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日々4




 私はベッドの下の収納からゴミ袋を取り出し、机の上に乗せる。母が持ってきた置き鏡は、確かリビングにあったものだ。そこそこの大きさがあり、バストアップまでしっかりと収まる。


 それを恐る恐る覗きこみながら、私はまず髪を切る準備を始めた。最後に切ったのは三か月前、工具鋏で適当に切り揃えただけであるから、その野性味あふれる頭髪加減は筆舌に尽くし難い。


 クローゼットから小さめのレジャーシートを持ちだし、それを自分の足元に敷き、ビニール袋の底に穴を開けて、頭から被る。


「……なんとも滑稽な」


 生憎美容院でチャラチャラとお姉さま方と会話しながら髪を切れるようなスキルは持ち合わせていない。不格好でも自分でやった方がマシだ。


 部屋の端からちゃぶ台を持ってきて広げ、置き鏡を据え、その前に座る。

 恐る恐る鏡を覗きこみ、徐々に態勢と姿勢を整える。


 カナメには貞子のようになっていると言ったが、あながち外れでもない。ゴムを外すと、私の髪は腰に届く程あり、何か河川敷の雑草地帯を連想させる。後ろ髪は後に回し、まずは前髪に取りかかる。


 眉を通り越しているならまだしも、量が多いのでこれは邪魔だ。

 慎重に鋏を縦に入れながら量を減らして行く。

 部屋には普段聞き慣れない、ジョリ、ジョリ、という音だけが響く。


 そんな事をしていると、酷く自分が馬鹿のように見える。どうせ外に出る気も無い癖に、体裁など整えてどうするつもりなのか。たった一人の隣に住む女児に顔を見せる為にやっているのだから、考えれば考えるほど何とも言えない気持ちになる。


 少し、梳こう。

 前髪を人差し指と中指に挟み、梳き鋏を入れて行く。あまり梳きすぎるとマヌケに見える為、これはほどほどだ。納得行く薄さにまで整えて、次は揉みあげに取りかかる。


 私は何かと器用だ。具体的なものに特化はしている訳ではないが、手作業で下手を打った記憶は無いに等しい。中学時代の美術だって家庭科だって、筆記も実技も満点だった。


「セミロングぐらいでいいよねえ……」


 傍らにある高校時代の写真を眺めながら、当時を再現するようにして伸びきった揉みあげを切り取る。パッツリと揃えてしまわないように、その手元は慎重そのものだ。


 ざらざらと頭から被ったゴミ袋を伝って、私の髪が床に落ちて行く。


「ん……器用で良かった……あー……」


 改めて鏡を見る。前側ならば何とでもなるが……やはり、後ろ髪はそうも行かない。精々梳いて減らす程度で、毛先を揃えるなんて真似は難しい。しかし他に頼るのも、引けてしまう。


 母にお願いすべきだろうか。しかしそれでは顔を合わせるどころの話ではない。ましてスッピンでは。いや、どちらにせよ、久しぶりに顔を見せる母にお願いするのは、気が向かない。


「うー……うー……」


 置き鏡とにらめっこしながら、自身の顔をまじまじと観察する。

 どうする。母にそこまで躊躇っていて、一体誰に顔向け出来るというのか。私はいつから顔面に対する視線恐怖症など患ったのか。閉鎖空間での自室警備はやはり精神を悪化させ続けるのだろう。


 身体どころか顔まで見せたくないとなれば、今後生きて行けない。未来など考えるだけでおぞましいものの、こんなちっぽけな恐怖感に身を捩り続ける人生など真っ平御免だ。


(大丈夫、少しヤツレただけ……母だって何とも思ってない。むしろ、ほら、おとといは嬉しそうにしてた。私の顔は怖くも酷くもない。私は普通。私は普通。私は普通私は普通――)


