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日々5

 



 その日、二年半ぶりに家族で食事をとった。

 父はテレビを見ながら食事をするような人でも、喋りながら食べるような人でもないというのに、今日ばかりは父が私に何度となく話しかけた。


 内容は父らしい。最近噂になっているSNSでの犯罪暴露をどう思うか、一体どんな精神性があったらそのような莫迦な行いをするのか、若い子達を指導するのに一番効果的な方法は何か、若者のコミュニティ形成が自分の頃とどう違うのか――大体は、若者に対する問題である。


 私は社会に属していないので体感的な意見は一つも言えないものの、客観的な立場から若者を見る若者、という意味を気にしていたらしい。


 まだ父と喋り慣れていない為、だいぶ途切れ途切れな会話となってしまったが、父はそれでも納得してくれた。母は終始、そんな話を横で聞きながら笑顔で居た。


 明日の朝食の仕込みをする母の横で洗い物をしながら、私はぼんやり考える。

 こんなにも、容易い事だったのだ。


 勿論、私は家族に恵まれていたからこそ、まだいささかの緊張はあるものの、こうして家族に顔向け出来ている。しかし恵まれているかどうかなど、一端離れた場所から窺わねば、思いの外解らないものなのである。


 世の中には筆舌に尽くし難い家庭環境を抱えた人々が暮らしている中、私という人間が幸いにも組み込まれた家族というのは、それらに比べれば驚くほど裕福で、幸福なのだろう。


 特に父だ。父は食事の後、問題があったとかでまた直ぐ会社に戻ってしまった。

 昔から厳しい人であった。ルールが守れない、社会不適合、そういった人間を見下していたので、引きこもった私など、本当に害悪としか見ていないものだとばかり考えていた。


 当然腹の内など解ったものではないが、ちゃんとした言葉で、私という娘の立ち位置をハッキリと認めてくれた事は、私と、そして父にとっても幸いだっただろう。


 形だけだっていい。本心でどう思っていようと、構わない。どうあろうと、彼はちゃんと娘として、会話してくれたのだから。


「洗い物、終わりました」

「はい、ありがとう。お茶、飲みますか」

「頂きます」


 パジャマで、髪ぼさぼさではなく、整えて、化粧をして、着替えた状態で食卓にいる今が、不思議でならない。ブックスタンドに立ててあった女性誌を手に取って食卓で眺める、なんて行為を自然としていると、まるで高校生の頃に戻ったような感覚がある。


 そうだ。何も特別なものはない。私はあの時までちゃんと、女の子だったのだから。たった二年半で、その全てが崩れさる筈がない。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 母からコーヒーを受け取り、フレッシュを二つ、角砂糖を三つ入れて掻き回す。昔からこういった飲料に混ぜる砂糖やミルクの量は多い。


 母が前に座り、機嫌の良さそうな顔を向ける。


「お父さん、ちゃんとお話してくれましたね、タツコさん」

「はい。……少し慣れませんけれど、でも、今までがまるで、嘘のように前向きです」

「お着替えしたり、お化粧をしたり。少しでも社会に関わろうという姿勢が、気持ちを盛り上げるのだと聞いた事があります。私は専業主婦ですけれど、こうして毎日お化粧もしますし、お洒落もします。それはやっぱり、いつでも外に出られる、という意識と自信が付くからですし、お父さんにブサイクな所を、見られたくないといった気持ちでもあります」

「お母様は元から美人です」

「気を抜くと、何時の間にか歳をとってしまうものだと、お母様から教わりました。私だってもう四十も前半ですからね。幸い、若いと言ってもらえますけれど」

「大変な事ですね、女性を、保っているというのは」

「はい。お父さんは体格が良くて顔も良い、私には勿体無いくらいの旦那様です。お見合いですから、ライバルが出現する間もなく結婚してしまいましたけれど、本当だったら取り合いになったでしょう。今だってそうかもしれない。だから、気は抜けませんよ」

「――お父様は、その。浮気とか」

「……んふ。あれで、奥手なんですよ。私が初めてだったそうです。私もでしたから、初夜はなんとも、気恥かしかったのを、良く覚えています……って、娘にする話じゃあありませんね」

