日々3
日傘をさしながら、ベランダで外の景色を眺める。毎日変わり映えのない情景だけに、多少の変化でも直ぐ気が付く事が出来た。
二本向こうの通りにあるマンションの六階に、新しい入居者が来たようだ。
毎日同じ時間に通る筈の散歩のお婆さんが見当たらない、体調が悪いのだろうか。
一本先のアパートの窓が全開だ。昼間からお盛んな事で、行為が丸見えである。良い身体の女性だ。
同じ通りの右正面、三階建ての一軒家。奥さんが来客に応対して迎え入れるが、セールスマンには見えない。あそこは旦那様が単身赴任をしていた筈だから、恐らくそういう事だろう。
私は双眼鏡を傍に置き、改めて椅子に座る。昼間からこんな事をしている人間があとどのくらいいるだろうか。もしかしたら、私も監視されているのかもしれない。
でも許してほしいのだ。今のところ、私にはここしか外が無い。勿論誰にも言わないし、悪い事も良い事も、どこに漏れる心配もないのだから。
やがて隣のベランダ戸が開く音が聞こえる。スリッパを引きずるような音で、直ぐカナメであると解った。
「おはようございます」
「ちゃんと挨拶出来たわね。おはよう、タツコ」
カナメが隔て壁に寄りそう音が聞こえ、私もそちらに近づく。彼女も向こう側に椅子を置いているらしく、私達は壁を隔てて背中合わせをしている状態だ。何故こんな事をするのかと言えば、カナメの要請を受けたからである。
手しか触れられないのは寂しいので、せめて壁ごしでも密着できるようにしたいという。気恥かしい話だが、少しマセタ甘えん坊と捉えれば可愛いものだ。問題は私がそうは思っていない事である。
「今日は何かありましたでしょうか」
「隣の席の恵子が、筆箱を忘れたのよ」
「はい」
「私は鉛筆と消しゴムを貸したのだけれど、シャーペンが良いというの」
「なんとも不敬な子ですね」
「仕方ないから私のお気に入りを貸したわ。戻って来たら芯が二本も減っていたけれど」
「ケイコさんはなんと」
「まあでも、笑顔を貰ったから、それでチャラよ」
「カナメ様は御心が広い方です」
昨日はだいぶと変則的だった。普段はこうして、まず学校で何が起きたかを聞き、私が受け答えをする。その内容は重要視されず、私と彼女が会話をする切っ掛けこそが大事なのだ。
会話という方法を忘れかけていた私は、彼女のお陰で会話の他愛なさを思い出した。長い間引きこもっていると『どういう話題で話しかけよう』なんていうくだらない妄執に取りつかれる事がある。
「タツコ、今日はどんな加減かしら」
「良好です。お気遣いありがとうございます」
「いいのよ。私も今日は調子が良いわ。今日が早いのは、元から昼上がりの日だったの」
「左様ですか。記憶が確かならば、昼で切りあげというのは、妙に楽しい気持ちになるものです。カナメ様は、他の子と遊んだりはしないのでしょうか」
「遊ぶとなると、ゲームをするでしょう。私はああいうの苦手なの。外ではしゃぎ回る体力もないしね。ああ、安心して頂戴。嫌われているとか、教室八分にされているとか、そんな事ないわよ」
「存じ上げています」
身体が弱い彼女は、学校こそ行くものの、他の子と遊んだりはしない。彼女の話が本当かどうか、それを確認する術はないものの、いつも私に報告するカナメ像は、クールな一匹狼だ。時折周りと戯れてはそれを反省する節がある。
早すぎる中二病、とも思ったのだが、彼女の意見はハッキリしているし、変に幻想を抱くような事はしない。口ばかりの自尊心かと思えば、そうでもない。一度通知表を見せて貰った事もあるが、体育以外は全て平均以上、特に算数と国語は得意な様子だ。
彼女は周りと違う事を自覚し、それを体現しながら、周囲から邪険に扱われないよう振る舞っている。
「それに、貴女とお話しなきゃいけないわ。何よりの楽しみを、すっぽかせないでしょう」
「有難うございます」
私は声色で彼女の機嫌と体調を把握する。
彼女の言う通り、本当に調子が良く、機嫌も上向きである。こういう時はいつも、少しだけ鼻息が荒い。ただ興奮するようなものではなく、鼻から空気がスゥと抜けるようなニュアンスがどこかにある。
顔が解らないと、こんな事ばかり気にしてしまう。
「私ね、少し考えている事があるの」
「どういった事でしょう」
「大人よ、大人。タツコは私よりも十歳年上で、法律上は大人よね」
