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ずっと欲しかった玩具を買ってもらった子供の笑顔でも、いま僕の目の前にある笑顔には敵わないだろう。
自分の姿が見える人間に出会えたのが、そんなに嬉しかったんだろうか。女の子は、満面の笑みで僕を見上げていた。
こちらまでどこか嬉しくなってきて、頬が弛んでしまいそうな。それは何の混じりっ気もない、ただ純粋な感情だけを伝えてくる笑顔だった。
けれど、それは逆を返せば……。
僕と目が合うまで、彼女はそれだけ寂しい思いを味わっていた、ということなのかもしれない。
ずっと独りぼっちで、不安な気持ちを抱えて……。
「こんにちは、お嬢さん」
僕はもう一度、女の子に声を掛けてみた。
「違うよ、お嬢さんじゃないよ」
一度目の挨拶には返事がなかったけれど、今度はちゃんと言葉が返ってきた。
「葵、わたしは葵なんだから。真咲葵。ちゃんと葵って呼んで」
この不思議さんには、なにやら名前に拘りがあるらしい。
その顔から笑顔を消し、女の子は少し怒ったようにそう言った。
お嬢さん……はダメだったようだ。僕は、彼女のご機嫌を損ねてしまったらしい。
だけど、それよりも……。
ふざけてるのかな、この子?
彼女が名乗った名前の音は、僕の名前を洋風に言った時のものだった。
つまり、僕の名前の姓と名をひっくり返した響き。それと同じ響きを、彼女の名前は持っていた。
けれど。相手は、初対面の不思議さんなわけだし……そんなことはないか。
余計な推測を頭から追い出し、僕は言い直す。改めて、女の子に挨拶した。
「こんにちは、葵ちゃん」
なのに……またダメ出しをされてしまう。
「違う。どうして『ちゃん』なの? さっきはちゃんと、『さん』だったのに……」
今度は、名前の後の「ちゃん」付けが、お気に召さなかったようだ。
女の子は、ぷうっと頬を膨らませた。
……子供扱いはダメ、ってことなのかな。
小さくても、心は立派にお年頃……たぶん、そういうことなんだろう。
我ながら、なんとも気の利かないことで。
確かに、レディーに対して「ちゃん」は失礼だよな。
「えーっと……葵さん? これでいいのかな?」
「うん!」
女の子の顔に笑顔が戻る。蛇の目の下で、葵さんは大きく頷いた。
ようやく貰えた合格に、思わず、ほっとため息が零れた。
じゃあ、僕の方も自己紹介をするかな。
「よし。それじゃあ、次は僕の番だね。僕は蒼井……」
「正樹! 正樹お兄ちゃん!」
葵さんが大きな声で言った。
「えっ……」
僕の名乗りを遮る形で彼女が口にした名前は、確かに僕の名前だった。
どうして、知っているんだ……?
少なからず驚いている僕を前に、葵さんはニコニコしている。
……僕と彼女の名前。
それは、ただの言葉遊びみたいだけれど……。
あおい・まさき。
まさき・あおい。
と、二つの名前は、姓名が逆になっているだけで、その響きは同じだし。
この子と僕の間には、何かしらの繋がりがあったりするのかもしれない。
僕はそんなことを思った。
だからといって、それがいったい何なのか、僕には何の考えもないけれど。
推測の一つもなく、まったくの真っ白け。何の見当もつかない。さっぱりだ。
でも、相手は不思議さんなんだし。それは当り前のことだった。
いつものことといえば、いつものことだ。
とどのつまり、考えるだけ無駄、ということだ。
僕は気分を切り替えて、葵さんに訊ねた。
「ねえ、葵さん。君はどうして、僕の名前を知ってるの?」
けれど……また失敗してしまったらしい。
ご機嫌を損ねてしまったようで、葵さんの頬が少し膨らむ。
その頬っぺたが膨らんだ顔は、実はとっても可愛らしくもあったりするんだけれど。いくら可愛らしくても、それは不機嫌さを表わしているわけで……。
〝君はどうして、僕の名前を知ってるの?〟
それの、何がいけなかったのか。
僕からすれば、当然の疑問だったんだけど。
葵さんにとっては、僕がそれを彼女に訊いたことは、不愉快なことだったらしい。
まあ、葵さんが僕にしか見えないことに比べれば、それは小さな不思議だし……。
もちろん、とても気にはなるんだけれど、とりあえず今は訊くのを止めておこうか。
何事もなかったかのように、僕は葵さんに別の質問をした。
「ねえ、葵さん。君はこんなところで、何をしているの?」
「それはね……」
「──明日を探しているんだよ」
大きな蛇の目傘を差した少女は、僕の目をしっかりと見つめ、そう答えた。
〝明日を探しているんだよ〟
また一つ、不思議というか……謎が増えたな。
心の中でこっそり、僕はこの不思議さん、葵さんを「明日を探す少女」と名づけた。
それにしても……。
明日を探している、か……。
これは……そう簡単には済みそうにないな。
……遅刻は訂正かな。
高校に入学してから、まだ二週間にもならないんだけどな。早くも一回目のサボりか……。
「明日か。よし、僕も一緒に探してあげるよ」
遅刻じゃなく欠席、休み。
高校に入学して、初めての雨の日。どうやら、今日は自主休校ということになりそうだ。