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亡国1

 


 『亡国』



 私という人間が何から構築されているのか、改めて思い知る一ヶ月間だった。

 錆ついた歯車を研き、油を注す作業は経験にないほどの苦痛であったが、その中で得たものは、私が真人間に戻って行く経験と実感であり、同時に恐怖と幸福だった。


 薄暗いものになる筈だった未来は、俄かに光明が射している。

 私はそれに対して必死に手を伸ばすのだ。


 今の私には、わずかながらに私がある。まだまだ人は怖いし、視線も少し恐ろしいけれども、それらに怯えて自らを見失うような機会は、この一か月で極端に減った。


 前向きになった私には、母と父がいる。そしてハナエが支えてくれる。

 そして何よりも、私にはカナメがいるのだ。


 私は、ほんの少しだけでも、笑って歩けるようになっただろうか、普通の女に戻れただろうか、カナメに認められる人間になれただろうか。


『彼女に逢ってきます』


 ハナエに対してそのようにメールを送る。


『はいはい』


 素気なく、そのように返って来た。

 これが終わったら、自分の携帯を買おう。幾らでも使えというが、やはり他人の物だ、気兼ねしてしまう。


 カナメと二人で外に出られるようになったら、どうしようか。年齢差十歳とはいえ、女同士なら何とかなる世の中だ、ある意味女で良かったと思う。外を歩く姿を思い描き、私は微笑む。


 思い立ち、すかさず鏡を見た。


「うん。自然な笑顔」


 作り笑いではなく、苦笑いでもない。私が本来欲しかった笑顔だ。

 今回は以前のように化粧は崩れていないし、吐瀉物臭くもない。あの日を思い出すと、何とも嫌な気分になるが、同時にあれが私のターニングポイントとなった。


 外に出る。たったそれだけの事で、私は前に進めたのだから。


「お母様、少し出ます」

「解りました。何時頃戻りますか?」

「夕方前には」

「解りました。気をつけてくださいね」

「はい」

「タツコさん」

「はい?」

「本当に、良かった。そんな笑顔ですもの、もう、大丈夫ですね」

「私、笑っていますか」

「ええ。とっても可愛らしい。大武さんにも、御礼を言ってあげてください」

「あはは……まあ、そうですね。では」

「はい。いってらっしゃい」


 出掛けると言っても、隣に行くだけだ。そしてあわよくば一緒に外出して、この前見つけたパーテーション区切りのある喫茶店で、美味しいケーキを食べよう。視線も気にせず、楽しめるに違いない。