「いえ」

「ただ、慣れというのは恐ろしいもので、普段だったらやらない事も、慣れて来ると意識が散漫になったり、ルーズになったり、マンネリ化してしまったり、するものです。だから、私はお父さんに飽きられないように、四方八方手を尽くしているんですよ。女性というのは、兎に角、面倒な事柄が多いんです」

「ごめんなさい。そこに、私の面倒事まで加えてしまって」

「……今日は、安心しました。お父さんからもちゃんと言葉を貰えた。本音かどうかは別としても、あの人は口にした事を曲げたりはしません。プライド、高いですからね。ねえ、タツコさん」

「はい」

「これから、少しずつ外に出る訓練をしましょう。人に見られても大丈夫となったら、学校に通えるようにするのも良いですし、就職というのならば、お父さんが何とかしてくれます。結婚だったら、恐らく、おじい様が直ぐにでも」

「あ、や、あ、そ、その……男性は、ちょっと」


 口にしてから、しまったと思う。コーヒーを一口してから、小さく母の顔を窺う。


「……やっぱり、男性が怖いんですね。いえ、解っていた事ではあります。過食の原因が原因でしたし」

「面倒な娘で済みません……」

「いいえ。貴女が一番幸せになれる手段を、探してください。私も当然、お手伝いします……そういえば、お隣の水木さんのお子さんですけれど」

「あ、はい。カナメさ……カナメちゃんですね」

「どうしますか。まだそんな遅い時間でもありませんし、この流れで、顔を合わせに行くのは」


 壁掛け時計に目をやる。時刻は七時半だ。恐らくカナメの母は働きに出ているだろう。カナメはあの年よりずっと幼い頃から夜は一人で過ごして来た。そんな環境が、今の『あんな』彼女を作りあげてしまったのだろうか。


 しかし、今か。それは、どうなのか。


 確かに、外に出て変な格好ではない。だが、二年半のブランクは、玄関から外へ足を踏み出す事を良しとするだろうか。


「勿論、無理強いなんてしませんけれど」

「い、いえ。折角です。少し、その、ええと、五分戻らなかったら、迎えに来てください」

「サバイバルに出掛ける訳でもないでしょうに……」


 そう、それが普通の感覚だ。けれど私からすれば、玄関の外に踏み出すなど未踏破のジャングルに装備なしで突っ込む様なものである。しかし、せめて玄関の外ぐらいには行けないと、今後お話にならない。


 私はコーヒーをぐいっと煽ってから、勢い良く立ち上がる。ゴミ袋をまとめてある箱からスーパーの袋を取り出すと、それをいつでも開ける状態にしてポケットに詰め込んだ。


「それは、何を?」

「精神的圧迫に堪えかねて、吐き気を催す可能性が」

「そう、ですか」


 母の心配そうな目線を背に受けながら、私は玄関にまで赴く。姿見でもう一度身嗜みを整えてから、下駄箱から高校の頃まで履いていた靴を取り出し、二年半ぶりに足を通す。


 玄関の扉に手をかける。自分でも驚くほどに、心臓がバクバクと音を立てていた。

 ノブを捻る。ほんの少し隙間風が入り、私の服を揺らす。瞬間閉じる。


「うわ……うわ……うわ……」


 外ならいつも出ていたではないかと、己を説得する。

 そうだ、ベランダと大差ない。ただ、もしかしたら帰宅した同じ階の人と遭遇するかもしれない、というだけの事だ。面識はあるかもしれないが、大丈夫、私の事など気にしていない。気にしていない。気にしていない。気にしていない。気にしていない。


 もう一度ドアノブを捻る。隙間風が入る。


「うう」


 ツバを呑みこみ、上がって来るものに耐えながら、私はドアを玄関戸を開け放った。


「……ッ」


 こみ上げる。慌てて戸を閉め、ゴミ袋を顔の前に構える。

 先ほど食べた夕食が丸々出てしまった。酸っぱくて、臭くて、気持ち悪くて、嫌になる。

 過食していた頃が想起され、尚更嫌な気分になる。

 突如襲い来るフラッシュバックに、私は頭を抱えた。


「た、タツコさん」

「ぐぅー……うぅぅ……大丈夫です。大丈夫」

「大丈夫な訳がありますか、戻ってください」

「こ、これ。このままだとこれ繰り返さなきゃいけないんです」

「……と、いうと」

「これを、玄関の前に来るたびに繰り返して……『今日はダメだった……』『また明日がある……』なんて言い始めるに決まっているんです……私、そうやってずっと逃げて来たんですから」

