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陽が落ちる頃になり、ようやく空にちらほらと雲間が見られるようになっていた。
目ではなんとか確認できるものの、雨が降っているのかどうか。雨が傘に当たる音では、それが確かめられないくらいに、雨はほとんど降り止んでいる。
けれど、葵さんはまだ蛇の目傘を差していた。
僕だけが四阿の屋根の下にいることも、変わらずで。彼女はこちらに入ってこようとはしない。
そのことに少し寂しさを感じつつも、僕は葵さんの好きなようにさせていた。
期待していたんだけどなぁ……。
結局。しゃぼん玉遊びは、不思議なことなんて何にも起きないまま、しゃぼん液切れで終わってしまっていた。
サイダーの缶も、もうとっくに空き缶用のゴミ箱行きになっていて、僕の両手は空いている。
残りはあと三つ。ブレザーのポケットから、キャラメルを一つ取り出す。
「葵さん。はい、あーん」
銀紙をむいて、キャラメルを葵さんの口の前に持っていく。
さすがにもう免疫ができてしまったんだろう。顔を赤く染めることもなく、葵さんはぱくりとキャラメルに食いついた。
うーん……反応が薄いなあ。
……つまらないなあ。
声に出したら、葵さんに怒られてしまいそうな。そんなことを思いながら、もう一度ポケットに手を入れる。
葵さんの顔だけじゃなく、今日はもう町も赤く染まることはなさそうだな。
夕陽が隠された空と、眼下に広がる町を見て、思う。
舌が柔らかな甘みを感じ。それが口の中にゆっくりと広がっていく。
これで、キャラメルもあと一つだけ。
明日探しは一向に進まず、夜が間近に迫っている。
三十分と待たず、町は夜の帳に覆われてしまうだろう。
このまま何もしていなくても、時は進む。
夜になり、やがて朝になる。夜が明ければ、「明日」はやって来る。
だけど。それは、葵さんの探している「明日」ではないだろう。
ここで葵さんと二人、かつての城下町を見下ろしていたところで、葵さんに「明日」はやって来ないだろう。
ただ無為に時間が過ぎていくだけで、彼女の探しものが見つかるとは思えない。
だからといって、どこへ行けばいいかも分からず、何をすればいいかも分からない。
……困ったな。何にも思いつかないや。
万策は尽きず。けれど、手掛かりが何にもないんじゃ、ほんの数策すらも用意できない。
「葵さん」
僕は葵さんに声を掛けた。
こんな時は、やっぱり……。
「君はどうしたい? これから、どうする? 何をしたい? どこか行きたいところはある?」
明日を探しているのは葵さんなんだし、本人に訊くべきだろう。
彼女を無視し、僕が勝手に決めてしまっていいわけがない。
ちゃんと、葵さんの考えや思いも聞かなきゃダメだよな。
けれど。彼女から返ってきた答えは……。
「正樹お兄ちゃんの好きにしてくれたら、いいよ。お兄ちゃんが決めて」
……というものだった。
「わたしは、お兄ちゃんに着いていくから」
と、その言い草に、少しムカッとくる。
好きにして、とか。着いていく、とか。
お兄ちゃんが決めて、って……自分のことだろうに。そんな人任せじゃダメだろ、と叱ってやりたくもなる。
でも。任せてくれるってことは、ちょっとは信頼してくれているのかな。
と、少し嬉しくもなる。
なら、その信頼に応えるべく頑張らなきゃな。
ポジティブシンキングを支持し、僕はまた明日探しの方法を考え始めた。
けれど……。
やっぱり、何も思いつかない。
ポジティブシンキングは、徐々に勢いをなくしていく。
我関せず、と言わんばかり。何の情けも容赦もなく、ただ無為に時は流れ、時間だけが過ぎ去っていく……。
まったくもって、頼りにならないお兄ちゃんだな……。
辺りはすっかり真っ暗になり、ぽつぽつと配置された街灯には明かりが点っていた。
眼下に広がっていた古い町並みも、闇の中に埋もれ、溶け込んでしまっている。
空も夜色に変わり、それだけじゃなく、その表情まで変化させている。
夜空に、こういう表現を使うのは、おかしいかもしれないけれど。空は晴天になっていた。
まだ雲は残っているけれど、星もしっかり見える。
満月と呼ぶには、少し丸みが足りない歪な月も、邪魔者のいない夜空で散歩を楽しんでいる。
空から落ちてくる雨粒はもうない。
雨はとっくに降り止んでいた。
なのに。葵さんの頭の上には、まだ蛇の目の模様が輪を作っていた。
もう傘なんて差していても、無意味なのに。いや……街灯から葵さんに届く明かりを弱めていたりするから、無意味どころか邪魔でさえあると思う。
それなのに、葵さんは変わらず傘を差したままでいる。
もしかしたら、不思議さんとして、葵さんと蛇の目傘は、切っても切れないワンセットということなのかもしれないけれど……。
僕には、葵さんが傘を差しっ放しでいることが、どうにも気になってしょうがなかった。
そして、どこか気に入らなかった。
「葵さん、雨はもう止んでるよ」
僕は葵さんに声を掛け、分かりきったこと言った。
「うん……」
生返事にすらなっていないような、気のない返事が返ってくる。
「傘、畳まないの?」
「うん」
また同じ答えが返ってきた。でも、同じ答えでも、今度は生返事じゃない。ちゃんと、葵さんの意思が込められている。
「どうして? もう雨は降っていないんだから、傘なんて差す必要はないだろ?」
馬鹿馬鹿しいほどに当たり前のことを、僕は訊ねた。
こんなことをわざわざ人に訊くなんて、生まれて初めのことだ。
葵さんは、僕の問いに「必要がある」とは答えなかった。
けれど、やっぱり傘を畳む気はないらしく。
「……いいの。わたしは、これで良いんだ」
僕の顔を見て、葵さんはそんな言い方をした。
これで良いんだ……って、何がだ?