 一カ月ぶりだ。彼女はどうしていただろうか。まだ私の王でいてくれているだろうか。私はまた、ヘタクソな敬語で話して、彼女も偉そうに返してくれるだろうか。


 あのコミュニケーションが、私は愛しくて堪らない。


 姿見で自身を確認し、日傘を持ち、ドアノブを回す。強い光が差し込み、透き通るような青空が望めた。そのまま直ぐ隣の部屋へ赴き、数間おいてから、インターホンを鳴らす。


 時間は十六時過ぎ。カナメの母は既に外出している筈であるし、カナメも承知の上でこの時間を一か月前に指定したのだろう。


 少し呼吸が乱れ、心拍数があがる。

 ドアが開いた。


「……どちらさま?」


 ……。私は多少呆気にとられたが、冷静を装って対応する。

 出て来たのは、大人の女性。カナメの母だ。


「――あ、隣の、旗本です。カナメちゃんは……」

「あらら。旗本の娘さん。娘に聞いてるわ。仲良くしてくれてるって」

「い、いえいえ。此方こそ、遊んで貰っているようなものなので……」

「上がって。お話したいし」


 年齢は、二十歳後半ぐらいだろうか。今日は非番か。薄めだがメイクはしている。

 やはり美しい人だ。この母にしてあの娘なのだろう、もはや遺伝子を疑いようも無く、彼女の母である。


 部屋着なのか薄手のシャツを着ているだけだ。そのフォルムは酷く女性的で、同時に扇情的だ。男性が堪らなく思うのも仕方ないだろう。


 化粧だけでは繕えない大きな瞳に形のよい鼻、唇がまた少しぶ厚く色っぽい。正しく大人の女性である。


「はい、失礼します……」


 彼女に付き従い、私は日傘を傘立てに立て、家の中にお邪魔する。

 リビングへ行くと、ソファにかけるよう促された。


「こんな歳の離れたお友達が居るなんてね。幾つ?」

「二十歳です」

「若い。羨ましい限り」

「いえ、この若さ、どこにも活かせていないので」

「あはは。まあ、活かした所で良い事はあんまりないわ。はい、紅茶で良かった?」

「有難うございます」


 出された紅茶に何も入れず一啜りする。紅茶にミルクと砂糖を入れると、当時夜中に飲んでいた紅茶を思い出してしまう為避ける。


 それにしても、どうやらカナメは不在のようだ。学校だろうか。珍しい話だが、私とは違って小学生なのだから、やる事もあるだろう。


「私はお酒失礼するわね」

「ええ、どうぞ」


 そういって、彼女が持ち出したのはウィスキーの瓶だ。お酒の知識はまるで無いので、それがどのようなものかは解らない。私には一生縁が無さそうである。


「聞いてるかもしれないけど、カナメはだいぶ若い頃の子だから、右も左も解らないまま育てちゃって、ちょっと変な子になっちゃってね」


 そのように、おどけた調子で言う。雰囲気がハナエに近い為、他の人よりも接し易い。私は言葉を選びながら返答する。流石に娘さんの下僕ですなんて口が裂けても言えない。


「……凄くしっかりしたお子さんです。物言いが大人で、精神的にも早熟かと」

「それ、ガッコの先生にも言われたわ。自立もやりすぎるとアレね。手がかからないのは良いのだけれど」

「月並みですけれど……でも、大変でしたでしょう」

「世間一般で言えば、不貞の子だしね。でもさ、私は当時、その人が凄く好きだったのよ。奥さんも居たんだけど……学校の先生でさ」

「……す、凄まじいですね」

「あっはっは。話のネタにはなるわね。私が子供せがんだの。結婚なんてしなくて良いから、貴方の子供が欲しいって。あの人への愛さえあれば、私の世界は幸福に満ちるって、そんな幻想抱いて……煙草良い?」

「ええ」


 細身の煙草を取り出し、火を点ける。薄い紫色が部屋の上部を漂う。

 なんとなくではあるが、カナメにもある程度聞いていた話だ。


 若くして子供を授かり、学校から、親から、周囲から糾弾されたという。もしかしたら、それが独身相手ならば、また違っただろうが……相手は人の夫だ。しかも教師であるからして、問題にならない訳が無い。


「夢見る乙女は一歩間違うと、とんでもないわ。私は堕すのを拒んで、カナメを産んだの。元から自分で責任を取るつもりではいたけど、先生はそのまま居なくなっちゃったし、両親からも責められる毎日で、嫌気がさして、カナメ抱えて逃げ出したのよ」

「ど、どうやって暮らしていたんです?」

「優しく声をかけてくれる人の所。経産婦とはいえ若いでしょう、狙って来る人は沢山いるし、おこずかいも貰えたし、まあ、転々と過ごしていたのよ。そんなある日、まさかの御老人に拾われてね。ああ、七十も過ぎて性欲旺盛だなあなんて思ったけれど、毎日お話してほしいって言われて、でっかい家にあげられてさ」

「それは……幸運、だったのでしょうか」

「資産だけあって、家族の居ない人だったわ。寂しい老後に耐えられなかったらしいの。娘と孫が一緒に出来たみたいだって、凄く喜んでいた。それが五年くらい前かな。二年くらい御世話になって、ご老人が亡くなってね、どこから湧いてきたのか、親戚だって奴らが遺産分与に揉めて揉めて。私の処遇もどうするかってなって。その中の若い人に、うーん、買われた、のかしら。シモの御世話をする代わりに、生活保障をしてもらうカンジ。愛人契約ね」


