってものを、仕事というものを、ナメ腐っていたんだということが身に染みた。
高校卒業後はJAって銀行みたいなもんでしょ、と軽く考えて親に勧められるまま地元のJAに就職した。最初の3年は、そのイメージの通りに窓口で決められた作業をこなすだけだった。でも4年目の今年春に融資の担当課に異動になってから、気づいた。
勉強っていうものは、社会人が仕事をする上でも必要なんだってこと。
――ピロリロピン♪
不意に、スマホがlineのメッセージの着信を告げた。正規の勤務時間内ならスマホや携帯を触ることは禁止だけれど、今は残業中だ。鞄から取り出すと表示された名前は学生時代からの友人・祐子だった。
プッシュ通知をタップしてアプリを開くと、かわいらしいネコの『こんばんは』スタンプになごむ。時計を見ればもう7時を回っている。
『ごめん。まだ職場だから、あとで連絡する』
これ以上暗号解読する気力もなくなっていたところだから、パソコンの電源を落とし、書類の片づけをしながら返信する。
『そっか、大変だね。都合のいいときに電話ちょうだい』
了解のスタンプを送った頃、自席のパソコンの電源が落ちた。
まだ残っていた同僚達に挨拶をして帰宅すれば、冷めかけていた夕食の唐揚げを母が温めなおしてくれる。その間は、暇つぶしにスマホゲームをしたり、SNSをチェックしたりして、夕食が済んだらお風呂に入る。
自分の部屋に落ち着いた頃には9時をまわっていた。電話してとは言っていたけど、もしかしたらこどもを寝かせつけているしれない時間帯だから、まずはlineを送る。
『電話、大丈夫?』
すぐには返信はなかったし既読もつかなかったから、まただらだらとスマホゲームをしたり、電子書籍のマンガを読んだりして待った。
祐子からの着信があったのは、11時を回った頃だ。
「もしもし? ごめんね、こども寝かせつけてそのまま寝ちゃってた」
「ううん大丈夫」
すぐにスマホを耳にあてると、懐かしい祐子の声が聞こえてくる。lineはしょっちゅうしてるけどたいていの用事がそれで済んでしまうから、電話をするのは数ヶ月に一度くらいだ。
しばらくは祐子のこどもが寝返りするようになったんだとか、こっちはこっちで職場のグチをこぼしてみたり、そんな取り留めのない世間話に花が咲く。
「――ねぇ、優美はもう小説とか書かないの?」
「え? うーん、あんまり時間がなくって。祐子はなんかそういうサイトに投稿してるんだっけ?」
「うん、絵本をちょっとだけね。それでね、電話したのって報告したいことがあったからなんだけど」
「なに?」
「あのね、ちっちゃい賞なんだけど……受賞、しちゃった」
「えっ……!」
一瞬、言葉に詰まった。
「すごい!すごいじゃん! おめでとう!! 祐子、がんばってたもんね」
「えへへ、ありがと」
「あ、じゃあ今度ご飯食べにいこう。受賞のお祝いにおごる」
「いいの? ありがとう。じゃあね、行ってみたい店があるんだけどいいかなぁ?」
ちいさな祝賀会の時間や場所を打ち合わせているあいだ、うれしいのと同じくらい、もやもやしてた。びっくりしたっていうのも一因だったけど、すぐに「おめでとう」って言葉が出てこなかった、そのことに。
祐子が妊娠中のつわりやあかちゃんの夜泣きやぐずりで大変でも、少しずつ描いてネットに投稿し続けているっていうのは知ってた。だから、そんな作品が評価されたのなら、心から祝福してあげるべきなのに。
私が書かなくなったのは、いつからだったのだろう。
就職してから、じわじわと想像の世界と現実の切り替えが面倒になってきて――1年後には、もう書かなくなっていたと思う。
何度か祐子に誘われたけど気乗りしなくて、あいまいな返事をし続けた。
学生の頃は、私が小説、祐子がマンガを書いていた。キャラや設定をふたりで考えて、ストーリーは私、作画は祐子で一緒に作った作品もあったっけ。
(あの頃は、楽しかったなぁ……)
戻りたい、と。
そんな気持ちが心の隅っこにひっかった。
「はー、おいしかったねぇ」
「うんうん、特にあのナンコツの赤ワイン煮ね!」
「デザートのブリュレも~」
週末、ちょっとだけ贅沢なランチで祝賀会を決行した帰り道。
並んで歩く祐子に抱っこされたあかちゃんは気持ちよさそうに眠っている。その寝顔がかわいらしくて、のぞきこむふたりの口元はふにゃりと緩む。
「ねぇ優美、ちょっと寄り道して帰ろう?」
「いいよ」
楽しい時間を延長できるなら願ってもないことだから二つ返事でOKした。
「でも、どこ行くの?」
「う~んとね、図書館……?」
「図書館って、市立図書館?」
「ううん。なんていうか……うん。まぁ、行けばわかるよ。それよりさ……」
とりとめのない話をする祐子に続いててくてくと歩いていくと、突然彼女が足を止めた。
「あ、あった! やっぱりここにあったんだぁ!」
嬉しそうにはしゃぐ祐子が見つめていたのは、まるでギリシャの神殿みたいな建物だった。正面には「world library」という看板が掛かっている。
「……世界の、図書館……?」
最近出来たとは思えない、時の流れを感じさせる風格の建物だけれど――その場所は、前に見たときは空き地ではなかっただろうか?