「け、けれど。顔、真っ青ですよ。無理は……」


 背中をさする母の手のぬくもりが、今の自分にとっては恐ろしいほどの誘惑である。母の許しが全てを許してしまうからだ。


「お母様は、優しいです。凄く優しくて、綺麗で、ふくよかで、私の理想の女性です……私は、お母様みたいになりたかった。でもなれません。貧相で、小さい精神しか持ち合せて無くて、卑屈で、棒きれです」

「……」

「こんな人間です。でもお母様は優しいので、逃げ道を作ってくれます。それに頼ってしまう。でも、もう、いいんです。立ち止まる事に、手を貸さなくて、いいんです、お母様。なんかもう、本当に、嫌いなるぐらい滑稽ですけれど、私今、必死なので、今逃げると、どうせまた次の日次の日と先延ばしにします。先延ばしにして、玄関まで来て、また吐いて……そういうの、駄目なんだと思います」

「タツコさん……」

「玄関を出る出ないで、自身の将来とか、展望とか、そういうの語るには、虚しすぎますけれど……今、今出ます」


 ゴミ袋の口を縛り母に預けてから、口元を袖で拭う。買ってもらったばかりで汚れてしまって申し訳ないが、そんな事も言っていられない。

 今を逃すと、虚弱精神の私は同じ事を繰り返す。

 繰り返した先にあるものはいつもの諦めだ。


 どうせ私は玄関の外にも出れず、愛しい人に顔向けも出来ないような人間であると悪い方向に達観してしまう。


 それでは駄目だ。

 もう追い詰まっているのだから。


 追い詰まったのならどうにか、別の行き先を見つけねばならない。

 そしてその行き先は、また薄暗い穴倉のような部屋では駄目なのだ。

 いつまでもベランダの民では、カナメの期待にも沿えない。


 鼻を啜る。

 涙目になりながら、もう一度玄関戸を押し開く。


「くふっ……ぐっうう……」

 こみ上げて来るものを飲みこみ、開け放たれた戸の先に、足を踏み出す。もう一歩踏み出す。


「うへ、うわ、気持ち悪い」


 秋の夜風に当たりながら、空を見上げて、そのように呟く。都会が近く、星も見えなかったが、気分は兎も角、いつもよりも、なんとなく綺麗に見えた。


「タツコさん……?」


 後ろで戸が開き、母が顔を覗かせる。私は顔をぐちゃぐちゃにしながら、一生懸命笑顔を繕った。


「外です……ベランダより、広い。ああ、誰か来そうで、おっかないです、お母様」


 視線を隣の部屋の玄関戸に向ける。ほんの数メートル先に、愛しい彼女がいるのだ。

 今、私は二年半ぶりに外に出ている。

 自身を雁字搦めにした妄執の鎖を思い切り引きちぎって外に出て来たのだ。

 代償は、何と安い事か、服一着と食事数回分だ。


「ははは」


 思わず笑う。

 私が外に居る。


 それが当たり前だったのに。


 私はちゃんと女の子をしていたのに。


 普通に恋して、普通に高校生をしていたのに。


 私の精神が、私の体が細いばかりに、こんな事になってしまった。


「私、私、お母様。私ね、女の子なんです。女の子、だったんです。何時の間にか、二十歳になって、法律上、もう大人になってしまって。でも、私は背負うものが一切無くて、ただ飯ぐらいのごく潰しで、社会的に一切認められていない、社会調査で引きこもり率を零コンマ引き上げているだけの、塵芥です……私、私、もう少し、女の子でいたかった。もう少し子供で居たかった。普通でいたかった。普通で、普通に、大人になりたかったよぅ……」