「不甲斐ない大人ですが、法律上はそうです」
「そうそう。大人っていうのは、自身の生活を自身で支えられるようになってから名乗れという風潮があるけれど、そんなの核家族化した現代においての話であって、昔は複数人の親族で家を支えるのが当たり前だったでしょう。私、この良く分からない大人の定義、凄く嫌いなの」
「現代では自立が大人の指標のようなものなので、仕方がない事だと思います。それにやはり、大人を名乗るなら、自身で食べていけるぐらいでないと、世間が厳しいですし、そのような先入観で育てられた現代人は、自身で食べていけない事を後ろめたく感じると思います」
「貴女はそうなってしまった経緯に詳しいかしら」
「いえ。自主自立は欧米的価値観であるという事ぐらいしか。日本には家族を重視する家長制の気風が有りましたし。儒教国は更にそうかもしれません。それで、カナメ様はどこが不満なのでしょう」
「私はお父様がいないわ。だから大人の男というと学校の教師ぐらいしか知らない。でもそんな人達も案外子供っぽいでしょう。収入はあるかもしれないけれど、精神的にどうなの、と聞かれた場合答えられるのかしら」
「なるほど」
細かい事は良く分からないが、兎に角大人というものの意味が漠然としているから、納得する答えが欲しい、もしくはそれで私と会話したい、というだけだろう。
私もそんな議論しても答えが出ないようなものに対しての造詣など深くない為、上手く答えられるかは解らないが、カナメが納得しそうな理由はいくつか思い浮かぶ。
「近年まで女性が職についていなくても、扱いは家事手伝いでしたが……良く分からない社会学者がニートと名付けて、それが広まり、無職イコール社会的に一切地位の無い人、のようなイメージが先行してしまったように思います。私などは正しくごく潰しで、精神的にはどうか解りませんが、社会的には子供でしょう」
「じゃあ、貴女が家事手伝いをするようになれば、多少はマシに見られるかしら? 違うわよね」
「出来あがってしまったイメージというのは、そう簡単に取り払えるものでは有りません。私が手伝いをしたところで、大人として未成熟と見られたままでしょう」
「貴女の実家は良いところよね。見合い話とかないのかしら。流石に妻ともなれば、家に居ようと大人扱いでしょう」
「以前はありました。ただ、この通りですので。それに、男性は」
『あの棒きれみたいな女、どこの男が付き合うんだよ』
『触ったら折れそうだよな。ゴツゴツしてそう』
「……男性は、しばらく良いです」
「ま、そんな言葉が返ってくるんじゃないかと思ってたわ。結局男によって地位が決められるのよね。悲しい話だわ。でも、それをなんとかしようっていう女性が少ないのも事実じゃないかしら?」
「と、いうと」
「私のお母様は夜のお店で勤めていて、人気だから、色々な人からお話を聞くのよ。そこで会社のお偉いさんが『女性管理職を増やしたいのだが、なりたがる人がいない』というらしいの」
「……たぶん、責任が増えるからじゃないでしょうか。女性は安定志向になりがちで、抱え込む様な仕事をしたがるのは、ごく一部なのかもしれません」
「そういう考えって、どこから来るのかしら。常識? 教育? 文化? 社会情勢? 諦め?」
「複合的な要因が多いので、なんとも。勿論『家庭におさまる』という常識が未だ強いのは、あると思いますが。ええと、それで、大人というものですが。カナメ様はどのような人が大人だと思うのでしょうか」
「お母様は大人だと思うわ。あと、やっぱり子供がいると、大人と思えるわね」
「私などはどうでしょう」
「――ふむ。お友達、という事もないわ。同年代とも思えないけど、でも、大人って言われると、違うわね」
「つまるところ、結局、背負っているものが、あるか、ないか、ではないでしょうか。一概に何を背負っているか、なんてことは解りませんが、やはり守るべきもの、貫き通すべきものを持っている人は、違うと思います」
「大人は、大変ね」
そういって、カナメは黙りこんでしまった。納得したのだろうか。
こういった問題は、何かと衝突しやすい。他の誰かと議論しろ、なんて言われた所で私は逃げるだろう。チャットだろうとSNSだろうと願い下げだ。カナメだからこそ付き合うものである。
「私はどうかしら」