 解ってはいたのだが……その十年間の中に詰まっている人生の濃さが、私とは比べ物にならない。彼女が抱えるものは正しく負の塊だ。最悪の選択肢を行き、最悪を掴まされ続ける人生である。大人びた女性の魅力の中に窺える憂いは、そういったモノが反映されているからだろう。


 若く、美しく、未婚で、しかし未亡人のような風格だ。


「……では、今は?」

「ああ。夜働ける歳になったから、契約をご遠慮願って、ひとりだちしたのよ。そこからがまた、女の嫉妬と確執にまみれた地獄だった訳だけど……聞くと今までの話より胸糞悪いから止めた方がいいわよ、あははっ」

「あ、あはは……」

「ま、色々あったの。三年連続ナンバーワン。私の源氏名を知らなかったら、あちらの界隈じゃモグリなのよ。……とはいえ、流石にそろそろ年増だけれど」

「そんな。とても、お美しいです」

「ありがと。私ね、男の人を幸せにする才能があるらしいのよ。愛人だった人も、笑顔で手切れ金をくれたわ。凄く幸せだったって。貢いでくれる人も、みんな笑顔。不況だっていうのに、このマンションも、ポンっとくれた。ただ心残りといえば、やっぱり先生を幸せに出来なかった事かしら」