 膝から崩れ落ちる。もう限界だった。足が完全に嗤っている。


 折角新調してもらった服は嘔吐で少し汚れて、地面にしゃがみ込んだ所為で埃まみれになる。化粧をしたのに涙で流れ落ちて、口紅だって擦れただろう。


 今の自分を鏡で見られる自信がない。


「タツコさん。良く頑張りましたね。今は戻り……あら」


 母が私の肩に手を触れる。私も手を借りて立ち上がろうとした時、母の動きがピタリと止まった。


 誰か来たのだろうか。

 私は恐る恐る顔を上げる。


「――タツコ?」


 声のした方に咄嗟に目をやると、そこでは、十歳程度の小さな少女が、玄関戸から顔を出していた。


 隣の家だ。

 隣に住んでいる十歳の少女といえば、彼女しかいない。


 そしてそれは見覚えがある。ついこの前、写真を貰った、彼女しかいない。


「かな」


 思わずカナメ様、と言いかけて口を噤む。私は大急ぎで母にジェスチャーを送る。


「え、と。つ、都合が良かったですね、タツコさん。お母さん、中で控えて、ますから」

「す、すびません」


 小さな音を立てて戸が閉まる。私は顔を上げられず、地面に座ったまま彼女の反応を窺う。

 やがて彼女は玄関から出て来ると、私の傍によって、私の肩を抱く。


「なんてこと。まるで夢を見ているようだわ。隣で何事か物音がしたから出て来たら、タツコが居たの」

「か、カナメ様でいらっしゃいますか……わた、私、その、……ああ、カナメ様が穢れます。その手を解いてくださいまし」

「嫌よ。なんか、少しにおうけれど」

「うぐ……そ、外に出る時、粗相しまして……」

「そう。頑張ったのね。私に逢いたくて、出てきてくれたのかしら……顔をあげて。良く見せて」


 カナメの手が私の顔に添えられる。色々と人に見せられない状況だが、カナメに言われては仕方がない。素直に顔を上げる。カナメの顔が、実に良く見えた。


 言っていた通り、身は細く、まるで小学校の頃の私を見ているようだ。

 違う点といえば、私とは比べられない程、可愛らしいという事だろう。私が登山道に立てられた標識の棒きれなれば、彼女は高嶺に咲く山百合である。


「まあ。お母様に似ているわね。本当に身は細いけれど、貴女、何も変じゃないわよ? 服も似あってる」

「す、少し、頑張りました。ああ、お美しゅうございます。カナメ様。この気持ち、どう表せば良いのか、私では語彙が足りません……ああ、信じられない。カナメ様……カナメ様……」


 どうしようもなく涙がこぼれて来る。

 ここが外である事を忘れてしまうほど、私はカナメに夢中になっていた。


 いつも触れあっている彼女ではあるが、たった一枚の防火壁は悉く分厚かった。私のか細い腕ではそれを割る事も叶わないと思っていたのに、今こうして彼女の腕の中に私がある。


 なんと光栄な事だろう。

 なんと嬉しい事だろう。


 目の前にカナメがいる。私の愛した彼女がいる。私の愛しい女王様がいるのだ。

 私はそのまま、地面に頭を垂れる。


「……旗本竜子でございます。お初に、お目にかかります……」

「頭を上げて頂戴。こんなところ、誰かに見られたらそれこそ社会抹殺よ」

「し、しかしぃ……」

「いいから。タツコのお母様、タツコのお母様?」


 カナメが声を上げる。すると、玄関からひょっこり、バツの悪そうな顔をした母が顔を覗かせる。それも当然だろう。隣に住んでいる十歳児に頭を下げて許しを請う二十歳児が自分の娘なのだ。


「はい……」

「ごめんなさいね。色々と特殊なの。タツコのお母様。この子、少し預かっても?」

「え、ええ。た、タツコさん」

「は、はい……その、お見苦しい所を……その……なんと説明して良いか……」

「い、いいえ。お、お母さんはずっと起きているから、何時でも、戻って来て大丈夫です」

「解りました……その、後で説明しますので……」

「じゃあ、少し預かるわ」


 私はカナメに引きずられながら、水木家にあげられる。

 他人の家などいつぶりだろうか。高校生の頃も、あまり人様の家に上がり込んだりはしなかった。


 入ると直ぐに、人の家特有の、自分の家とは違った不思議な匂いを感じるものだ。カナメの家は恐らく母の所為か、少し香水の匂いが強いように思える。カナメに腕を引っ張られ、どこに連れて行かれるのかと思うと、洗面所に立たされた。


「私のメイクセットを貸すわ。あと、口もゆすぎなさい。ウエットティッシュは棚の上にあるから」

「ご迷惑おかけします」

「そんなの良いのよ、どうでも。そのままの顔見せるのが嫌なら、整えなさい」

「はい」


 洗面所の鏡と向かい合い、カナメから借りたメイクセットで目元口元を何とかする。小学生が持っているものにしては本格的なものが揃っているのは、母の影響か。


 母子家庭で母がお水ならば、そんな事もあるだろう。統計的にどう、なんて計れるものではないが、殊更体面を気にする職業であるからして、娘にも気は使うのかもしれない。それに、カナメは母を尊敬している。