 散々と悩み、私はゴミ袋を被ったまま、手に鋏と櫛を持ち、顔に美顔パックを当てたまま、部屋を出る。


 リビングまでの距離が妙に遠く感じられた。私は母の後姿を確認すると、半身を壁に隠して声をかける。


「お、おか、お母様……お願いが、あります」

「――た、タツコさん? まあ、なんて格好?」

「す、済みません。可及的速やかに、この事態を解決したいのですが……」


 リビングでテレビを見ていた母は、その目を見開いて我が娘の奇行に驚いている様子だ。それもそうだ。鋏と櫛とゴミ袋を装備して顔面は美顔パックである。夜道で出会ったとしたら間違いなく走って逃げたくなるだろう。母も少し顔が引きつっている。


「え、ええ」

「後ろ髪を、少し切っていただきたく……」

「解りました。ええと、敷くもの……新聞紙ですね」


 母は頷くと、直ぐに準備を始める。私は敷かれた新聞紙の上に正座し、鋏と櫛を手渡した。

 まるでこれから首を切り落とされるかのような気持ちだ。


「どこまで切りましょうか。お母さんは、長い方が好きですけれど」

「セミロングくらいに……して頂けると、有難いです」

「かしこまりました、お客様」


 そういって母が私の髪に鋏を入れ始めた。ここ暫くでは考えられない大決断をした私は、ずっと心臓が早鐘の如く鳴り響いている。胸に手を当て、ゆっくり呼吸しながら成り行きを見守る。


「……懐かしいです。昔は私が切っていましたものね。洒落っ気が出てからは美容院ばかりでしたから、少し寂しかったんです」

「ご迷惑をおかけしています……」

「いいえ。それにしても、タツコさん」

「はい、お母様」

「――何か、心変わりするような事がありましたか。勿論、私はとてもうれしいのですけれど」


 母の疑問はもっともである。昨日まで毎日変わり映えのない引きこもりを続けていた私が、突然外に意識を向けるような素振りを見せ始めたら、誰だってそう思うだろう。ただそれはやはり外部的な感覚だ。


 内部的、つまり私やカナメの意識から行けば、意外とはいえひっくり返って驚く程でもない。純粋のそういった感情を口に出さず、母にも話さずいたからだ。


 二年半、殆どを家の中で暮らして来た私が抱く感情と言えば、両親や祖父母に対する罪悪感であり、世界から乖離して行く焦燥感であり、未来に対する漠然とした不安であり、思い通りにならな自分に対する憤怒に憎悪だ。


 外に出るくらい何ともない――そういった当然の意識の中に暮らしている人間からすれば、部屋から出ない人間の心理など理解不能だろう。私とて最初はそう思っていたし、引きこもり初期も、一か月もすれば落ち着くものだと考えていた。


 だが日数を追うごとに、薄暗い室内で育まれてしまった仄暗い感情が肥大化してしまうのだ。

 社会から離れてしまった自身を、周りがどう感じているのか。

 こんな細い身の人間は、外に出てまた嘲笑されるだけなのではないか。


 初期段階はこの程度だが、そういった意識が段々と外へ足を向ける気力を奪って行く。

 こんなに長い期間引きこもった人間、外に出た瞬間笑われるのではないか。


 暫く人と話していない。会話とはどうするものだったのか。

 発声を忘れた。冗談のようだが、本当に忘れた。


 そもそも、私の声は未だしわがれているのではないのか。自身で発した声を聞くのも怖い。

 相変わらず肉は増えない。むしろ減ってさえいると思える。

 肌はきっと真っ白だ。柳の下の幽霊も裸足で逃げ出すだろう。


 中期辺りから、自身に対する認識を極度に恐れ始める。周りの人間が全て敵に見えるのだ。私はこの辺りから父とも母とも会話を交わさなくなり、軽度の鬱状態にあった。

 幸いだったのは、それが重篤化しなかった事だろうか。


 躁鬱ではなく、低さを一定に保っている為、自殺など考えなかった事、引きこもりに偏重して例え夜でも外に身を晒すような真似はしたくなかった事、痛いのが極度に苦手だった事だ。