「そういえば、お名前を窺っていませんでした。私は、タツコです。旗本竜子」

「あら、そうね。水木澪よ。源氏名はいる? お店来たらサービスするわよ。女でも歓迎するわ」

「い、いえ。私には少し早いです。それに私、人前が苦手で」

「そんな綺麗な顔しているのに、苦手なのね。そんな事もあるかしら。彼氏もいないの?」

「お、男嫌いで……」

「あらら。あはは。そうなの。アレもなんだが、男は苦手みたいだし。やっぱり物心ついた時から大人の汚い所見ているからかしら?」


 澪が美しく笑う。冗談だろうが、しかし、どうやらカナメもあまり男は好かないようだ。

 私の周りに居る女性というのは、どうも男にトラウマがあるように思える。


 澪が三本目の煙草に火を点ける。

 そうだ。彼女の話に夢中になっていたが、カナメはどうしたのだろうか。


「あの、澪さん。あ、お母様と呼ぶよりも、澪さんと呼んだ方が、しっくり来ますね」

「ええ。この名前好きなの。親が唯一くれた満足行くプレゼントね。それで、何かしら?」

「カナメちゃんは」

「うん?」


 今、何かが、かけ違っている気がする。

 澪は不思議そうな顔をしている。何故そんな、ここに居る事がおかしいような、顔をするのだろうか。


 いや、そも。上げられて早々、身の上話をされたその流れからして、可笑しい。


「――あの」

「あの子、貴女に話さなかったのかしら……」

「な、何か、あったんですか?」

「ええ。一か月前から、入院しているわ。心臓の調子が悪くて。持病は、知ってるわよね」

「え、ええ……そ、そんな……」


 頭の中を、あの時の記憶が巡る。

 何か引っかかりがあった筈だ。しかし、私は私が前を向くのに必死で、それを深く考えていなかったように思える。


 今まで顔を見せろなんて言わなかった。だがあの時は執拗に私に逢いたがっていた。

 出会った後も、そうだ。


『死に物狂いで努力する。生き残る。戦うわ』


「あ、あ……」

「……タツコちゃん。大丈夫?」

「ぶ、無事、でしょうか。カナメ、ちゃんは」

「……」


 何故。


 何故そこで押し黙る。そこは、大した事無いと、言う所ではないのか。


 御世辞にも良い状態には無いのか? 入院していると言っても、どこに。どの部屋に。まさか、そんなに緊急を要する状態なのか。


 目が泳ぐ。鼓動が速くなる。呼吸が荒くなる。


 突然の衝撃に『自身』が揺るぐ。


「ちょっと、タツコちゃん?」

「あ、あの、いえ。その」

「そ、そんなに驚くとは思わなくて。あの子、貴女の前じゃ余程隠していたのね……ソファ、横になっても良いわよ?」

「だ、大丈夫です。あの、それで、カナメちゃんは」

「……御医者様にも、長く無いってずっと言われ続けてきたのよ。もう、手は尽くし終わっているの」


 もう、手を尽くし終わっている。


 つまり、手術した所でどうにもならないという事だろうか。


 外科手術を繰り返しても負担をかけるばかり、体力がない所為もあって強い薬も使えない、と。


 つまり。


 つまり。


 つまり、彼女は、もう――死ぬのか。


「助かりようが無いと、そう、言う事ですか」

「移植手術に耐えられる力はないし、ドナーも見つからないもの。幾らお金積み上げた所で、どうにもならないわ」

「そんな――」

「ねえ、タツコちゃん。こんな事を聞くのもなんだけれど」

「は、はい」

「あの子の……何かしら? その反応、お友達じゃないわ」


 それで無くとも困惑しているのに、今、そのような問いを私にかけるのか。幾らなんでもあんまりだ。


 ただ、確かに、他人から見れば私の反応はいささか異常だろう。幾ら可愛がっていた幼い知り合いが瀕死だからと、不安でもなく、緊張でもなく、体調に変調をきたすような他人はなかなかいないだろう。


 私は自身の動揺を人様に隠せる程器用な人間ではない。

 返答に詰まっていると、澪は煙草をもみ消し、グラスに残っていたお酒を一気にあおる。


「覆りようが無いわ。あの子は、死ぬの」

「希望は」

「あの子が五歳の頃に、私は希望を捨てたわ。貴女は、あの子に希望を観たの?」


 澪の視線が迫る。

 その通りだ。


 私は彼女に希望を見ていた。


 薄暗く未来の見えない箱の中に居た私にさした一条の光だ。蜘蛛の糸だ。彼女は神であり仏であり私の女王様なのだから。


 終わらない終わりの道を延々と回り続けていた私に差し伸べられた御手であり、道しるべなのだ。


 それを、今失えというのか。


 彼女はどうだ。水木加奈女はどうなのだ。


 たった十年、たった十年の生でその幕を閉じる、それはあまりに理不尽ではないか。


 死ぬべき人間なんて沢山いる筈だ。

 あっちにもこっちにも、今すぐ死んだ方が世のためになるような奴ばかりだ。

 なのにどうして美しく可憐な彼女がたった十年で死ななければならないのか。

 誰か代わりになれないのか。


 私、私が――私が代わりに……、なれる訳も……、ない。


 そしてそんな考えは恐らく――母である澪も、同じなのだろう。


「そうね、代われるものなら、代わりたいわね」

「――私、引きこもりだったんです」

「なんとなく、聞いてるわ」

「あの子に、顔が観たいと言われました。あの子は何処とも繋がりを持たない私の、唯一の掛け替えの無い希望でした。あの子の望みならなんでも叶えてあげたい。辛いけど、苦しいけど、酷い目も観たけれど、それでも、あの子が喜んでくれるならと、外に出るようになりました」

「うちの娘が、ワガママを言ったわ」

「いえ。その、お母様の前で、話すような事じゃ、無いのかもしれませんけれど。私、友達じゃあありません……その関係性を、なんと表現したらいいか、解りませんが……あ、あの、決して、やましいものでは」


 俯く。

 自分がどうしたらいいのか、どこに考えの重きを置けばいいのか、解らない。


 そしてこのヒトに、どんな顔をして良いのか、どう返せばいいのかも、解らない。

 齎される現実に対して、私はあまりにも無力であり、同時にその理不尽な無力さは、非現実感すら醸し出す。


 カナメが死ぬ。良く分からない話だ。


「いつか来る日だとは思っていたのよ。でも、いざその時が来てみると、実感がないわ。あの子、決して苦しい振りはしないの。どんなに辛くても、ギリギリまで我慢する癖があるのか。だから、今日もね、貴女が来た時、あの子が病院からひょっこり、戻って来たんじゃないかって、思ってしまって」


 彼女は大人びていて、孤高で、崇高で、気高い。母の前ですら、気丈として居ただろう姿が、ありありと思い描ける。彼女は私に対しても、辛い姿などついぞ見せた事が無かった。