「優美、行こっ!」
祐子に手を引かれて重そうな扉の奥に足を踏み込む。
一瞬めまいがしたような錯覚がしたのは、一気に視界が暗くなったせいかもしれない。短い廊下の先には、もう一枚、重そうな扉があった。
薄暗いのは、蔵書が日焼けしないように、なのだろうか。それとも雰囲気作りなのあろうか。今時、照明がランプだなんて。
あたりを見回しているうちに、祐子が奥の扉に手をかける。
「ふ、わぁ……っ!」
笑みを浮かべた祐子が押し開けた扉の向こう側の世界に、思わず感嘆の息が漏れた。
仄かに光る天井は、まるでプラネタリウムのような天球儀だ。室内は円筒状で、その壁という壁には本棚で埋まっていて、地下に向かう螺旋階段のようだ。手すりに掴まってちらりと下をのぞくと、吸い込まれそうなほど真っ暗で底は見えなかった。
壁の本棚はびっしりと背表紙が並んでいる。薄いのも厚いのも、大きいのも小さいのも、不規則に。どこの本屋に並んでいるような本もあれば、手作りっぽい絵本もある。
「ここは世界中のありとあらゆる本が収蔵されている図書館なんだよ」
「……うそ。そんなこと、無理でしょ……?」
祐子の言葉に反応するように、不意に本棚の一番端にぼんやりと細長い光が生まれた。光はすぐに消え、そこにはさっきまではなかった一冊の本があった。
首を傾げているうちにまた、今度はさっきよりももっと細長い光が生まれ、そして本を残して消えた。
祐子がたった今、新しく生まれた本を手にとっていとおしげにパラパラとめくってから、私に差し出した。
「見て」
それはノートだった。
どこにでも売っている方眼ノート。
こどもっぽい汚い字でタイトルみたいなものと、本名なのかペンネームなのか判別つかない名前が鉛筆で書かれていた。
中身はマンガだった。へたくそだけど、一生懸命に描いたってことはわかるマンガだった。
「本を検索、お手伝いいたしますよ」
喉が詰まる思いでノートを見つめていると見知ぬ女性が声をかけてきた。慌てて振り返れば、薄闇に映える白髪がまず目についた。それから、瑠璃色の瞳。まるでファンタジーゲームに出てくる聖職者のような衣装を身にまとったその若い女性は、優しげな笑みを浮かべていた。
「申し遅れました。わたしはこの図書館で司書をしております、ルミエールと申します。お探しの本はこちらですよ」
勝手に階段を下り始めた背中を呆然と眺めていると、祐子がぽんと肩を叩いた。
「大丈夫。わたしも前に一回きたことあるから」
祐子に手を引かれ、戸惑いながらも階段を下りていく。
どのくらい、階段を降りたのだろう?
延々と同じ風景だから感覚ではよくわからないけれど、一時間くらい歩いたんじゃないだろうか。
「あなたが探している本は、こちらではないでしょうか?」
司書のルミエールさんが手のひらで示した本棚には、くたびれた5冊のノートがあった。
名前もなにも書いていないけれど、そのどこにでも売っている大学ノートが誰の物かは、一目でわかった。毎日毎日、1分でも時間があればあのノートを開いていた、かつてのわたしの背中が見えたような気がしたほどだ。
「この図書館は貸し出しはしておりませんが、閲覧はご自由にどうぞ」
丁寧に本棚から取り出されたノートを差し出され、ドキリとした。受け取る手は、なぜだか震えていた。
今も、部屋のどこかにしまってあるはずのノート。
開くと、一冊目はネタ帳のような、思いつきの殴り書き。二冊目は、設定集。あちこち二重線で消して書き直したり、大きく×がつけられていたり、丸で囲んであったりする。
三冊目からが小説だった。我ながら雑な字だった。
だってあの頃は、手が追い付かないくらい噴水みたいに溢れてくる物語をノートに書き留めていくのがまどろっこしかったんだもの、と今の自分に言い訳をする。
でも、推敲だけは丁寧に何度も何度も繰り返した跡があって――。
数ページめくったら、こらえきれずにぱたりとノートを閉じた。
すると、閉じた表紙をぱたぱたと涙の粒が打った。
「あっ、ごめんなさい!」
「大丈夫ですよ。この図書室の本は、傷む心配がありませんから」
慌ててルミエールさんにノートを返したが、彼女は丁寧にノートについた涙を拭いながら微笑んだ。
「もう、よろしいのですか?」
「……はい」
「そうですか」
ルミエールさんも裕子も、にこりと笑っていた。
だからつい、つられてわたしも微笑んだけれど、涙は頬を伝っていく。
どうしてだろう。
胸が熱い。
涙が、止まらない。
「あのね。わたしも実は去年、描くのがつらくなって、もう筆を置こうと思ったの。でもそんなとき、偶然この図書館にきたの。それでね、思い出したんだ。あの頃、溢れて止まらなかった『書きたい!』って気持ちを。だから、優美を連れてきたかったの」
背中にそっと添えられた祐子の手のひらの温度に、さらに胸が詰まった。
――『夢の卵』。
それが、あの頃何百回も読み直し、書き直し続けた物語のタイトル。
そしてまだ書き終わっていない物語のタイトル。
ネタ帳や設定集には、まだほかの物語もいっぱい詰まってる。
あのノートは、物語達は、あんな階段を延々と降りなくても、わたしの部屋の片隅で今もまだ続きを書いてもらうのを待っている。