 結果自室に引きこもる幽鬼が出来あがった訳だが、大事にはならなかった。

 そして何より、母が諦めを抱きながらも、決して私との会話を途切れさせないよう努力してくれたのは大きいだろう。母との会話が、私の一応の人間性を保たせ、母の提案である日光浴が私の精神の加減を整えていたのだと思う。


 そして、彼女の存在だ。


「――隣の子」

「……ああ、水木さんの娘さんかしら」

「とても、良い子で。あの、お母様、私、声、変じゃありませんか」

「ええ。綺麗な声です」

「よかった。その、カナメさ……カナメちゃんは、とても大人びていて、良い子です」

「ベランダで会話しているのですか?」

「聞かないで貰えると……」

「そこで仲良くなったんですね」

「はい。まだ、顔を合わせた事はありません。でも、あの子がどうしても、私の顔を見たいと」

「そうですか……」

「お母様?」

「いいえ、なんでもありません。このぐらいで良いですか、タツコさん」


 母はそういって会話を止め、私に鏡を差し出す。私の器用さは母譲りだ。丁度好みの長さに切りそろえられており、私は少し嬉しくなって頷く。


「外に出るようになったら、もう少し延ばしましょう。お母さん、髪の長い子が好きなんです。機能的じゃないって、お父さんは言うんですけれど」

「お父様は、効率主義ですから」

「シャワー、使って流してください」

「はい。有難うございます、お母様」

「……ふふ。こんなに貴女と触れあったの、何時ぶりかしら」


 髪を梳いて整えてから、母は私を背中から抱きしめる。母のふくよかな身体が温かく、同時に虚しい。


 何故私はこの人の娘なのに、こんなにも貧相な体つきなのだろうか。父だってガタイが良いし、双方の両親もまたこんな体つきの者は一人も居ない。


 私は一体どこから来た人間なのだろうと、良く考える。


「骨ばっていて、痛いですよ」

「そんな事ない――そんな事、絶対にないです」

「――お母様?」

「貴女は、私の宝物です。私の可愛い可愛い娘なんです。卑下したりしないで。貴女はどこもおかしくなんてない――」


 母の啜り泣く声が、心臓を圧迫する。まるで臓腑を握り締められているようだ。全身の血管が開き、汗が噴き出す。


 母を泣かせてしまった。こんなにも優しい母を泣かせてしまったのだ。きっと今回ばかりじゃない。母は私の知らない所で、様々な重圧に耐えて、涙を流しているに違いない。


 ――何をする訳でない、何もしないからこそ――私は母を悲しませている。


 自然と流れた涙を拭おうと顔に手を当てると、美顔パックが床に落ちる。私はそのまま両手で顔を覆った。


「お、お風呂。お風呂に、入ってきます。お、お母様」

「うん……うん」

「私――私、頑張ります。まだ、時間は、かかるかもしれませんけど……わ、私、お母様、ごめんなさい。お母様に、笑顔で居て貰えるよう、頑張りますから」

「不甲斐ない母でごめんなさいね」

「そんな事有りません。お母様がいなかったら、私きっと、とっくにこの世に居ません」


 抱きしめる母の手をそっと退け、私は立ち上がって風呂場へと向かう。

 きっと限界が来ているのだ。

 母も、娘を支え続ける事に、きっと疲れきっている。


 明確な解決策は一つしかない。私がまた、当たり前のように外を歩む未来である。

 これは転機だ。

 母と、カナメに齎された、これを失ってしまった先には何も無い、それほどの、転機に違いない。


 将来への不安が明確な形を持って現れている。

 二十歳という区切り、ここを逃した先に、きっと私の幸福など存在しない。


(ほんの一歩でも、踏み出さないと)


 期待されているのだ。当然重たいが、この程度を背負えず生きていける訳がない。機会という機会を引きこもる事によって潰した私は、同時に自身も押し潰して来た。吐き気がするような将来なる漠然とした恐ろしいものから逃げる為であった筈なのに、それはまるで真綿で首を絞めるようなものである。