(……凄い。人様の家に居る。しかもお隣さんの。カナメの。な、何してるんだろう、私)


 水で口を濯ぎながら、鏡を見て思う。

 今日は五、六年間で起こりそうな出来事が全て詰め込まれていた。そもそも私の二年半など、元から動きが無かったようなものなので、まるっきり空白である。


 化粧をして、身なりを整えて、母に顔を出し、父と話をして、家族で食事し、隣の家にあげられている。そんなの、どこの誰でも一日でやりそうなものだが、私はそういった一般には含まれていない。脳の処理がいまいち追いつかず、時折思考停止しそうになる。


 顔こそ見ずに話しているが、他人と向き合うなど、そもそも自分に出来るものだったのだろうか。ついさっきマンションの通路に出ただけで胃の内容物をぶちまけたクセに、人の家で口を濯いでいるのである。


 決意一つでこうも上手く進むものか。

 ……いや、と考える。


 やはり普段のリハビリが効いていたのかもしれない。そして何よりも、本当に直ぐ傍に、逢いたかった彼女がいる事実が、恐怖感による尻ごみよりも、前に進む事を是としたのだろう。


「カナメ様、あの」

「こっち。私の部屋」

「あ、は、はい」


 カナメに連れられ、彼女の部屋の前に立つ。扉には『かなめの部屋』という木製の可愛らしい表札がかけられている。


 部屋に入ると、そこは簡素な部屋だった。

 失礼な話だが、もっととびっきり非常識な部屋だとばかり考えていただけに、これは拍子抜けである。


 部屋の真ん中には折りたたみのテーブルが出され、お茶も用意してあった。相変わらず子供らしくない手際の良さだ。


 私はテーブルの前に腰かけ、小さく辺りを逡巡する。

 小学生が使うような木製の勉強机ではなく、金属パイプのパソコンデスクが部屋の右端にあり、ノートパソコンと勉強道具が一式並んでいる。


 左にはベッドがあってカナメが腰かけている。ぬいぐるみの一つも見当たらない。


 部屋の正面を占拠するのは本棚だ。原色が効いた漫画本は一切見てとれず、大体がハードカバーの学術書のようなものばかりである。本屋の人文書の棚を眺めているようだ。


 確かに、おかしさは無かったが、年相応かといえばだいぶ違うだろう。イマドキ漫画本の一冊も無い小学生の部屋があるものだろうか。受験戦争時代の子供でもあるまいにだ。


 しかもこれは母が強要したものではなく、本人の趣向に沿っている筈である。

 ひっそりとカナメを見る。彼女は、酷く嬉しそうに微笑んでいた。


「あの」

「なあに」

「ご機嫌が、宜しい様子で」

「当然よ。私のタツコが逢いに来てくれたのよ。これを喜ばないとしたら、私はこの世の楽しみなんてあったものではないわ」

「そんなに」

「そんなによ。あ、お茶どうぞ」

「あ、はい。いただきます……」


 味など解ったものではない。世間一般の女性で言えば、好きな人の部屋に初めてあげられた状態である。私とカナメの関係性がソレに当たるかといえば違うかもしれないが、愛してやまないという点で言えば同じかもしれない。


 カナメはいつもの調子だ。私は隔て壁の向こう側からする音で彼女の動作や仕草を推測するだけの生活を送って来たが、今まさに、視覚として目の前にある事実は、緊張と同じくらいの感動がある。


 カナメは視線を外す事なく、ずっと此方を見ている。顔は良い。もうなんだか慣れて来た。だが体の方はあまり視線を向けて欲しくはない。


「わ、私。楽しいでしょうか」

「楽しいわ。なんだかオドオドしてて。十歳児に窘められるってどんな気分?」

「解りません。緊張しちゃって」

「そう。そりゃ、そうよね。人の視線の無い生活を二年半も送って来たのだもの」


 そういって、カナメが立ち上がって傍に寄る。彼女は私の隣に座ると、床に置いた手に手を重ね、下から私の俯いた顔を覗きこむ。


 可愛らしい。陳腐だが、天使とはこの子の事かもしれないと、なんとなく思う。


 壁越しではない。彼女の体温が、全体で感じられる。あまり、私の体には触れてほしくないけれど、でも、けれど、カナメならば、そうだ――。


「あら、思いの外、否定しないわね。跳ねあがって避けるかと思ったのに」

「今、私は、カナメ様に、認められているでしょうか」

「うん? ああ、当たり前すぎて何とも思わなかったわ。そうね。確かに痩せてるけど、そのぐらいだったら別にあちこち何処にでもいるでしょ。あら、そっか。そうよね。私に認めて貰いたかったのだものね」