そんな寂しそうな顔をして……何が「いいの」なんだ。
明らかに、「良くない」って表情をしているくせに……。
一致しない、葵さんの言葉と表情。それが僕を苛立たせる。
嘘は吐いていないのかもしれない。だけど、葵さんは自分の心を偽っている……。
だから、「いいの」なんて答えで納得できるわけがない。
「雨だけじゃなくて、雲ももうほとんどないから。星もたくさん見えるし、今夜の夜空は綺麗だよ」
言いながら、僕は四阿の外に出た。
屋根という覆いが無くなり、僕の上に広がる世界はどこまでも夜空だけになる。
城跡の高台は、最高の星見スポットだった。
この町で夜に煌めきを探すなら、地上の夜景もよりも天の星空だ。
「だけど、そんな傘を差してちゃよく見えないだろう。こんな綺麗な夜空を見ないなんて、勿体ないよ。答案用紙に名前を書き忘れて、満点のテストが0点になっちゃうよりも大損だよ」
──だから、その傘を畳もうよ。
苛立ちを抑え、僕は優しく葵さんに言った。
でも、今度もまた、葵さんは首を横に振った。
「いいの。わたしは、このままで良いから……」
「良くない!」
思わず、大きな声を出してしまった。
大声を出した僕に、葵さんは目を見開き、その身体を少し後ろに引いた。
「全然良くないだろ」
とっても元気な娘なのに。話が傘のことになると、葵さんはどうしてか頑なになり、どこか寂しそうな顔をする。
言葉は元気を失い、勢いをなくす。
そして、心を偽る……。
そんなことで良いわけがない。
……明日を探す。それが何のことかは分からないけれど。
明日は、今日の次の日で、それは未来だ。すぐ近く、すぐそこにあるものだけれど、それでも未来は未来だ。
明日を探す、それは「未来を探す」とも言い換えられると思う。
それが具体的に何を差しているのかは、分からない。だけど、前に進むための何か……明日というのはきっと、そんな前向きな何かなんだと思う。
なのに。目の前の少女は、いま前を向いていない。
葵さんは、本当に……明日を探しているのか? 探す気はあるのか?
僕には、葵さんが本気で明日を探しているようには思えなかった。
──このままじゃダメだ。
そう思ったら、自然と手が蛇の目傘の柄に伸びていた。
葵さんが不安げに僕を見つめ、びくりと肩を震わす。
けれど、僕は構わず傘の柄をつかんだ。
「いやっ……」
小さく声を発し、葵さんは背を丸めた。
彼女の意思ははっきりとしていた。傘の下から、訴えるような眼差しが僕に向けられている。
だけど、無視する。
明確に理由を説明することは、できないけれど。僕は怒っていた。
たぶん、その怒りが、今この時、僕を動かす原動力になっているのだろう。
傘の柄を握り締め、力任せにそれを引っ張る。
相当な抵抗があるかと思ったのに……。
…………何の抵抗もなかった。
それはいとも簡単に葵さんの手から離れ、呆気なく僕の許へとやって来た。
葵さんと蛇の目傘は、セットのものじゃなかったらしい。
奪った蛇の目傘をすぐに窄める。
葵さんはどこか惚けた様子で、自分の手許を見ている。
何に対してかは分からないけれど、とても驚いているようだった。
そんな葵さんの様子に、僕は自分がひどく悪いことをしてしまったような気になる。
けれど、間違ったことをしたとは思わない。
「葵さん」
と、少女の名前を呼んだ。
自分の名前を呼ばれ、反射的にか、葵さんは顔を上げた。
やや魂が抜けたような瞳が、僕の顔を見た。
その視線はすぐに下に下がり、僕が手にしている蛇の目傘に移る。
ただ、傘を見つめるだけ。葵さんは、それを「返して」とは言わなかった。
しばらくして、再び、彼女の視線と顔が上に上がってくる。
今度は、僕と葵さんの視線は交わらなかった。
僕の顔を通り越し、葵さんの視線はさらに上へと上っていく。
「……月」
葵さんは、ぽつりと言った。
「お月様を見るのって、とっても久し振り……」
夜空を見上げての独り言は続く。
「……綺麗だね、とっても綺麗……」
葵さんの声は、微かに震えていた。
「正樹お兄ちゃん」
名前を呼ばれ、「ん?」と短く返す。
「ホントに綺麗な星空だね」