 丁度、その真綿も圧し切り、私の細い首は折れかかっているのだ。

 母に、カナメに、このたった二人に認めて貰うだけで良い。今はそれで良い。


(たったそれだけでいいから、ほんの少しでいいから)


 服を脱いでバスルームに入る。ごく一般的な、シャワーと湯船がついた風呂場だが、唯一おかしい点といえば、鏡に暗幕がかけてある事だろう。私は私の体を見るのが嫌で、家の鏡を割った事がある。特に風呂場は念入りに細かく割砕いた前科があった。


 流石に風呂場に鏡がないのは不便なので、今は暗幕がかけてある。

 風呂というのは自身の細い身を直視してしまう為憂鬱だが、そうも言っていられないので、さっさとシャワーを被る。


 高校の頃から変わらず使っている、取り寄せ限定のシャンプーとトリートメントは、何だかその匂いを嗅ぐ度に昔の事を思い出す。良く油分を落とす、だとか、しっかり成分を沁み渡らせる、だとか、そういった事は考えず、切ったばかりの髪を洗い流す。


 しかし一瞬、不思議な事だが、自身の髪を流し終わった後、自然と鏡を探してしまった。暗幕のかけられた鏡を見つめてから、自身の腹部に目をやる。


 体が観える。客観的に見えてしまう。それは、止めよう。今、折角前向きな気持ちに水を差しかねない。


 ボディソープで凹凸の無い、いや、骨と皮で凹凸が出来た体を洗いながら、鏡を割った時の事を思い出す。


 そんな滑稽な真似をする娘を見ながら、父は何も言わず、淡々と割れた鏡を片づけていた。

 父は私がこうなってからというもの、私に対して何も言わない。


 ただ無表情で、言葉の一つもかわさない。しかしそれは無言の圧力で、本心ではどのように思っていたのかは解らない。


 母も父については何も言わなかった。私がまともだった頃は仲が良かった二人も、私が引きこもると同時に父も仕事が忙しくなり、すれ違いが続いている。


 また、あの時のようになれるだろうか。大人の人間関係は、そんな簡単に戻ったりはしない。例え娘がまともになったところで、引き摺るだろう。


 けれど、切っ掛けにはなるのではないか。私がたった一歩踏み出すだけで、機会は産まれる筈だ。私はたったそれだけの事すらしてこなかったのだから。


 風呂からあがって体を拭き、着替えてから私は洗面台に向かう。普段なら通り過ぎるだけの洗面台も、今日はそうも行かない。


 化粧水を付けて顔を整えるなんて真似をしたのは久しぶりだ。

 幸いかどうか、肌が荒れるような生活はしていなかったし、日光浴をする間も日傘をさしていたのでシミ一つない。多少コケた頬を嫌々撫でながら、私は自室に戻る。


 部屋に戻ると早速置き鏡と睨めっこを始める。心なしか、昨日よりも顔が明るいような気がした。眉は昨日切り揃えた。産毛も剃ったし、輪郭を邪魔する余計な毛も切ったので、サッパリとしたものである。少し手を加えるだけで自分でも見られる顔になったという事実は、やはり嬉しい。


 ドライヤーをかけながら高校当時の写真と見比べる。痩せはしたが、その雰囲気は大差ない。

 乾ききった所で髪をピンで止めてから、私は顔を弄り始める。


 日焼け止めを薄く塗り、パウダーファンデを薄く叩くだけで発色が良くなる。左右に顔を振りながら調子を確かめ、昨日減らした眉をアイブロウで描いて行く。


 あまりインパクトの強い顔ではないし、濃い目の色が似あう顔でもないので、化粧は最低限だ。幾ら外に出るのが怖いとはいえ、顔が別人になってしまっては塩梅が良くない。


 アイシャドウとて最低限、マスカラはどうするべきか悩んでから、止める事にして、ビューラーで持ち上げる。睫毛は元から長い方だ。


 高校当時は外に出るとなると少し強く化粧したものだが、今となってはそれが滑稽だったのではないかと少し心配になる。


「グロス……は、うーんこれかなあ……」


 肌色に近いピンク。無難だろう。まさか真っピンクを付ける訳にもいかないし、私の顔には合わない。当時のメイク法を思い出しながらであるから、一つ一つ時間がかかってしかたない。勿論急かされている訳ではないけれど、これが二年半のギャップかと思うと少し憂鬱になる。