 頭がくらくらする。

 そうだ。今日は色々と在りすぎて、一番の目的を達成した事も流れの中に収めてしまっていた。

 カナメが、私の顔を見て、体を見て、普通に接してくれている。私はとうとうこの子に認められて、なおかつ、体にまで触れさせている。自分で観るのも嫌な体にだ。


 実感すると嬉しさと緊張で逆に吐き気がする。私はツバを三回程飲みこみ、不器用にカナメへ笑いかける。


「無理して笑う必要ないわよ?」

「あの、でも。私その、やっと、カナメ様のご希望に添えたかと思うと、嬉しくて」

「うふふ。そうね。良く頑張ったわ。私ね、凄くうれしいのよ。本当に、たった十年しか生きていないけれど、今までで、一番嬉しいの。貴女に逢いたかったわ。ねえ、タツコ」

「はい」

「抱きしめても良いかしら。嫌なら止めるわ?」


 この細い身を抱きしめるのか。触れるだけでは飽き足らず、抱きしめるのか。

 昨日母に背中から抱きしめられた時は大丈夫だった。ただ、あれは母だ。柔らかく温かく、私を一番に心配してくれている、母だからである。


 ではカナメはどうなのか。

 私はカナメに向き合い、手を握り締める。背中を冷や汗が伝うような気がした。


「怖いならやめましょ」

「い、いえ!」

「わ、びっくりした。大きな声出せるのね?」

「す、済みません。いえ。今日はその、出来る事は全部しようという覚悟でありましたので、その、ええと、是非、ああ、でも、私細いですし、骨ばってますし」

「そんなの私も一緒よ」


 何を思ったのか。カナメがワンピースをいそいそと脱ぎ始める。

 私が止める間もなく、彼女は裸になってしまった。

 何かこう、法律上、大変宜しくないような状況である気がしなくもない。しかしながら私にはそれを止める権利はない。彼女は自分の部屋で自主的に服を脱いだだけである。淫行ではない、決して。


「酷いものでしょう」


 彼女はそのように言う。私は息を呑んだ。


 ――病的である。


 例えるならば、白磁の花瓶だろう。それがシックリと来る。

 前後に凹凸は無く、ウエストは悲しく括れている。


 浮き出る肋骨が酷く生々しい。この体は脆弱に出来ているという事実を突き付ける。

 まるで幼い頃の私――いや、それより酷いか。顔がコケていないのが不思議なほどである。


 そして、この胸に穿たれた傷跡。

 手術痕か、かなり小さくはあるが、その白く肉の薄い身体では目立ちすぎる。


 だが――そのあまりの繊細さが、異様に美しく思えてしまうのは、彼女が彼女だからだろうか。


「そんな事ありません。美しいです、カナメ様」

「まあ。女児の身体を見てなんて言い草。貴女、ホンモノねえ?」

「あ、いや、その、そういった、意味はその」

「くふふ。いいの。有難う。きっと貴女ぐらいだわ、この身体に共感してくれる人は」

「あの、風邪をひきますから、服を」

「いいわよ、これで。それで、抱きしめても良いのかしら?」

「――はい」


 ここまでされては、嫌だとも言えない。此方が返答すると、カナメはゆっくり膝をついて、体重を預けて来る。どうしたものかと思ったが、私がアクションを起こさないのも無礼であるような気がしたので、その細い身の背中へと手を回す。


 本当に細い。私が力んだだけで折れてしまう、まるでガラス細工を胸に抱くような慎重さを要する。


 ただ、その身体は温かかった。手に彼女の体温が沁み込んで行く。子供は体温が高いというから、その所為かもしれない。


「ああ、本物だわ。本当のタツコが今、私の腕の中にいるのね。いえ、この場合、私が小さいから、貴女の腕の中にいるのかしら。でも、なんだかおかしいわ。酷くドキドキして、胸が苦しいの」

