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僕に絵心があって、今ここに絵の具や筆があったならば、きっと僕は絵を描いていることだろう。
雨の中、蛇の目傘を差し、しゃぼん玉をする少女の図。
浴衣とかじゃなく、ワンピース姿というところが惜しくはあるけれど。それは、いつまでも見守っていたくなるような、どこか懐かしく趣のある画になっていた。
雨が邪魔をしているせいなのか。それとも、葵さんの吹き方が下手なのか。
しゃぼん玉たちは、どれもこれも、生まれてはすぐに消えていってしまう。
屋根までどころか、差した傘の高さ程度で弾け、ほんの数瞬の命を散らす。
けれど、そんな呆気ない泡沫の連鎖が続いていても、葵さんはとても楽しそうだった。
不満げな顔も見せず、パイプを吹き、しゃぼん玉遊びを続けている。
新しく生み出されたしゃぼん玉も、またあっという間。みんな仲良く、儚く消滅してしまう。
昔、ただ城があったというだけの場所。城郭の石垣だけがその名残りを残す、公園とは名ばかりの城址公園。
その広い空き地は今、僕と葵さんだけの貸し切り状態になっていた。
雨の日に、こんな場所をわざわざ訪ねる人もいないだろう。
と、その読みどおり、城址公園には誰も居らず、僕らの他には誰もやって来なかった。
僕が右手に持ったしゃぼん液の容器に、葵さんはパイプを突っ込む。
もう一方の左手には、ここに来る途中、自動販売機で買ったサイダーの缶があり。しゃぼん液とサイダー、そんなおかしな組み合わせで、僕の両手は塞がっていた。
しゃぼん液が補充されたパイプを、葵さんがまた口へと持っていく。
彼女の頬が、わずかに膨らみ。
葵さんの吹く一息で。パイプの先から、競うようにしゃぼん玉が飛び出してくる。
だけど。すぐに息切れしたかのようにその勢いはなくなり、しゃぼん玉は次々と儚くなっていく。
四阿の端、屋根の下で、僕はその様子を眺めていた。
慌ただしく、けれど、音もなく静かに弾けていく、しゃぼん玉……。
それはごく当たり前のことで、見慣れたとまでは言わないものの、見知った光景だ。
そこには、何の不思議もない。
でも、少しだけ期待してしまう。
だって、しゃぼん玉遊びをしているのは葵さんで、彼女は不思議さんなんだから。
何かが起きるんじゃないかな、と。
心の片隅で、僕は不思議の訪れを期待していたりした。
サイダーを一口、口に含む。
それは、すっかり温くなっていた。
少し甘みが増したその炭酸飲料は、口の中をあまり刺激することなく喉へと落ちていった。
四阿の外、蛇の目傘の下で、葵さんはしゃぼん玉を生み出し続けている。
相も変わらず、根性無しのしゃぼん玉たちは、誕生と消滅を繰り返している。
それでも、葵さんは楽しそうで、飽きもせずにしゃぼん玉を吹き続けていた。
とても上機嫌みたいだし、今なら訊いても大丈夫かな……。
サイダーをもう一口飲み、僕は葵さんに呼びかけた。
「ねえ、葵さん」
僕の呼びかけに、パイプを咥えたまま、葵さんがこちらを向く。
僕を見て、首を傾げた彼女に、
「一つ訊きたいんだけど」
と、前置きを入れて、僕は質問を切り出した。
「さっき駄菓子屋の前で、しゃぼん玉が好きなのって訊いた時、なにか恥ずかしそうにしてたよね? あれって、どうしてなの?」
その質問内容に動揺したのか。
葵さんの咥えたパイプから、小さなしゃぼん玉がいくつか飛び出てきた。
今日、何度目になるだろう。また葵さんの顔が赤く染まった。
何が、そんなに恥ずかしいんだろう……。
恥ずかしがるようなことは、何にもないと思うんだけどな。
でも。やっぱり、葵さんにとっては、ひどく恥ずかしいことらしい。
うろうろ、ぱちぱち。葵さんの瞳と瞼は、落ち着きなく動いていた。
けれど、覚悟を決めたのか、やがて葵さんの瞳のうろうろは止まり、僕を見た。
パイプを咥えたまま、
「だって……」
葵さんがぽつり呟く。
「しゃぼん玉が、好きだなんて……子供っぽいでしょう」
ああ……そういうことか。
大人ぶった少女には、そんなことも羞恥の理由になるのか。