「……先に服着れば良かった」


 有る程度整えた後、自身がパジャマのままである事に気が付く。髪を後回しにして、私はクローゼットから高校当時に来ていた私服を引っ張り出して並べる。秋口であるからして、そこまで厚着は出来ないものの、私は肌を晒したくない。


 私の趣味、母の趣味は大体合致している為、自分で購入した服も、母が購入して来た服も、大体がどこかお嬢様風味で安っぽさがない。私の安っぽい顔から考えると多少ギャップはあるものの、高校当時はそれで満足していたので、クローゼットに収められているものは、シックだけれどワンポイントが強烈なものか、ヒラヒラが多いものか、どちらかだ。


 当時とはだいぶ意識の違う今、どれを選ぶべきか。


「これは……ウエストがはっきりしすぎ。これは、胸が。こっちはお尻。……あ、ワンピ」


 クローゼットとは別に据えられた服が数着ある。これは母が買って来たものだ。

 少し大き目で黒を基調にしたワンピース。スカートの縁と襟、袖に白い細目のフリルが付いている。ウエストこそ締まっていないものの、やはり胸は気になるので、これはパットで何とかしよう。


 ブラは……2サイズ大きいものだ。パットを固定出来るものを選んで胸に詰め込み、これを収める。昔から、これをするたびに虚しい気持ちになる。


 中に白いシャツを着て、そこにワンピースを被り、足のラインを何とかする為、膨張色の白ニーハイソックスを穿く。


「あ、案外いけるかな……こんなに整えたの、凄い久しぶりだし……」


 姿見がないのでいまいち全体像がはっきりしないものの、酷いものではないという確信があった。改めて置き鏡の前に座り、母が寄こした髪留めの中から、黒い鼈甲のものを選ぶ。桜の柄が幾つもちりばめてあり、恐らく祖母から譲り受けたものだろうと解る。


 年季が入っているものの、高級感があるのは流石良いところの娘だ。


「……う、む。全身が解らない」


 柔らかめの香水を薄くつけてから、自身の服を翻しつつ、どうなっているか確かめる。置き鏡では全体が観えない為、玄関の姿身を確認するしかない。


 私はそっと部屋を出て廊下を行き、母を気にしながら玄関にまで赴く。

 ぎゅっと目を瞑ったまま姿見の前に立ち、ゆっくりと開いて自身の姿を見定める。


「――うん。うん。うん――うん」


 どうだろうか。自身の記憶にある、あの頃だろうか。やはり細い。それは仕方ない。あの頃だって細かった。しかし、髪ぼさぼさでパジャマで疲れた顔をした私とは、かけ離れたものになっている。


「あら、タツコさ――」

「お、お母様」

「――ちゃんとお化粧も覚えていたんですね。服も、良く似合っています」

「は、はい」

「身体のラインが隠れるから、丁度良いと思ったのですが、どうですか」

「え、ええ。大丈夫です」

「……可愛いですよ。ほら、こっちに来て、良く見せてください」


 母に連れられ、リビングに赴く。


「え」


 そこには……朝になって帰宅した父の姿があった。

 私は息が止まりそうになる。私が化粧をしている間に帰って来たのだろうか。

 父は此方を見ると、その目を見開いた。


「タツコ、か」

「は、はい。お父様……その、あんまり、見ないでください」

「何を言うか。ミチ、これは?」

「外に出る努力を、するそうです。アナタ、見てあげてください。ほら、うちの娘は、こんなに可愛らしい」

「――」


 父の言葉が恐ろしい。

 父は私に対して、何も言わなかった。その無言の圧力が、恐怖以外の何ものでもなく、どんどんと怖れだけが肥大化していったように思える。


「タツコさんは、変なんかじゃありません。少しだけ臆病になってしまっただけです。あの時、私達はこの子を支えてあげられませんでした。もっと上手く立ちまわれていたのなら、娘を部屋に閉じ込めるような真似はせずに済んだ筈です。アナタも、それを後悔していたじゃありませんか」