「ご、ご自愛くださいまし」

「違うわ。心臓の所為じゃない。こんなことってあるのかしら。おかしいわね、なんだか、本当に」


 抱きしめて、改めて彼女の懐の深さを知る。確かに、形としては彼女を抱きしめているのだが、その精神的な部分で言えば、私は彼女に抱きしめられている。


 母に抱きしめられた時は、劣等感ばかりが前面に出てしまっていた。母に対する想いは変わりないが、その肉体から来るどうしようもない否定感は、多少なりとも私を傷つける。


 しかしカナメは違った。彼女の骨ばって筋ばった身体は、けれども私を否定せず包み込んでくれる。同じくして不健康な身体をしているといった同類意識とはまた違う、言葉では言い表せない安心がある。


 抱擁とはこれの事を言うのだと、私は彼女の甘い香りを嗅ぎながら、ぼんやりとした頭で考える。


「こんな事、あるのですね」

「あるのね。驚くべき事だわ。タツコ、どう、怖い?」

「いいえ……まるで、元からこうする事が決まっていたような、安らぎがあります。何故、もっと早く、こうしなかったのかと、今になって疑問に思うほどに――不敬な私をお許しください」

「許すわ。全部許すわ。私は貴女に同情したりしないけれど、私は常に貴女の味方よ。子供で、頼りないけれど、こんな私が貴女を幸せに出来るならば、それほど幸福な事実はないわ」

「勿体無いお言葉です」


 カナメがそっと離れる。観れば、彼女は顔が赤かった。羞恥から来ているものだとすると、私もまた気恥かしい。


「カナメ様、服を……」

「少し暑いから、これぐらいが心地良いけれど」

「私が耐えられません」

「あらやだ、タツコったら。うふふ」


 いたずらっぽく笑ってから、服を着始める。

 彼女に受け入れて貰ったという高揚感、彼女の抱擁による興奮が、今まで悩んでいたものの大半を吹き飛ばしたような気がするのだ。


 勿論錯覚だろう。また次の日にはドアの外に出るのが辛いに決まっている。ただ、今までと違った未来が、可能性が、彼女によって齎されたのは紛うことの無い事実だ。


 決断のタイミングというのは常に難しい。

 正当ばかりを得ている人間なんて存在しない。特に私のようなこれと言って特徴もなく、酷い劣等感を抱えているような人間が選ぶ道は、一般人のそれよりも高確率で悲惨だろう。だが、今においては、これが一番正しい。常に恐怖と後悔を抱き続ける私にして、後の憂いを一切感じないのだ。


 こんな事は今まで無かった。

 カナメは着替え終わると、さも当然のように私の膝の上に乗り、その背を預ける。私また何の躊躇いもなく、彼女を背中から抱きしめた。


「これではまるで恋人ねえ」

「カナメ様は、良く、このような事をされるのですか」

「いいえ。初めてしたわ。母にもしないわよ」

「ではなぜ」

「んー。じゃあこうするわ。命令。椅子になりなさいな」

「え? あ、はい。どうぞ」

「したいからした、でいいわね」

「左様ですか」


 何でも良い。カナメが望む事を、今ならなんでも叶えられる。這いつくばって足を舐めろというのなら、むしろ喜んでやろう。私は元から捨てる程度のプライドすら持ち合わせてはいないのだ。


 この時間が酷く幸福であった。

 対話自体はいつもと変わらないが、声は近く、触覚があり、ぬくもりがある。カナメが質問し、私が適当な返答をする。カナメは難しそうな顔をして私に振り返り、私は小首を傾げてそれをまた適当にいなす。


 カナメはそれに満足し、笑う。私もそれに合わせて、笑う。

 腕が絡み、指が絡み、何時の間にか私達は、二人で床に寝そべり、向かい合っていた。その手は合わさったまま、ぎゅっと握りしめられている。


 満ち足りている。これが欲しかったのだ。私という脆弱な人間の、私の面倒な精神を、同情するでなく、悲しむでもなく、ただ受け入れて、温めてくれる救世主が欲しかったのだ。