唐突にそのように言われ、私は視線を宙に泳がせた。
カナメは……子供らしくないが、何かを背負うには小さすぎるし、小学生だ。
しかしながら、彼女と会話していると、私は何とも水槽を漂うクラゲにでもなったような虚無感がある。私と彼女を比べた場合、何かを必死に背負おうとしているカナメの方が、余程大人なのだ。
「私よりも、大人だと思います。ただ、社会がそれを認めてはくれないでしょう」
「ふふ。貴女らしい答え。私、そういうカンジ、凄く好きよ」
「ハッキリとした答えの方が、好ましいのでは?」
「生憎外でハッキリしすぎると、煙たがられるものなのよ。社会適正は貴女の方が上ね」
隔て壁の隙間から、細く小さな手が伸びる。私はそれを握り締めた。
とても冷たい。私の手よりも幾許かは健康に見えるが、それでも他の子に比べてしまえば細いだろう。そんなか細く小さな手で、彼女は背負おうとしている。恐らくは、自身の誇りを、そして、私をだ。
彼女は孤高だ。
たった一人の家臣であり下女であり民である私を守ろうとする、ベランダの女王である。
こうして手を触れる事すらも畏れ多い筈なのだ。
私は常に、彼女から許され、与えられる立場にある。社会不適合者の妄想と罵られようと、意思薄弱者の逃避と言われようと、こればかりは、私は譲る気など一切ない。
私という人間を認め、私の存在を保障し、私の精神衛生を守り、私に意味を与えてくれる彼女は国であり王であり、法を敷く神である。
初めて出会って打ちのめされて以来、私の心は彼女に服従している。
十歳児にして聡明で、誰よりも大人になる事を望んでいる彼女を、私は慕い続けたい。そしてなるべくならば、彼女の要請にも、答えてあげたい。民ならば、尽くさねばならない。
今まではその奉仕は会話であり、問答であり、こうした触れあいであった。当然それでは足りぬと解っていても、私にはどうする事も出来なかったのだ。
私は彼女の顔を直接見たことがない。彼女もまた、私を見たことがない。
「私は、立派な大人になりたいわ。貴女を虐げる人から守れる人間になりたいの。でも、その望みを叶えるには、時間がかかりすぎる。その間、貴女と離れてしまうかもわからない。貴女は泣いていたわ」
思い出す。彼女に出会って一か月経った頃の事だ。
彼女や母との会話で心が明るくなる半面、外に対する興味と同時に、嫌な思い出が想起されるようになった。それは上向きになる精神と対になり、下方へ修正しようとする。
行動、言動が過去の出来事に結びついて想起される、人間である限りは避けられない脳の働きは、逃避中の私にとって絶大な威力をもって迫りくるのだ。
……あの日は酷い土砂降りだった。
ベランダを超えてやってくる雨を傘で受けながら、私は隔て壁の端で蹲っていた。日に日に高まる自信と、それを押しつぶそうとする保身の心にもがき苦しむ。そんな日は部屋に引きこもっていれば良いものを、私は外に出ていた。
おそらくカナメに救いを求めたのだろう。しかし、彼女はいつもの時間になっても現れなかった。降りしきる雨の空を眺めながら、思い出したくも無い過去を追想し始める。こうなってしまうと、どうする事も出来ない。呼吸が止まりそうになり、心臓がドクドクと脈打つ。
『なんでお前が』
『聞いてたのか』
『だってよ、瀬能、ほら、返事してやれよ』
『旗本さん……その』
彼等との会話がリフレインし、脳と心臓が押し潰れて一緒になってしまいそうだった。座っているのに眩暈がし、椅子から落ちそうになる。
傘がベランダの床に落ち、雨が直接私の肌に当たる。
頭を抱え、身悶えし、そのまま飛び降りたくなるような後悔と絶望が襲う。
もう終わった事、などという慰めは何一つ意味はない。私のような人間は小さい事を何時までも、昨日の事のように覚えていて、思い返すたびに絶望的な気分になる。
助けてほしい。ワガママである事は重々承知している。辛いのならば誰かに相談すればよかった。けれど私にはそんな甲斐性も無く、ただ笑顔で人様に振る舞う事しか出来なかった。
己の細い身を呪う。
己の小さい心を呪う。
自責の重圧は決して消える事なく、終わる事なく、私を圧迫し続ける。
『タツコ、タツコ』
そうだ。だから私には、救済者が必要だった。面と向かって慰める訳でも、同情する訳でなく、まるですっかり私の面倒くさい欲求を汲み取るような、そんな都合の良い救済者を求めていた。