 痛みや苦しみを押し殺してでも、毎日私に顔を出してくれていたと考えると――居た堪れない。


「面会者名簿に、貴女を登録しておく。あの子、きっと貴女に弱った姿なんて見せたくないでしょうけれど……いつ……」


 いつ居なくなってしまうか解らないから。


 いざ、言葉に出そうとしたのだろう。そしてその言葉が、自身に迫る現実を描かせたのかもしれない。


 澪が顔を覆い隠す。私にはそんな彼女に、何もしてあげる事は出来ない。何せ、自分でも、手いっぱいだ。


「ごめんなさい……」

「――病院は、どちらでしょう」

「……近くの大学病院よ。解るかしら」

「はい。昔、御世話になりましたから……今日は、御暇します」

「また、来て頂戴。子供を疎ましく思っている男じゃ、御話し相手にならなくって」

「解りました……失礼します」


 深々と頭を下げ、私は水木家を後にする。

 日傘を手に取った所で、このまま自分の部屋に戻るべきかどうかを考えた。


 今、一人になるべきではないような気がする。

 今一人になってしまったら、きっと私は考え込む。


 答えが出ないと解っていても、終わりの無い問答を繰り返すだけだ。

 携帯を手に取り、短縮で彼女に電話をかける。


『もし』

「今何処」

『あ、新居新居。改装も済ませたから。モノが無さ過ぎて不安なんですけど』

「場所教えて」

『来るの? 何もないぞ?』

「助けて」

『解ったそこに居ろ、動くな。直ぐ迎えに行くから。どこだ』

「家」

『解った。遠く見ろ、深呼吸しろ、無駄な事考えるな』

「うん」

『切るぞ。変な事考えるなよ』


 慌ただしく、バタバタと音を立てて、通話が切れる。

 また彼女に迷惑をかけてしまうだろう。彼女はそれで良いと言う。私に罪悪感がない訳でもないが、今この状態を打破しようと思ったら、受け入れてくれる他人に縋った方が良い。