「ああ」
葵さんが見上げているのと同じ空を、僕も見上げる。
「……お兄ちゃん」
呼びかけに、僕は葵さんを見た。
「わたし……」
空を仰いでいた顔が正面を向き、葵さんは真っすぐに僕を見つめた。
「……思い出したよ」
そう言って、葵さんは静かに微笑んだ。
その次の瞬間。
「えっ……」
街灯の明かりに照らされた葵さんの姿が歪み、像がぶれた。
……背が伸びていく。
小さな女の子が、思春期の少女に。
少しずつ、大人へと成長していく……。
思春期の少女が、僕と変わらない年頃の青春期の少女に。
それも通り越し……僕よりも少し年上の女性へ。
大学生のお姉さん、といったところだろうか。
歳にして、十歳ほどは成長しただろう。そこまでいって、葵さんの成長は止まった。
身体だけじゃなく、その成長に合わせ、ご丁寧に服のサイズも大きくなっていた。
「…………」
これまでの不思議さんとの付き合いで、いろんな経験してきて、不思議には慣れているとはいえ……。
これには、やっぱり驚いてしまう。
いままで一緒にいた、子供の葵さんの面影がないわけじゃない。だけど、目の前の女性からは、幼さはほとんどなくなっていた。
おそらく、スッピンじゃなく、薄くでも化粧をすれば、まだ少しだけ残っている幼さの残滓も消えてしまうことだろう。
「えーっと……葵さん?」
驚きをなんとか振り払い、一応訊ねる。
「うん、そうだよ。正樹お兄ちゃん」
大人になった葵さんが、にっこりと笑う。
どう見ても自分より年上の女性に、お兄ちゃんと呼ばれるのも妙な気分だけど。
その口調と笑顔で、目の前の女性が葵さんなんだと実感できた。
だけど、戸惑いはそんなに簡単には消えてくれない。
とりあえず……深呼吸でもしてみるかな。
僕は二度、深く呼吸した。
そんな僕を見て、葵さんはくすりと笑う。それは大人びた微笑だった。
「へっ……うわっ!」
いきなり、葵さんが僕を抱きしめてきた。
「あ、あ、あの……」
身体を包み込む柔らかな感触に、僕はただただ困惑し、うろたえる。
な、なんなんだ、この状況は……。
「お兄ちゃん」
耳元で声が聞こえ、顔を横に向けると、すぐ間近で、僕と葵さん、二つの視線が交わった。
大人になった葵さんは、美人とか綺麗なお姉さんとか、そういう範疇に十分に入る容貌を持っていた。
そんな女性に抱きしめられた上に、間近で見つめられて、心のどぎまぎを抑えられるほど、僕は大人な男じゃない。
葵さんに抱きしめられるまま、僕はまったく動けなくなってしまっていた。
「お兄ちゃん」
もう一度、葵さんがそう言った。
そして……。
「ありがとう」
そんな言葉が、僕の耳に届き。
それとほぼ同時に、何か柔らかなものが軽く右の頬に触れた。
それはすぐに離れていったけれど、熱のなかった手とは違い、ほんのり温かくて、ちゃんと人肌の感触が感じられた。
あと、それが離れていく時、仄かにキャラメル風味の甘い香りが鼻孔を掠めた。
僕の背中に回した腕を解き、葵さんが僕から身を退く。
……顔が熱い。
鏡などで確認をしたりしなくても、いま自分の顔がどうなっているかは分かる。
きっと、これ以上ないというくらいに、真っ赤になっているに違いない。
両手を身体の後ろに回し、「えへへっ……」と少し照れたように、葵さんは微笑んでいた。
夜風が火照った頬を撫でていく。
風の冷たさが、とても心地好かった。
これじゃ……昼間と逆だな。
と、心の中で苦笑する。
その苦笑一つで、少しだけ心に余裕が生まれる。
葵さんの顔を真っすぐに見れた。
僕としっかり目が合うと、葵さんは満面の笑みを返してくれた。
何か言おうと、葵さんが口を開く。
けれど……何も聞こえなかった。
葵さんの声は、僕には届かなかった……。
……大きく開いた口の形は、「あ」の形で。
何か「あ」段の音から始まる言葉を、葵さんは僕に伝えようとしていた。
だけど。その最初の音が形作られる前に、彼女の姿はすうっと消えてしまう。
不思議は不思議のまま……。
ほとんど解き明かされることのなかった、いくつもの謎を残し……。
お別れの挨拶もなく、葵さんは消え去ってしまった。