だけど、葵さんには悪いけど。むしろ、僕はその恥じらいに初々しさを感じ、まだまだ子供だなぁと思ってしまった。
葵さんが口にした、恥じらいの理由。その可愛らしさに、心が微笑ましさで満たされ、自然と頬が弛んでくる。
「そうかなぁ……子供っぽいかな。そんなことはないと思うけどな……。しゃぼん玉って、僕も好きだよ」
フォローのつもりじゃなく、本当にそう思って僕は言った。
けれど。僕の言葉は、葵さんには素直に受け取ってもらえなかったようだ。
「じゃあ、やらせてあげる」
疑いの感情をいっぱい込めた瞳で、僕を睨むように見つめ、葵さんは僕の口の前にパイプを突き出した。
……そんなに信用がないのかな。
自分に向けられた、疑いいっぱいの葵さんの眼差しに、僕は少し情けない気持ちになった。
それにしても……。やらせてあげる、とは……また、素直じゃない言い方だな。
僕は小さく笑うと、それを隠すように「ありがとう」と言って、突き出されたパイプを咥えた。
右手を葵さんの方に出し、しゃぼん液の容器を「持ってて」と動作で示す。
空いた右手の三本指でパイプを支え、僕は軽く一息吹いてみた。
僕の呼気に応え、パイプがしゃぼん玉を吐き出す。
僕の生み出したしゃぼん玉は、簡単に壊れてしまうことなく。
ふわふわ。ふわふわ。四阿の屋根の下、しゃぼん玉は上へ上へと上っていく。
やがて、全部ではないけれど、いくつかのしゃぼん玉が天井にぶつかり弾けた。
続けて、二回、三回とパイプを吹く。
雨雲に空が覆われ、陽射しが弱い中でも、もともと素朴なしゃぼん玉の魅力はなくなっていなかった。
その淡い色彩と飾らない光の反射は、十分に心に癒しを与えてくれる、綺麗なものだった。
晴れた日にやるしゃぼん玉とは、また一風違う、雨の日のしゃぼん玉遊び。雨宿りしながらのしゃぼん玉遊びというのも、これはこれで一つの楽しみ方かもしれない。
駄菓子屋のおばあさんが言っていたように、なかなか乙なものに思えた。
そんな乙なしゃぼん玉遊びを、僕は遠慮なく楽しませてもらう。
といっても、それは二、三分程度のことだった思うけれど。
「ありがとう、楽しかったよ」
お礼を言って、葵さんがやったように、僕はパイプを彼女の口の前に持っていった。
ワンテンポ遅れて、葵さんは瞳を少し大きくする。
……あれ? どうしたんだろう……。
たぶん、今日一番の赤さだろう。葵さんの顔は、一気に耳まで真っ赤に染まった。
顔を真っ赤にしパイプを見つめたまま、葵さんは動かなかった。
「おーい、葵さん」
いつまでも固まっている葵さんに、首を傾げつつ僕は声を掛ける。
葵さんが視線を上げ、僕を見た。
「なに? どうしたの?」
「なな、なんでもない!」
と、ひどく慌てた様子で、葵さんはやけに大きな声を出す。
さらに、「本当に何でもないんだからね!」と念押しをする。
なんだかよく分からないけれど……怒っているんじゃないみたいだし。
まあ、いいか……。
「ああ、うん」
葵さんの言葉の勢いに押され、僕は分からないままに頷いた。
僕が素直に頷くのを見届けて、葵さんはどこか思い切ったように、パクリとパイプを咥えた。
そのまま、心持ち頬を膨らませてパイプに息を送る。
パイプから、しゃぼん玉が吐き出される。
やっぱり、さっきまでと同じ……。
葵さんのしゃぼん玉たちは、すぐに割れてしまった。
どうやら……原因は雨で決まりかな。
「葵さん、君もこっちに入ったら?」
と、僕は二度目になる提案をする。
「そんなにすぐに割れちゃうんじゃ、あまり面白くないだろ」
言いながら、しゃぼん液の容器を葵さんの手の中から抜き取る。
「四阿の中の方が、しゃぼん玉も長生きだし。傘を畳んで、君もこっちに来なよ」
けれど……。
「ううん、いい……」
また断わられてしまった。
「わたしは外でいいよ。この傘の下でいいから」
……一度目の時と同じ。
まるで、それが決まりごとであるかのように、葵さんは「傘の下でいい」と言った。
そのくせ、全然良くなさそうに、どこか寂しげに笑う。
それも、さっきと同じだった。
「本当にいいの?」
「うん」
と頷いた葵さんに、僕がそれ以上何も言えなかったのも……。
それもまた変わらず、サイダーがまだ冷たかった時とまったく同じだった。