 肉親では駄目だ。肉親は肉親なのだ。

 娘というアドバンテージそのものを受け入れている事実と、私という個人を受け入れている事実は、まったくもって異なるのである。


 他人の優しさにしがみ付く間抜けさを噛みしめながら、それでもなお生きる為と割り切る、そんな面倒くさいロジックが私には必要だった。





 それから彼女は五分もしない間にやってきて、私を車で拾い上げた。一体自宅をどこに構えたのかと思えば、車で三分ほどの近所のマンションである。


 私は、私が思っていた以上に顔色が悪いのか、ハナエの表情は険しかった。

 扱いはまるでお姫様である。駐車場に車を止めると、わざわざ外に出て私側のドアを開けて手を差し伸べてくる。


 素直にその手をひかれ、彼女が居を構える地上十五階の部屋に案内された。

 大きなマンションなのだが、一つの階に部屋が二つしかない。玄関をくぐると、ウチとはまるで違った長さの廊下があり、部屋の数もウチの倍はある。


 恐縮しながらリビングへと赴くと、一人暮らしにはあまりにも不相応で立派なシステムキッチンが据えられており、そのデザインもかなり近代的だ。


「珍しいか?」

「うちの倍くらい広い」

「まあそこそこしたしな。二階もあるぞ」

「一人で住むの?」

「何にしても、狭い部屋はもうたくさんなんだよ……あ、これ合鍵な」


 そういって、ウサギのストラップがついた鍵を渡される。ちなみに二つだ。いつでも使えという事か。


「私、彼女じゃないけど」

「アンタ以外ウチ来ないしなあ。好きに使いなよ。愛人の家だと思って」

「なんで鍵二つ?」

「言ったろ。部屋二つ買ったって」

「隣?」

「そう。倉庫にしちゃ少し大きすぎたかな。まあ、気兼ねなく騒げるから良いか。あ、住むなら住んでいいぞ」

「うち、あるし」

「だはは。そうだった。ま、一人で居たい時もあるだろう」


 窓際に据えられたソファに腰掛け、外を望む。

 高級マンションらしく、その眺めは絶景だ。ここからでも繁華街、その先にある隣町の大きなタワーも、まるで近所のように近く見えた。


 ここが、自由を手に入れた彼女の城なのだろう。


「独りは寂しいでしょ」

「独りになる為に出て来たからなあ。でもまあ、アンタが隣にいるなら、それに越した事もないね……どした。何かあったか?」


 ハナエが隣に腰掛ける。私は、そのまま彼女の胸に縋りついた。


「――タツコ?」

「逢いに行ったの」

「ああ、聞いた。それで、アンタの神は、どうなってた」

「――もう、助からないって」

「なんだって……?」


 ハナエに説明を省いていた部分から、カナメとの馴れ初めに至るまで、私は全て説明した。

 私は、初めて他人に慰めを要求したのかもしれない。


 そもそも、このような話を聞いて理解してくれる人物は限られるのだ。状況は違えど心証的に似たような境遇を経験した彼女ならば、私の戯言を馬鹿にせず聞いてくれる。


 私の話を聞いている間、ハナエはずっと頭を撫でてくれていた。他人に触られる事も嫌がった私だというのに、彼女に対してはそれがない。どれだけ否定しようと、やはりハナエは特別なのだ。


 このヒトに慰めて貰いたい。このヒトに同情して貰いたい。このヒトに優しい言葉をかけて貰いたいのだ。


 私は今、神を失おうとしている。


「――悲惨だな。どうしてこう、世の中は絶望で溢れかえってるんだろうか。世の中の笑っている奴らが、実は全部演技なんじゃないかって、私はずっと思ってたよ」

「幸せってどこにあると思う」

「生み出せ、とか、自分で掴めとか、そんな無責任な事は言えんな。どうあがいても不幸の方が容易くやってくるんだ。私の場合は、下品な話だが、お金が全ての解決方法だった。そして、私は自分から、不幸を買いに出てる」

「私の事?」

「幸福か?」

「ううん」

「だよな。でも、アンタは幸いな事に、家族には恵まれてる。そこに私をプラス出来たら良いんだがね」

「助かる」

「それはよかった。他にしてほしい事あるか?」

「不貞と思わないで」

「うん?」

「抱きしめて。なんかもう、なんか、訳、解らなくて――」

「ああ、いいさ。勿論。カナメちゃんには申し訳ないが、私はアンタに縋られて幸せだよ」

「最悪」

「まったくだ」


 愛しければ、直ぐ様命の危うい想い人の所に駆けつけるのが正解だろうか。


 健全な体を持ち、健全な精神を宿した人ならば、そうだろう。


 だが私はあまりに弱い。軟弱にも程がある。支えを失おうとしている今、その支えに無理矢理縋った所で、誰も彼にも迷惑千万である。


 死という覆りようの無い現実に立ち向かうにしても、私はそんなものを目の前で見せつけられて、立っていられる自信がない。そしてどれだけ近くで彼女を想った所で、彼女は健康にはなりはしないのだ。


 頑張ってとか、死なないでとか、あきらめちゃ駄目とか、身勝手すぎる話だ。

 そういう奴に限って、自分が一番大事に違いない。


 解っている。心の底でどう思っているかなど、他人は一々勘ぐらない。だとしても、私はダメだ。泣き喚いて、本人に辛そうな顔を見せつけて、死に逝く貴女より私が一番可哀想だと表現するような絶望的な感性は持ち合わせていない。


「面会謝絶って訳じゃないんだろう。アンタが落ち着いたら、見舞いに行こう。私も付きそうから」

「貴女も来るの」

「私の顔見たら、死ねないと思うかも知れんぞ。アンタを取られたくなくて復活するかもしれんし」

「何それ」

「……もうどうしようもなくなった人間が医学の埒外で元気になるとすれば、それは精神とか根性とか、そんなもんしかなくなるんだよ。だから、絶望的な状況に陥った本人や家族は、オカルトみたいな健康法に縋ったりするんだ。それが精神安定の助けになりゃいいが、まあ総じて功は奏さない」