『タツコ、泣いているのね。好きなだけ泣くと良いわ。私は決して慰めない。同情したりもしないわ。私にはそんな資格も経験も無いのだから。でも傍には居させて頂戴。私に出来る精一杯はこれしかないの。さあ、手を伸ばして。私の手を触れて。貴女の私はここにいるわ。今日は遅れて、ごめんなさいね』
隔て壁の隙間から伸びる細く、神々しいその御手は、正しく福音である。
私はただそれに縋りつく事だけを望みここに居た。
彼女は安っぽい言葉で慰めたりしない。
知りもしない辛さを分かとうともしない。
彼女はそこに居て、私の存在を認めてくれる。
「タツコ、どうしたの」
「あ、えと。何でもありません。失礼しました、カナメ様」
「いいのよ。ずいぶん愛しそうに私の手を握るものだから、少しドキドキしたけれど」
頬を撫で、意識を現実に振り戻す。私の手には確かな感触があった。
人の手だ。それは幼く、細く、頼りなく見えるかもしれないが、私にとっては唯一無二の救済だ。この細い手が愛しい。この先にいる彼女が愛しいのだ。
「あの日の事を思い出していました。情けないお話です」
「馬鹿を言っちゃいけないわ。私は、貴女に必要とされる人間になりたいのよ。だからこれは、実に好ましい事だわ」
「有難うございます。本当に、有難うございます、カナメ様」
「ええ。いつでも言って。こんなか細い手が貴女の為になるならば……」
何かを言いかけて、カナメは手を引いてしまった。多少不思議に思ったが、長い間壁に張り付いていたら、腕も疲れるだろうと納得する。
「……それで、最近はどうかしら。少しは、顔を見せる気になった?」
「お母様に、化粧道具とお洋服をお願いしました」
「まあ、本当に? 外に意識を向けるだけでも、余程の進歩だわ、貴女も賢明になったのね」
「近いうちに、はい。頑張ろうと、思います。顔は元から、視線恐怖症でも、ありませんし。ただ、ブランクがあるので、なんとも」
「……急いてしまったかしら」
「とんでもない。カナメ様のご厚意あってこその、私です。いつかはそのような日も来るのではないかと、考えていました。ただその、相変わらずあまり肌は晒せないので、ご容赦ください」
「ふふ。何も裸になれなんていってないわ? 見せてくれるというのなら喜んでみるけれど。ま、そう構えない事よ。私だって人様に見せられる程、健康的な身体はしていないわ。腕も脚も細いし、肋骨は浮いているし、今後胸なんて出るのかしら」
「お母様を見て、私も小さい頃同じような事を考えました」
「貴女のお母様、とても女性的で美人よね。お父様も美丈夫」
「逢った事が、あるのですか」
「ええ。貴女、私をどこの住人だと思っているの? ネットでも夢の国でもなく、隣の家よ?」
「左様でした」
小さい笑いが起こる。あまりにも現実からかけ離れた彼女が、まるで別世界の生物のように思えてしまうのも、全てはこの隔て壁故だろう。
この薄い壁の向こうには、身は細かれど可憐な乙女が居る。我が女王が坐しているのだ。
「少し、ワガママを聞いて貰っても良いでしょうか」
「何かしら。貴女から何か求めるなんて、初めてね」
「大変不敬な事だとは承知の上です。もし、私の精神が恐怖よりも貴女に対する敬愛が上回り、あらぬ行動をとってしまったとしても、許して貰いたいのです」
「それは、私と顔を合わせて、貴女が感極まってしまった場合の事、で良いのかしら」
「――はい」
「むしろ望ましいわ。そうして頂戴……今日は、この辺りで失礼するわね。タツコ」
「はい」
「……急かしてごめんなさい」
スリッパを引きずる音、そしてベランダ戸が閉まる音が聞こえ、私は眼を瞑る。
確かに彼女は最近急いていたかもしれない。だが、それが私に対する好意の現れであると考えると、酷く気恥かしい。私は両手でだらしない顔を隠す。
もし、彼女に顔を合わせ、そして彼女が受け入れてくれたのなら、私にはもう、怖いものなど一つも無くなるのではないか、そんな期待がある。
当然それと同等の不安もあるが、あの愛らしい彼女をこの両手に抱けるとしたならば、きっときっと、私は前に進める気がするのだ。
「これは」
これは、どのような『よろこび』なのだろうか。
どのような『不安』なのだろうか。
私は、今後彼女と――どう在りたいのだろうか?