「そう、だが」

「アナタのプライドが高いのは、知っています。でも、お願いです。今なんです。やっと顔を出してくれた、この子に、この子に報いるのは、今なんです」


 父と母の間に、どのような事があったのか、引きこもっていた私には解らないし、母もそれを語らなかった。ただ良好で無かった事は確かであるし、それは私が原因である事は理解していた。


 しかし、もっと明確な、具体的な、私と喋らなかった理由がある。

 父はプライドの高い人だ。

 生まれながらにして何不自由なく暮らしてきて、勉強も出来た。仕事とて順調である。

 家柄が良く、学歴が良く、妻は美しく、自身もまた美丈夫だ。


 そんな彼が受けた唯一の傷。

 人生における汚点、それが、私だ。


「……願いです。アナタ。この子を見てあげてください。アナタの子です。私達の可愛い娘なんです」

「――ミチ」


 その汚点を、外に晒したく、なかったのだろう。


「タツコ。久しぶりに、顔をみたな」

「……はい」

「その。母さんに似て、お前は美人だ」

「お、お父様?」

「俺は、お前にどう接してやるべきなのか、まるで解らなかった。言い訳でしかない。勿論解っている。だから許してくれとは言わん。俺は父親として、娘のお前に向き合おうとしなかった」

「お父様はその、良く出来たヒトですから」

「ああ。生憎劣等感なんぞ理解出来ん。それが元でな、部下にも嫌われっぱなしだ」


 何においても上の方上の方を歩んで来た父だ、下の考えを理解しろという方が無理なのかもしれない。まして二十歳になって引きこもる娘の精神性など、どれほど考えた所で共感は不可能なのだ。


 ただ父が賢明なのは、それを解っている事だろうか。

 だからこそ……余計な事を言わず、娘と会話すれば衝突か、傷つけるかどちらかだと理解した上で、あのような態度をとったのかもしれない。


「アナタ」

「だが。前を見るというのなら、引っ張り上げるぐらいの心持ちはある。やる気のない人間を幾ら盛り立てた所で意味がないというのは、誰でも解る事だ……いつでも言え、外に出たくなったら、働く場所ぐらい用意する。勉強がしたいのなら、夜間に通え。私に出来る事は、働き口の紹介か、金を出す事ぐらいだ」


 引きこもって以来、久しぶりに父の声を聞き、父の顔を見た。

 強い口調ではあるが、悪意はなく、むしろ自責すら感じさせるものがある。私をこうしてしまったと、心の底では後悔しているのかもしれない。


 全部私が悪いのに。


「ごめんなさい、お父様」

「いい。結果を出せ……いや、これがいかんのかな、すまん」

「ううん。そんなこと、ありません。私は、お父様が立派な人で、尊敬しています」

「タツコさんは、良い子ですから。ねえ、アナタ」

「――ああ。お前は可愛い、私達の娘だ、タツコ」


 私は、いま、一体、どんな立場に立っているのか、良く分からなくなってしまった。


 本当に、昨日まで部屋から出る事すら怯えていた人間だったのだろうか。

 門は常に開かれていて、周りの人達は元から何も拒んでなどいない。社会は私など気にしておらず、そんな悪意は満ちていない。


 全部解っていた筈だ。それを理解した上で引きこもっていた。なのに表へと出ようとしなかったのは、きっと自身のくだらない自尊心が、本当の意味で理解などしておらず、自分可愛いあまりに周りを犠牲にしてまでくだらない精神性を保とうとしただけなのかもしれない。


 父と母が、私の肩を抱く。

 折角化粧をしたのに、涙で流れ落ちてしまう。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 


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