「駄目じゃない」

「手は尽くしきったって満足感はあるかもな。本人も、家族も、親しい人も」

「それは……ただの自己満足じゃないの」

「大前提として、生きてる人間が大切なんだ。死に行く人間を思いやるのも大切かもしれんが、今を生きてる人間がそれにつられて不健康になったり不運になったりしたら、これから死ぬ奴だって気が気じゃないだろう。アンタはそういうの嫌いそうだが、見舞いなんてそんなもんだ。私は元気ですって見せなきゃない。外に出れるようになっただろう。その子もそれを望んだんだ」

「きっと、弱った姿なんて見られたくないにきまってる」

「だろうな。でも愛しい人の姿を見ずに逝くのは、きっと辛いぞ」

「まだ、死んでない」

「解ってるんだろう。なら言うな」


 私は人の死に目にあったことはない。祖父母は健康そのものであるし、身内の誰かに不幸が起こった事もない。一年に一度逢うかどうかも解らない親戚の死ならば実感しようもないかもしれないが、精神的に依存した部分のある人物の死がどのようなものかなど、まったく想像もつかないでいた。


 今まで喋っていた人間が居なくなるというのは、どのような感覚なのだろうか。


「……貴女の御爺さん」

「ああ。最初は良く解らなかったな。あれだけの頑固者が喋らなくなるなんて、意味不明だった。んでも出棺して、火葬して、骨だけになって。納骨する段階で、やっとこのヒトが死んだんだって解った。想い出とか、色々溢れて来て、ずっと婆ちゃんに縋ってた。そんな段階でも――うちの両親は、自分の事ばかりだったな。ああ、思い出すと腹が立つ……幾ら生きている人間が大前提だったとしても、だ」

「悔いたことは」

「もう少しお喋り出来てればなって、それだけだよ」


 私とカナメの関係は、会話が主体だった。互いの顔も知らない状態での他愛ない会話こそがその全てであっただろう。逢わなかった一か月は、今後もっと仲良く出来るという期待があったからこそのものであるからして、今後一生そのような機会が設けられないとするならば、それは私自身のアイデンティティの喪失である。


 彼女と共に歩む未来を思い描けない私にどれほどの価値があろうか。


「ハナエ」

「なに?」

「もう少し、お話したいの」


 腕に縋り、彼女を見上げる。


「え? あ、ああ、うん。勿論良いが……そうか、実感無さ過ぎるんだな」

「意味が解らない」

「……あまり宜しくないな。現実を否定するあまりに統合失調症やら解離性同一障害になんてなられたら堪らん」

「また病気が増えるのは、嫌」

「恐らく、耐えがたいぞ。アンタはその子に依存してる。自身を保とうと思ったら、他に依存先を見つけるか、それに打ち勝つ精神を身につけるか、そもそもそんな現実は起きていないと否定するかのどれかだ。アンタがそれに打ち勝つような強固な精神を持ってるとも思えんし……なんなら私に依存してみるか?」

「ヒトを代替えにするなんて、きっと畜生の所業」

「ああ、そういう自覚はあるのな。まあ、頭おかしくしたり、自殺するよりはマシかな。なあタツコ」

「うん」

「私はカナメって子を知らない。知ってるのは、カナメって子を頼みにするアンタだ。私はアンタを助けたい。幸せになって貰いたい。もしカナメって子がアンタを心から愛しているとするならば、きっと私と気持ちは同じだろうさ」

「あ、愛って……」

「だって好きだもの。恩人で、弱くて、人前でおどおどしてて、支えてあげないと死んじゃうんじゃないかって庇護欲に駆られるアンタが。その子だって、アンタを支えたいからこそ、迎えに行くって言ったんだろう。幸せにしたいから。不幸で不憫で愚かなタツコを」


 流されていると、思う。

 そうだ、ハナエはカナメを知らない。当然、重視するのは自身と私の関係性だろう。ハナエにとってカナメは、私を得ようと思った場合障害でしかない。こうして親身に話をしてくれるのだって、自分の好いたヒトが俯き加減で不幸な顔をしているのが嫌だからだ。