「カナメ様」

「なあに、タツコ」

「凄く幸せです」

「そう。私は、貴女の心を支えるに足りたのね」

「貴女がいなければ、私はずっと引きこもったままだったに違いありません。貴女に一目逢いたくて、己を奮い立たせて、前を向きました。貴女が居たからこそ、貴女が私に言葉をかけてくれたからこそ、今こうしていられます」

「あんまり言われると、照れるわ。私は別に、純粋に貴女の顔が観たかっただけだもの」

「それだって構いません。あの、カナメ様」

「ええ、何?」

「私、貴女が愛しくてたまりません。どうしたらもっと、貴女に近づけるでしょうか」

「十分近いわよ。こうして手を握り合っているじゃない」

「――ずっとお傍に置いて頂きたいのです。私、可能な限り、全ての要求に答えられるよう、努力します。だから――あの、捨てないでください……」


 感極まっていた所為か、はたまたそれが本心だったからか。私も、良く分からないが、兎に角、彼女と離れるような未来が描けないでいた。


 相手は十歳児で、私よりも十歳下で、小学生だ。そんな女児の裸を見て美しいと言い、精神的依存ともとれる発言を繰り返し、あまつさえ捨てないでと喚く二十歳の私は、相当に気狂いだろう。


 挙句の果てに彼女は女の子だ。

 そこに性愛があるか否か、判断しかねるものの、当然『そうしても良い』と許されるのならば、私は喜んで『そう』するに違いない。


「前にも言ったわ。私は、必ず貴女を迎えに来る。大人になって、一人前になったら、本格的に貴女を召し抱えるの。私は働くわ。貴女はお家にいて、私に尽くして頂戴。やうやうしく扱いなさい。神の如く崇め奉りなさいな。それで貴女が満たされるのならば」

「是非、是非に。そうしてくださいまし」

「でも、時間がかかるの。働いて食べて行くまでに、時間が。大人になるには、時間がかかるの。だから、貴女はその間に、私に尽くす為の全てを学べばいいわ。するとなると、貴女はどうしても、外に出なきゃいけなくなる。そうでしょう」

「はい。御尤もです」

「死に物狂いで努力する。生き残る。戦うわ。だから貴女も、戦いなさい。貴女を笑う奴なんて、平手で引っ叩いてやればいい。貴女を邪魔する奴なんて、蹴散らしてしまえば良い。貴女を脅かす奴なんて、押しのけてやればいい。何も心配要らないわ。貴女には私がいるから。将来が不安? 未来が観えない? 辛くて苦しい世界では生きていけない? そんな憂いは抱く価値もないわ。貴女の価値は全て、私に集束するのだから」


 彼女という存在。彼女という保護。彼女という秩序。


 それ等の恩恵を受けて、私は生きていても良いのだという。

 閉塞感だけが支配した私の心に穴が穿たれたような気がした。カナメを慕う事で自分を保つといった保守的な価値の中には、同時にカナメを慕う事によって自身の未来に対する不安を解消するといった意味も内包されていたのだと、今になって気が付く。


 そうだ。


 この子さえ居ればよい。この子さえ認めてくれればよい。他の誰だって気にする必要がないのだ。


 水木加奈女を崇拝し生きる事によって、私の人生は灰色から輝かしいものへと変容する。

 この愛しい彼女の傍に居続ける事こそが、私なのだ。


「タツコ、泣いているの」


 熱いものが込み上げてきて、耐えられなかった。たった一人の人を、たった一つの物事を信じるだけで、こんなに幸福になれるなど、思いもしなかったからだろうか。


「ごめんなさい。お見苦しい所を」

「可愛らしい子。いいわ、幾らでも泣きなさい。あの時みたいに。あの時は、抱きしめてあげられなかったけれど、今ならこうしてあげられるもの。全ては、貴女の決意の賜物よ」


 それからの事を、私は良く覚えていなかった。

 私が溜めこんだ薄暗い気持ちの、その全てを吐き出すかのように、私は彼女の胸の中で泣き叫んだ。


 生まれつきのコンプレックス、好きだった人に言われた一言、結果普通ではいられなくなってしまった事、それから生み出された後悔の二年半、その全てをだ。


 カナメは終始私の頭を優しく撫でていてくれた。それが優しくて、嬉しくて、けれど、決して虚しい気持ちにはならなかった。人の優しさに触れる度に覚える劣等感の一切を感じなかったのだ。

 私は彼女の為に生きて行こうと、新たに決意するには、あまりにも十分だった。



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