 このヒトは優しい。


 理屈臭いけれど、私の求める回答を与えてくれる。だから、彼女が何を考えていようとも、私はその優しさに流される。それに、この慰めは私自身が望んだものだ。


「あっ……」

「可愛い声」


 首筋にキスされた。耳元で囁かれる。鼻を宛がわれ、匂いを嗅がれる。


「――」


 無言で同意を求められ、私は小さく頷いた。

 彼女の手が、私の内腿に添えられた。くすぐったく、しびれるような感覚に、呼吸が荒くなる。滑らかな手付きが、冷え込んだ私の心を、ゆっくりと包む。


「うっ……ふっ……くふっ……」

「ちゃぁんと女の子してるじゃん。大丈夫、服、着たままで良いよ。ちょっと、恥ずかしい所弄るかもしれないけど……」


 ソファの上に横たえられ、私は顔をそむけず、彼女を見据える。

 嬉しそう、だけど、どこか悲しそうな雰囲気が含まれていた。


 失意の中、家族を捨ててまで幸せを掴もうとしたヒト。幸せになってまた、不幸を買い漁る彼女。


 愛しい人を失おうとしている今、他人に慰めを求める私は、なんて酷い女なのだろうか。ハナエが私を好いているという事実を良い事に、心の穴埋めの代替えにしようとしている。


 まさに畜生だ。私が死んだ方が良いに決まっている。


 けれど、私が死んだらカナメが悲しむ。ハナエも悲しむ。


 だから私は――私が死なない方法を、とっている。


「……好きにしてほしいの。私に貴女へ語る愛はないけれど、私は貴女が必要だから」

「自覚のあるクズは性質が悪い事この上ないねェ……」

「嫌い?」

「それに答えろってか。酷い女だ。ほら、力抜いて。任せておいて」

「……どうするの?」

「まあ、好きにするさ。これが対価だってなら、有難く頂く。妄想の一部が現実になるのは、心地良い限りだ」

「妄想の中の私は――どんな私なの」

「再現してくれるって?」

「うん」

「無理」

「なんで」

「妄想の中のアンタは、私の事大好きだから」

「んあっ……やっ……はずかし……」


 私はきっと不貞にも、その言葉に顔を真っ赤にして、いやらしい顔をしているのだろう。

 病床に伏せる彼女に想いを馳せながら、自身の不幸に陶酔しながら、慣れた手つきのハナエによる責めに、抱くだけで罪悪感に駆られるような悦びがあるからだ。


 この細い身を、この面白くない体を、優しく、好意的に、嬉しそうに、楽しそうに弄られている現実は、もはや嫌悪や羞恥を通り越して快感ですらあった。


 私を否定しないでくれる。私を深く受け入れてくれる。私の欲しい慰めを授けてくれる。私には、ハナエが女神に見えていた。それはカナメに抱く感情とは別種だ。信仰すべき神というよりも、都合の良い神様である。私の宗教はきっと、多神教だったのだろう。


 人の都合で信仰は移り替わる。教義は二転三転し、終いには信者同士で争って派閥が産まれ、どの神を重視するべきかすら異なってくる。


 今欲しい利益を、今授けてくれる神を、私は新たに生み出してしまったに違いない。


 嗚呼、本当に、最悪だ。


 私はこの、悲惨で凄惨な感情に酔っぱらっている。それを文句ひとつ言わず受け入れてくれる彼女に、私は心すら預けようとしていた。


「く、うぅ……」


 ハナエが私を後ろから抱え、下着の上から下腹部を擦り始める。まるで未知の感覚だった。そもそも私は、自慰すら殆どしないタイプの人間だ。自分で弄らないものを、他人様に弄られているかと思うと、体が火照り、頭が呆けて来る。


 こんな事をされてしまうのか。

 これから更に弄られるのか。


 ハナエの身体を弄る事を強要されてしまうのか。

 それは――どんな感覚なのだろうか。


「たぁつこ」

「……うん」

「私にも……して」


 耳を食まれ、囁かれる。

 甘く、脳を融かすような興奮した声色が、私の現実感を向こうに追いやった。


 ソファに腰かけ、下着を脱ぎ去ったハナエの前に座り込み、私は静かに、顔を埋めた。





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